ピート・バーンズ
ピート・バーンズ | |
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![]() 2008年、コンサートにて | |
基本情報 | |
出生名 | ピーター・ジョゼッピ・バーンズ |
生誕 | 1959年8月5日 |
出身地 | イギリス, ポート・サンライト |
死没 | 2016年10月23日(57歳没) |
ジャンル | ポップ, ダンス, ニューウェーブ, Hi-NRG |
職業 | シンガーソングライター |
担当楽器 | ボーカル |
活動期間 | 1977–2016 |
レーベル |
エピック・レコード Sony Japan Cleopatra Records |
共同作業者 | デッド・オア・アライヴ |
公式サイト | The Right Stuff: Official Dead or Alive website |
ピート・バーンズ(Pete Burns、1959年8月5日 - 2016年10月23日)は、イギリス出身のシンガーソングライター。イギリスのハイエナジーバンド「デッド・オア・アライヴ」のリーダー兼ボーカルを務めていた。
人物・来歴[編集]
生い立ち[編集]
1959年8月5日、イギリスのリヴァプール近郊にあるポート・サンライトにて、ドイツ系ユダヤ人の母とイギリス人の父の間に生まれた。母はナチス政権によって迫害を受け、ドイツからオーストリアに逃げていた時に、ウィーンにてイギリス軍の兵士だった父と知り合った[1] 。母親はオシャレな美女で人目をひく魅力があったが、異国の地での生活に馴染めず、アルコール使用障害の精神疾患を患っていった。兄弟は11歳上の兄が一人おり、その兄の影響でビートルズ等の60年代の音楽にとても詳しくなった。だが、ピートの憧れはアメリカの女優や女性歌手だった。生活環境はかなり悪く、父親は勤勉な労働者であったが妻の堕落が受け入れられず半ば家庭放棄の状態であった。また、当時はドイツ人やユダヤ人に対する迫害も厳しかった。そんな中、専らピートが母親の世話をして暮らしていた。そのため5歳まで英語よりも母親の母語であるドイツ語を話すことが多かったピートは周囲の子供たちからの格好のいじめのターゲットとなった[1]。
少年期は実際は美少年だったにも係わらず顔に酷くコンプレックスを持っていたという。自分の顔が気に入らず顔に絵の具を塗ったり勝手に化粧するなどしていたという[2][出典無効]。10代の頃から髪を染め、眉毛を剃って奇抜なファッションに身を包むようになった。そのため学校では浮いた存在となり登校拒否になった。
1973年、14歳で学校を辞めリヴァプールの美容院で働き始める。そこで先輩美容師のリン・コアレットと出会い、彼女のファッションに衝撃を受ける。当初ふたりは友人関係だったが、次第に惹かれ合い交際へ発展。ピートは実家を出て彼女の家族と同居するようになる。ふたりは1980年に結婚。
スターダム[編集]
1980年、「デッド・オア・アライヴ」のボーカルとしてデビュー。90年代のユーロビートの先駆け的な音楽と中性的な容姿と相まってたちまち人気を博し、80年代にヒット作を連発して、中性的カリスマとしてカルチャー・クラブのボーイ・ジョージと人気を二分した。特に1985年に発売した「You Spin Me Round」が英国チャートで1位を獲得、17カ国で1位を記録する大ヒットとなった。この頃はバンドメンバーのスティーヴ・コイとも同性愛関係にあり、妻のリンとスティーヴと共に3人で暮らしていた。
美への強い執着、整形と転落[編集]
経済的に成功を収め欲しい物を全て手に入れたピートであったが、幼年期から続く自分の顔へのコンプレックスは抜けなかった[2][出典無効]。最初は昔から気に入らなかった斜鼻を整形する程度であったが、徐々にエスカレートし、儲けた金のほとんどを整形費用につぎ込むようになっていった。そして、整形医に勧められるまま唇に打ったジェル注射が原因で顔が変形し、その後死にも等しい苦しみと、闘病生活を余儀なくされた(唇に注入したジェルに対する炎症が顔面全体に広がり、肉芽腫を形成。また肉芽腫が血液を介して全身に播種し、腎臓の血管を詰まらせて腎不全を起こし、加えて腸障害、失明の危機などに直面した)。なお、後にこの整形医に対し損害賠償請求を提訴し、和解が成立した。
治療費を捻出するために、数々の世界的ヒットから得た貯金をすべて使い果たし、3億円の豪邸も売り払い、過去の楽曲の著作権も売り払った。また、再生手術を執刀したイタリア人医師から「顔が元に戻ることはない」と告げられ絶望の淵にいたピートであったが、その執刀医の「あなたにはまだ音楽が残っている」という言葉に励まされ音楽活動を再開した。
復活、そして死[編集]
この経緯を面白がったテレビ局が、ピートに、リアリティ番組「セレブリティ・ビッグ・ブラザー」への出演の話を持ちかけて来る。ピートは、まだ唇が痛くて会話もまともにできない状態であったが、「歌を歌わせる」ことと「衣装を自分で選ばせる」ことを条件に出演することを承諾した。出演初日は、イギリス中のメディアが注目する中、高級リムジンで豪華な衣装を身にまとって会場に降臨。その中性的な容姿に観客は度肝を抜かれた。番組中でも、共演者に対する毒舌な物言いで視聴者の人気を獲得。この出演を機に色々なメディアからオファーが相次ぎ、タレントとして芸能界での復活を果たした。
プライベートでは、2003年にロンドンの中心地・ソーホーのレストランでウェイターをしていた10歳年下のマイケル・シンプソンに出会い、交際に発展。一方、2006年に26年間続いたリンと離婚(ただ、その後も互いを「ソウルメイト」と呼び合うほど仲は良かった)。マイケルとは2007年7月6日にシビル・ユニオンを結ぶ。挙式はロンドン中心部にあるロイヤル・ソサエティ・オブ・アーツで行った。[3]
しかし、その後も腎結石などの健康障害に悩まされたうえ、2014年12月に破産宣告を受けた。そして2015年4月には家賃未払いを理由に住んでいたアパートを追い出される[4]など経済的には困窮していた。
2016年10月23日、急性心不全のため死去[5]。57歳没。 なお、葬儀代はボーイ・ジョージが払ったと言う。[6]
脚注[編集]
- ^ a b Burns, Pete; Cranna, Ian (2007). Freak Unique (Paperback ed.). John Blake Publishing Ltd.. ISBN 1-84454-438-9
- ^ a b 2010年9月8日放送の『ベストハウス123』
- ^ “Pete Burns enters civil partnership with Michael Simpson” (2016年10月25日). 2022年7月9日閲覧。
- ^ Milligan, Jamie (2015年4月27日). “Bankrupt pop star evicted after unpaid £34k rent bill”. Today's Landlord. Medianett Ltd. 2017年1月22日閲覧。
- ^ “Pete Burns, frontman of Dead or Alive, dies aged 57”. The Guardian. (2016年10月24日) 2016年10月25日閲覧。
- ^ “ボーイ・ジョージがピート・バーンズの葬儀代を払うと宣言”. spice. (2016年11月2日) 2022年7月9日閲覧。
外部リンク[編集]
- Sony Music Online Japan : デッド・オア・アライヴ(日本語)
- ピート・バーンズ (@PeteBurns2013) - Twitter(英語)