ヘレン・レディ

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1974年のレディ

ヘレン・レディHelen Maxine Lamond Reddy1941年10月25日 - )は、オーストラリアビクトリア州メルボルン出身の歌手女優活動家

人物[編集]

1960年代末にオーストラリアからアメリカのロサンゼルスに渡った。1970年代、国際的な成功を収めた。特にアメリカ合衆国では、ビルボードHot100のトップ40に15曲を送り込み、6曲がトップ10入り、「私は女」「デルタの夜明け」「アンジー・ベイビー」の3曲がナンバー1に輝いた。

レディはビルボードのアダルトコンテンポラリーチャートに25曲を送り込んだ。トップ15を15曲、8曲が6週連続No.1となった。 1974年アメリカン・ミュージック・アワードで、Favorite Pop / Rock Female Artist賞を受賞した最初のアーティストとなった。同年に3曲のヒットを記録した最初のオーストラリア人でした。

テレビ界では、史上初のオーストラリア人司会者として、アメリカ合衆国のテレビネットワークで毎週1時間のプライムタイム・バラエティ・ショーの司会を務め、世界40か国以上で視聴された。

2002年、レディはライブパフォーマンスから退き、オーストラリアの大学に戻り学位を取得、臨床催眠術医として、動機づけのスピーカーの練習をした。

2011年、トニーの誕生日に妹のトニー・ラモンドと「Breezin' Along with the Breeze」を歌った後、彼女はライブパフォーマンスに戻ることに決意した。

「私は女」(1972年)は大衆文化で大きな役割を果たし、セカンド・フェミズムの賛歌となった。

彼女は「フェミニストのポスターガール」、「フェミニストのアイコン」として知られるようになった。2011年、ビルボードは28人目のアダルトコンテンポラリーアーティストとして殿堂入り(9人目の女性)。

私生活[編集]

20歳のとき、ケネス・ウィートという年上のミュージシャンと結婚。娘のTraciを生んだあと二人は別れる。

1968年、ニューヨーク市ブロンクス出身のジェフ・ウォルドと結婚。レディはウォルドと結婚する前にユダヤ教に改宗している[1]。二人は1972年にジョーダンという息子をもうけた[2]。ウォルドはレディのマネージャーを務めた。1981年1月、離婚。

1983年6月、自身のバンドのドラマー、ミルトン・ルースと結婚。1995年、ルースと離婚。

作品[編集]

アルバム[編集]

ライヴアルバム[編集]

日本公演[編集]

9月16日、フェスティバルホール / 9月19日、神奈川県立県民ホール / 9月22日 - 24日、中野サンプラザ

脚注[編集]

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  1. ^ Levins, Harry (2000年12月14日). “People in the News”. St. Louis Post-Dispatch. http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=SL&p_theme=sl&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0EB052D53A6AA236&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D&s_trackval=GooglePM 2008年6月16日閲覧。  – "Although Helen Reddy is Jewish, she has just released an album titled 'The Best Christmas Ever.' When an Internet interviewer cocked an eyebrow, Reddy said she had stuck to her religious beliefs by making sure that no song mentioned Jesus."
  2. ^ Jeff Jarvis (1983年5月16日). “Tug-of-war for a 10 year-old”. People. http://www.people.com/people/archive/article/0,,20084995,00.html 2015年3月20日閲覧。 

外部リンク[編集]