ミッチ・ダニエルズ
ミッシェル・エリアス"ミッチ"ダニエルズ・ジュニア Mitchell Elias "Mitch" Daniels, Jr. | |
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生年月日 | 1949年4月7日 |
出生地 |
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前職 | 連邦政府行政管理予算局長(2001年-2003年)、インディアナ州知事(2005年-2013年) |
称号 | 旭日重光章(2017年) |
ミッチ・ダニエルズ(本名:ミッシェル・エリアス"ミッチ"ダニエルズ・ジュニア、Mitchell Elias "Mitch" Daniels, Jr.、1949年4月7日 - )はアメリカ合衆国の政治家。元連邦政府行政管理予算局長(2001年-2003年)。インディアナ州知事(2005年-2013年)。現在はパデュー大学学長。所属は共和党。
経歴[編集]
1949年にペンシルベニア州モノンガヒーラで、シリア系キリスト教徒の移民の血を引く父ミッチ・ダニエルズ・シニアと、母ドロシー・ウィルクス・ダニエルズの間に生まれた。幼少期はテネシー州、ジョージア州など、3州を行き来しながら過す。1959年、まだ小学生の頃、製薬会社に勤める父の仕事の都合でペンシルベニア州からインディアナ州に引っ越した。1967年にインディアナポリスのノースセントラル高等学校をトップの成績で卒業。リンドン・ジョンソン大統領から、その年のインディアナ州の大統領奨学生に命名されている。1971年、プリンストン大学ウッドローウイルソン・スクールから優秀な成績で卒業。学士号を取得した。インディアナ大学ロバート・H・マッキニー・ロースクールを経て、1979年にジョージタウン大学ローセンターで(JD)法務博士の学位も取得した。
1968年、まだ大学生の頃、共和党の候補として上院議員に立候補したウィリアム・ラッケルズハウスの選挙事務局で働いたのが、はじめての政治活動となった。落選後、ラッケルズハウスの口利きで、当時のインディアナポリス市長リチャード・ルーガーの事務所でインターンとして務めることになる。1971年、ルーガー再選の為の選挙運動に参加後、市長の事務局の一員となり、3年後にはメイン・アシスタントとなった。
1976年ルーガーが上院に当選すると、主席補佐官としてワシントンD.C.に同行。1977年から1982年までルーガーの元で務めた。その間にアメリカ合衆国国立公園局に勤め、4人の娘を持つシェリー・ハーマンと出会い、1978年に結婚(1993年に一度離婚するも、1997年に再婚している)。1983年にルーガーが全米共和党上院委員会(NRSC)の委員長に選ばれると、ダニエルズは理事に任命され、1年間その地位を務めた。1985年8月にロナルド・レーガン大統領の主任政治顧問とリエゾンとなり、レーガン政権下で働いた。
1987年、ハドソン研究所のCEOとしてインディアナ州に戻った。1988年にダン・クエールが副大統領に選ばれると、そのために空席となった上院の席にダニエルズを任命する、とインディアナ州知事ロバート・オアが申し出たが、ダニエルズは家族との離れて過ごすのを嫌い断った。
1990年より製薬会社のイーライリリー・アンド・カンパニーに勤め、1997年から2001年まで副社長だった。また同時期に電力会社のインディアナポリス&ライトの取締役の一員としても務めた。
2001年1月、ジョージ・W・ブッシュ大統領からアメリカ合衆国行政管理予算局長官に任命され、2003年6月までその役を務めた。長官としては、アメリカ国家安全保障会議とアメリカ国土安全保障会議にもメンバーとして参加している。
2004年、インディアナ州知事に当選。2012年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党予備選で、幅広い支持が期待できる有力候補と期待されていたが、大統領選不出馬の意向を表明した[1][2]。
1970年プリンストン大学在籍中に2人のルームメイトと共にマリファナとLSDを所有したとして逮捕された事もある。司法取引で、マリファナ所持による一般的に迷惑をかけたと罪を認め、350ドルの罰金を科されている。それは「当然の報いだった」と2011年にザ・デイリー・プリンストン紙に語っており、インディアナポリス・スター、ワシントン・ポストなどのインタビューでもこの過去を認めている。
インディアナ州法により連続3期の州知事職を務めることはできないため、2013年1月に同じ共和党で有力連邦下院議員だったマイク・ペンスに州知事職を引き継ぎを退任した。退任後パデュー大学の学長に就任した。
2017年4月、旭日重光章受章。
脚注[編集]
- ^ “Indiana Gov. Mitch Daniels won't run for president”. Los Angeles Times. (2011年5月22日) 2011年5月22日閲覧。
- ^ “コルツ・オーナー、「マニングの件はSB終了まで語らない」”. NFL JAPAN (2012年1月31日). 2012年2月6日閲覧。