祇王寺
祇王寺 | |
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所在地 | 京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町32 |
位置 | 北緯35度1分24.2秒 東経135度40分0.3秒 / 北緯35.023389度 東経135.666750度座標: 北緯35度1分24.2秒 東経135度40分0.3秒 / 北緯35.023389度 東経135.666750度 |
山号 | 高松山 |
院号 | 往生院 |
宗旨 | 浄土宗 → 古義真言宗 |
宗派 | 真言宗大覚寺派(嵯峨御所 嵯峨山大覺寺門跡末) |
本尊 | 大日如来 |
開基 | 念仏房良鎮 |
正式名 | 高松山往生院祇王寺 |
法人番号 | 5130005002239 |
祇王寺(ぎおうじ)は、京都市右京区の奥嵯峨にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。寺自体は尼寺である。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。
歴史[編集]
法然の弟子・念仏房良鎮が創建したと伝えられる往生院の旧跡[1]。
寺号は、平清盛の寵愛を受け、のちに捨てられて出家した白拍子の祇王に由来する[2]。『平家物語』『源平盛衰記』によれば、若い仏御前にその座を奪われ、清盛の邸を追われた祇王(21歳)が、妹の祇女(19歳)、母の刀自(45歳)と共に尼となったのが嵯峨の奥、往生院の庵で、のちに“いつか我が身も同じ運命”と悟った仏御前(17歳)が旧怨を捨てた祇王母子に加わり、四人で念仏三昧の余生を送ったという[2]。
中世以降衰退を辿った往生院は明治に入って廃寺となり荒れ果てた。廃寺となり残った墓と木像等は、旧地頭大覚寺によって保管された。その時の大覚寺門跡楠玉諦師は、これを惜しみ再建を計画していた時、1895年(明治28年)に北垣国道(第3代京都府知事)が嵯峨にある別荘の一棟として寄進した茶室を本堂とし、大覚寺の管理の下、古典故事の旧跡として再興を遂げた[3]。此れが現在の祇王寺の建物である。こういったことで、祇王寺は大覚寺の塔頭で真言宗である。[4] 以後約7年間は京都の水薬師寺の六条智鏡尼(眞照師)が住職を兼務したが、主に若い尼僧が交代で留守居していたに過ぎず、智鏡尼の他界後は長く住みつく尼もなく衰微し、無住となって再び荒廃した。1935年(昭和10年)[5]からは東京新橋の元名物芸妓照葉こと高岡智照が庵主・智照尼として入庵し、寺男として寝起きを共にした又従姉弟と共に、その復興発展に尽くした[3][6]。拝観料の徴収を始める昭和37年までは、大原孫三郎、村松梢風、長島隆二ら篤志家による布施や喜捨のほか、智照尼の筆による短冊や色紙の頒布料で庵室を支えた。
本堂内には本尊の大日如来のほか平清盛と四尼僧の木像が安置され、境内には清盛の供養塔と祇王姉妹らを合葬した宝篋印塔が建立されている[7]。苔の庭で知られ、秋の散り紅葉が見事[3]。
所在地[編集]
交通アクセス[編集]
- 最寄鉄道駅
- 最寄バス停留所
脚注[編集]
- ^ 光明正信, 塚本珪一『京都の散歩みち』山と渓谷社、1982年、131、132頁。
- ^ a b 光明正信,塚本珪一『京都の散歩みち』山と渓谷社、1982年、132頁。
- ^ a b c 山本四郎『京都の歴史散歩 中』山川出版社、1995年、136頁。
- ^ 昭和50年代の『祇王寺』拝観パンフレットより
- ^ 高岡智照『祇王寺日記』講談社、1973年、3頁。
- ^ 石田孝喜『京都史跡事典』新人物往来社、2001年、66、67頁。
- ^ 石田孝喜『京都史跡事典』新人物往来社、2001年、67頁。