マヌエル・マティアス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の)はゴニーリョ第二姓(父方の)はマティアスです。

マヌエル・マティアスManuel Fernando Gonilho Matias1962年3月30日-)は、ポルトガルマラソン選手アトランタオリンピック同国男子マラソン代表。勝負強さに定評がある。170cm、61kg。

来歴[編集]

スペイン国境に近いベージャに生まれ、父と大工をしていた。元はトラック競技の長距離走選手だったが、1988年にマラソンに転向。ポルトガルマラソンクラブに所属し、リスボンに自宅を構えた。転向後すぐの1988年5月パリマラソンで優勝し、カルロス・ロペスの再来と言われた。1989年は、ロンドンマラソンで自身初の2時間10分を切る2時間9分43秒で4位となる[1]。同年12月の福岡国際マラソンでは、エチオピアのアベベ・メコネン、ソ連のラビル・カシャポフとの三つ巴の争いとなった。36kmの給水でマティアスとカシャポフが抜け出し、ゴール手前1,100mでカシャポフが右腹をおさえながらもスパートし、マティアスに20m差を付けて競技場に入った。そして残り100mでマティアスが猛然とスパート、ゴール手前20mで並びカシャポフをかわして優勝した。カシャポフはうっかり気を抜いたと述べ、マティアスは残り2kmで勝てる気があったと述べた[2]1990年はパリマラソンで3位。福岡国際マラソンでは、33kmすぎに左足付け根を痛め6位[3]1991年の福岡国際マラソンは13位だった。しかし1994年3月のソウル国際マラソン金完基を1秒差で振り切って優勝、復活を果たした。同年12月の福岡国際マラソンでは、ジュマ・イカンガーの一番弟子と言われたタンザニアのボアイ・アコナイに5秒差2位。タイムは2時間9分50秒で、「最後は足が動かなかった。だが、2時間10分を切ったことは良い[4]」と述べた。その後は、1996年のアトランタオリンピックのポルトガル代表となったが、2時間20分58秒の46位、1999年東京国際マラソンでも2時間18分19秒の14位と精彩を欠いた。

主な成績[編集]

  • 1988年 - パリマラソン(2時間13分53秒、優勝)
  • 1989年 - ロンドンマラソン(2時間9分43秒、4位)
  • 1989年 - 福岡国際マラソン(2時間12分54秒、優勝)
  • 1990年 - 福岡国際マラソン(2時間14分55秒、6位)
  • 1991年 - 福岡国際マラソン(2時間14分17秒、13位)
  • 1994年 - 福岡国際マラソン(2時間9分50秒、2位)
  • 1996年 - アトランタ五輪(2時間20分58秒、46位)
  • 1999年 - 東京国際マラソン(2時間18分19秒、14位)

出典[編集]

  1. ^ 朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊3面
  2. ^ 朝日新聞東京本社版1989年12月4日付朝刊25面
  3. ^ 朝日新聞東京本社版1990年12月3日付朝刊25面
  4. ^ 朝日新聞東京本社版1994年12月5日付朝刊20面