丹羽龍之助
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丹羽 龍之助(にわ りゅうのすけ、1847年5月17日〈弘化4年4月3日〉 - 1914年〈大正3年〉2月9日)は、日本の宮内省官僚。佐賀県士族、肥前藩士。
式部官 兼 式部主事、久邇宮家令、小松宮家令、宮中顧問官などを歴任した。
経歴
[編集]- 弘化4年4月3日、肥前藩士の丹羽内蔵進と同藩士朝倉孫右衛門長女みちの長男として生まれる。
- 明治3年6月8日 – 任 少舎長[1]
- 明治4年10月 - 免官、留学。[1]
- 1873年(明治6年)12月 - 海外留学を免ぜられ私費留学生となる[1]。
- 1876年(明治9年)12月 - 帰国[1]
- 1877年(明治10年)12月22日 - 御用掛、但し判任に準ずる取扱にて月給六十円付与。法制局勤務[1]。
- 1878年(明治11年)5月14日 - 御用掛、但し奏任官の取扱にて月俸八十円下賜[1]。
- 1880年(明治13年)1月20日 - 自今月俸百円下賜[1]。
- 1881年(明治14年)8月20日 - 廃官、任 外務書記官、ドイツ公使館在勤、但し年俸英貨五百八十ポンド下賜[1]。
- 1882年(明治15年)10月20日 - 自今年俸英貨六百三十ポンド下賜[1]。
- 1884年(明治17年)6月28日 - 交際費補呈として銀貨二百円下賜[1]。
- 1885年(明治18年)4月23日 - 任 式部官[2]、六等官相当、年俸千二百円下賜[3]
- 1886年(明治19年)2月15日 - 奏任官三等、年俸千三百円下賜[1]。
- 1887年(明治20年)3月9日 - 近々ドイツ帝国フリードリヒ・レオポルド親王来航に付き迎接として神戸港へ出張[4]
- 1888年(明治21年)3月8日 - 兼任 式部主事補、奏任官三等、中級俸下賜[5]
- 1889年(明治22年)3月16日 - 賜上級俸[6]
- 1890年(明治23年)3月4日 - 第三回内国勧業博覧会事務委員[9]
- 1891年(明治24年)3月18日 - 賜四級俸[12]
- 1892年(明治25年)3月16日 - 兼任 久邇宮家令、叙 五等[13]
- 1893年(明治26年)3月28日 – 免 書記官事務補助[1]
- 1894年(明治27年)3月7日 - 賜三級俸[1]
- 1895年(明治28年)4月14日 - 小松宮家令長崎省吾不在中代理家令事務兼勤[15]
- 1896年(明治29年)5月13日 - 第二回水産博覧会事務官[18]
- 1898年(明治31年)12月28日 - 賜三級俸[1]。
- 1899年(明治32年)10月27日 - 叙二等(式部官)、叙三等(宮内書記官)、免兼 式部主事、外事課勤務兼勤[20]
- 1901年(明治34年)10月14日 - 群馬県下行幸供奉、群馬県下行幸会計主務官[21]
- 1902年(明治35年)12月15日 - 賜二級俸[1]。
- 1903年(明治36年)12月26日- 補 外事課次長[22]
- 1904年(明治37年)12月21日 - 賜一級俸[1]。
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年事件ノ功により金三百円を賜る[23]。
- 1907年(明治40年)11月12日 - 茨城県下行幸供奉[24]
- 1908年(明治41年)1月1日 - 免兼官、賜一級俸[25]
- 1911年(明治44年)5月6日 - 兼任 宮中顧問官、叙高等官一等[27]
- 1914年(大正3年)2月9日 - 薨去。墓所は青山霊園。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1880年(明治13年)6月8日 - 正七位[1]
- 1882年(明治15年)11月17日 - 従六位[1]
- 1891年(明治24年)12月4日 - 正六位[28]
- 1896年(明治29年)7月20日 - 従五位[29]
- 1899年(明治32年)11月20日 - 正五位[30]
- 1904年(明治37年)11月30日 - 従四位[31]
- 1909年(明治42年)12月10日 - 正四位[32]
- 1914年(大正3年)2月9日 - 従三位[33]
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[1][34]
- 1890年(明治23年)12月26日- 勲六等瑞宝章[35]
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)6月30日 - 勲四等瑞宝章[37]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 明治三十七八年従軍記章[38]
- 1908年(明治41年)6月25日 - 勲三等瑞宝章[39]
- 1914年(大正3年)2月9日 - 勲二等瑞宝章[33]
- 外国勲章等佩用允許
- 1884年(明治17年)12月15日 - ドイツ帝国:赤鷲第三等勲章[40]
- 1891年(明治24年)6月1日 - オスマン帝国:美治慈恵第三等勲章[41]
- 1892年(明治25年)7月26日 - ハワイ王国:王冠第二等勲章[42]
- 1899年(明治32年)4月18日 - ロシア帝国:神聖スタニスラス第二等勲章[43]
- 1902年(明治35年)
- 1904年(明治37年)1月20日 - 大清帝国:第二等第一双竜宝星[46]
- 1905年(明治38年)6月16日 - 大韓帝国:勲一等八卦章[47]
- 1908年(明治41年)10月19日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星[48]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 「丹羽龍之助叙勲ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10112773700
- ^ 『官報』第541号「叙任」1885年4月24日。
- ^ 『官報』第541号「官庁彙報」1885年4月24日。
- ^ 『官報』第1105号「叙任及辞令」1887年3月10日。
- ^ 『官報』第1405号「叙任及辞令」1888年3月9日。
- ^ 『官報』第1712号「叙任及辞令」1889年3月18日。
- ^ 『官報』第1821号「叙任及辞令」1889年7月25日。
- ^ 『官報』第1943号「叙任及辞令」1889年12月18日。
- ^ 『官報』第2002号「叙任及辞令」1890年3月6日。
- ^ 『官報』第2079号「叙任及辞令」1890年6月6日。
- ^ 『官報』第2196号「辞令」1890年10月23日。
- ^ 『官報』第2313号「叙任及辞令」1891年3月19日。
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1892年3月18日。
- ^ 『官報』第3133号「叙任及辞令」1893年12月7日。
- ^ 『官報』第3538号「叙任及辞令」1895年4月19日。
- ^ 『官報』第3598号「叙任及辞令」1895年6月28日。
- ^ 『官報』第3621号「叙任及辞令」1895年7月25日。
- ^ 『官報』第3860号「叙任及辞令」1896年5月14日。
- ^ 『官報』第3902号「叙任及辞令」1896年7月2日。
- ^ 『官報』第4899号「叙任及辞令」1899年10月28日。
- ^ 『官報』第5487号「叙任及辞令」1901年10月15日。
- ^ 『官報』第6148号「叙任及辞令」1903年12月28日。
- ^ 『官報』第7194号「叙任及辞令」1907年6月24日。
- ^ 『官報』第7314号「辞令」1907年11月13日。
- ^ 『官報』第7354号「叙任及辞令」1908年1月4日。
- ^ 『官報』第7646号「叙任及辞令」1908年12月19日。
- ^ 『官報』第8360号「叙任及辞令」1911年5月8日。
- ^ 『官報』第2531号「叙任及辞令」1891年12月5日。
- ^ 『官報』第3918号「叙任及辞令」1896年7月21日。
- ^ 『官報』第4918号「叙任及辞令」1899年11月21日。
- ^ 『官報』第6427号「叙任及辞令」1904年12月1日。
- ^ 『官報』第7941号「叙任及辞令」1909年12月11日。
- ^ a b 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年2月12日。
- ^ 『官報』第1937号「叙任及辞令」1889年12月11日。
- ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ^ 『官報』第3753号「叙任及辞令」1896年1月4日。
- ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
- ^ 『官報』第7616号・付録「辞令」1908年11月13日。
- ^ 『官報』第7499号「叙任及辞令」1908年6月26日。
- ^ 『官報』第443号「賞勲叙任」1884年12月17日。
- ^ 『官報』第2378号「叙任及辞令」1891年6月5日。
- ^ 『官報』第2726号「叙任及辞令」1892年7月29日。
- ^ 『官報』第4743号「叙任及辞令」1899年4月27日。
- ^ a b c d e 『官報』第5811号「叙任及辞令」1902年11月15日。
- ^ 『官報』第5888号「叙任及辞令」1903年2月21日。
- ^ 『官報』第6189号「叙任及辞令」1904年2月22日。
- ^ 『官報』第6594号「叙任及辞令」1905年6月24日。
- ^ 『官報』第7600号「叙任及辞令」1908年10月24日。