パテック・フィリップ



パテック・フィリップ(Patek Philippe)とは、スイスの高級時計メーカーである。1839年に2人のポーランド人アントニ・パテックとフランチシェック・チャペックによって創業された。
ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲとともに世界三大高級時計メーカーの一つとして数えられることが多い[1]。その中でもパテック・フィリップは頭一つ抜け出た存在であり[1]、世界一の時計ブランドとされている。
過去にはカルティエ、ティファニー、ギュブラン(Guberin )、ゴンドーロ・ラブリオ等宝石店向けに製品を納入していた。
かつては多くの製品がジュネーヴシールの認証を受けていたが、現在は自社独自の認証マークである「パテック・フィリップ・シール」に切り替わった[1][注釈 1]。
世界一高価な腕時計を販売するマニュファクチュールとしても知られている。
ブランド戦略[編集]
どんなに古い自社時計についても修理することができる「永久修理」を宣伝しているため、「パテック・フィリップの時計は一生もの」というブランドイメージを構築することに成功している。しかし、保証期間(通常2年間)が過ぎた時計については、当然のことながら有料修理であり、またオリジナル部品を長期にわたって保持することを保証するものではない。そのため、オリジナル部品の在庫がなくなった時点以降はオリジナル部品を使った修復ではなく、その時どきで製造可能な代替部品を使ってのメンテナンスとなる。その場合、必要な代替部品を新たに製造するコストは個々のユーザーの負担となり、時計の購入価格を大きく超える修理代金を請求されるケースも多い。
また、パテック・フィリップはオークションで古い自社時計を高値で買い戻すことによって、「パテック・フィリップの時計の中古市場価値を保たせる」というビジネス戦略をとっている。その結果、上記の「パテック・フィリップの時計は一生もの」というブランドイメージの宣伝にも役立っている。
著名なユーザー[編集]
製作記念台帳に全ての購入者を記録しており[2]、その中にはヴィクトリア女王[3][2]、エリーザベト王妃[2]、アインシュタイン[3]、ヴィルヘルム1世[3]、ワーグナー[3][2]、チャイコフスキー[3][2]、フルトヴェングラー[3]、トルストイ[3][2]、プーシキン[3]、ウォルト・ディズニー[3][2]、クラーク・ゲーブル[3]等の名前がある。
特に1851年に、英国ヴィクトリア女王がブローチ型懐中時計を購入したことにより、パテック・フィリップの名声が一躍広まった[4]。
沿革[編集]
創業者の生い立ち[編集]
- 1811年4月4日 - 創業者フランティシェック・チャペック (František Čapek ) 、ボヘミアの現在はヤロミェジ (Jaroměř ) の一部であるセモニツェ (Semonice ) 村に産まれた。後に時計職人としてワルシャワに移住し、フランチシェック・チャペック (Franciszek Czapek ) とポーランド風に改名。
- 1812年6月14日 - 創業者アントニ・パテック (Antoni Patek ) 、「プラヴジツ (Prawdzic ) 紋章」を持つポーランド貴族(シュラフタ)の子としてポーランド、ルブリン市近郊のピャスキ・ルテルスキェ (Piaski Luterskie ) に産まれた。
- 1821年頃 - パテック、10歳の時両親とともにワルシャワへ移った。
- 1828年 - パテック、16歳でポーランド陸軍に入隊、「第1騎馬ライフル連隊」に配属。
- 1830年 - パテックとチャペック、ポーランド人によるロシア支配に対する反乱11月蜂起に参加した。パテックは、ロシア軍との戦闘における活躍により少尉に昇進、「8月1日旅団」の副官に昇格。1831年にはその功績が認められポーランド軍最高の栄誉である「ヴィルトゥーティ・ミリターリ勲章」 (Virtuti Militari ) を授与された。
同時期、チャペックはポーランド人の民兵組織である「ポーランド国民衛兵」の兵士としてワルシャワでロシア軍を相手に戦った。
- 1832年 - パテック、ロシア軍が制圧したポーランドから脱出。このときポーランド軍がその脱出ルート上に設置した5箇所の集結地点のうちの1つ、ミュンヘン近郊のバンベルクにあったポーランド軍陣地の司令官に任命された。
フランスへ亡命後しばらくは亡命ポーランド軍将校としてフランス側につき各地を転戦した。その後、軍を退役しアミアンに定住し植字工となった。
創業期[編集]
- 1835年頃 - パテックとチャペック、スイスのジュネーヴに移住する。その後、パリへ旅に出て得た経験から高級懐中時計の販売を始めた。
- 1839年5月1日 - パテックとチャペックは共同で事業を開始することで同意し、同郷であるポーランド人時計製造業者のヴァヴジニェツ・ゴストコフスキ、ヴィンセンティ・ゴストコフスキ、ヴワディワフ・バンドゥルスキの財政援助を得て「Patek, Czapek & Cie」を創業、これより1850年ごろまでポーランドの歴史と文化に関連したデザインの懐中時計をオーダーメイドで製造した。
- 1843年5月29日 - アントニ・パテック、ジュネーヴ市民となり、アントワーヌ・パテック(Antoine Patek)とフランス風に改名。
- 1844年 - パテック、自社製品をパリの博覧会に出品するためパリに赴き、ジャン・アドリアン・フィリップ(Jean Adrien Philippe)と出会った。フィリップが発明した「リューズ巻き上げ、時刻合わせ」の機構に感銘を受け、意気投合した。
- 1845年5月1日 - フィリップが入社、社名を「Patek & Cie」に変更。自社初の懐中ミニッツリピーターを製作。フランツ・リスト、シャーロット・ブロンテ、レフ・トルストイが懐中時計を購入。
- 1845年5月17日 - 創業者チャペック、「Patek & Cie」から去る。その後チャペックはポーランド、フランスで時計を製造したが、1869年頃に会社を清算し、その後の消息は不明。彼の名を冠したブランドは2011年にバーゼルで復興され、2014年にヌーシャテルに移転して2015年から複雑時計の発売を開始している。
名声の確立[編集]
- 1849年 - アメリカのティファニーに懐中時計供給を始めた。
- 1851年1月11日 - 社名を「Patek & Cie」から「Patek & Philippe Cie」に変更。
- 1851年 - ロンドン万国博覧会に出品、ヴィクトリア女王がリューズ巻上げ・時刻合わせ式の18金ペンダントウォッチを購入。
- 1854年 - 本社が現在地Quai General Guisanに移った。
- 1867年6月26日 - ローマ教皇ピウス9世が18金懐中クォーターリピーター[5]を購入。裏蓋には教皇の紋章と両側に月桂樹が七宝で描かれている。
- 1877年5月1日 - 創業者パテック死去。
- 1877年 - ピョートル・チャイコフスキーがルイ15世スタイルの懐中クォーターリピーターを購入。
- 1878年 - ティファニーがアメリカ製工作機械を備えた自社のジュネーブの時計ムーブメント製造工場をパテックフィリップに売却[6](この影響で、この年代近辺では全く同じムーブメントでありながら、Tiffany製の物とPatek製の物が市場に流通している)。
- 1891年1月 - ジャン・フィリップが経営を息子のジョセフ・エミール・フィリップに譲る。
- 1894年1月5日 - ジャン・フィリップ死去。
事業の拡大[編集]
- 1895年頃 - マリ・キュリーがジュネーヴ芸術協会からペンダントウォッチを授与された。
- 1907年 - ジョセフ・エミール・フィリップ死去、その息子アドリアン・フィリップが会社の経営を引き継いだ。
- 1908年 - 現在の本社ビルが完成。
- 1915年 - アルベルト・アインシュタインが懐中時計を購入。
- 1927年4月6日 - パッカードの創業者の一人ジェームズ・ウォード・パッカード (James Ward Packard ) に「パッカードウォッチ」を12,815スイスフランで売却。
スターン兄弟による買収[編集]
- 1929年 - 世界大恐慌の影響で経営が悪化し、文字盤製造業者のジャン・スターン (Jean Stern ) とシャルル・スターン (Charles Stern ) 兄弟が資本参加した。
- 1932年6月14日 - スターン兄弟が会社を買収。 現在の社名である「Patek Philippe S.A.」に変更。
アドリアン・フィリップが経営から退き、ジャン・フィスター (Jean Pfister ) が社長に就任。ドレスウォッチの傑作Ref.96を発売。高級腕時計の代名詞となるカラトラバを発売。
- 1933年1月19日 - ヘンリー・グレーブス・ジュニア (Henry Graves Jr. ) からティファニーを通じて「史上一番複雑な時計」を受注し24機能の複雑時計「グレーブス・ウォッチ」を製作、60,000スイスフランで売却した。
会社の再建[編集]
- 1948年 - エレクトロニクス部門設立。
- 1949年5月15日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号261431。
- 1951年12月31日 - ジャイロマックス・テンプの特許取得。スイス特許番号280067。
- 1956年 - 全電気式クォーツ時計を製作。
- 1958年 - ジャン・フィスターが退職、シャルル・スターンの息子で1936年以来ニューヨーク支店長だったアンリ・スターンが社長に就任。
- 1968年 - 「エリプス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3548。
- 1976年 - ジェラルド・ジェンタデザインによる「ノーチラス」シリーズ発売。最初のモデルはRef.3700/1。
- 1978年 - アンリ・スターンの息子フィリップ・スターンが社長就任。
- 1988年 - 「パッカード・ウォッチ」を買い戻した。
機械式時計の復興[編集]
- 1989年 - 「キャリバー89」を発表。
- 1993年 - 「ゴンドーロ」シリーズ発売。最初のモデルはRef.4824。
- 1999年12月 - サザビーズ・オークションにて「グレーブス・ウォッチ」が1個の時計としては史上最高値の11,002,500ドルで落札された。
- 2000年10月5日 - 西暦2000年を記念し21機能、パーツ数1118個の複雑時計「スターキャリバー2000」が発表された。ハーフハンター・ケース、ダブル・フェイス・ポケットウォッチ。ケース素材違いの4個が1セットで価格は7,500,000ドル。毎年1セットずつ5セットが製造された。
- 2002年4月 - アンティコルム・オークションにてルイ・コティエが考案した方式の1949年製ワールドタイムが腕時計としては史上最高値、当時の日本円で約4億8000万円で落札された。
- 2009年 - フィリップ・スターンの息子ティエリー・スターンが社長に就任。
- 2010年5月11日 - クリスティーズがスイスのジュネーヴで開いた腕時計のオークションで、1943年にワンオフで製作されたカレンダー・クロノグラフRef.1527が、競売に出された黄金の腕時計として史上最高値、腕時計全体でも歴代2位の約626万スイスフラン(約5億2200万円)で落札された。
著名な製品一覧[編集]
Ref.96[編集]
1932年に発売されたカラトラバモデル。デヴィッド・ペニーのデザイン。パテック・フィリップの製品の中でも特にデザインが優れていることで著名なロングセラーである[2]。バウハウスのシンプルなデザイン哲学に基づいて文字盤やケースなどはデザインされており、スモールセコンドを配したシンプルな3針モデル。Ref.ナンバーから日本では「クンロク」「キュウロク[2]」の愛称で呼ばれている。キャリバーは時代に応じてCal.12、Cal.12-120、Cal.12-400、Cal.27-AM400などが使用されている。一般には1967年まで生産されたことになっているが、現在では、製造番号から1971年頃までは生産されていたことが判明している。ケース径32mm。初代Ref.96が販売中止された後もCal.215をφ31mmケースに入れたRef.3796、1995年発売でCal.215をφ33mmケースに入れたRef.5096、2004年バーゼルフェアで発表されCal.215をφ37mmケースに入れたRef.5196など96のデザインを引き継いだ時計が販売され続けている。
Ref.130[編集]
シンプルな2レジスタークロノグラフ。直径33mm。キャリバーはCal.13。
Ref.1450[編集]
21×35mmの角形時計。帽子をかぶったような特徴的なケース形状から「トップハット」と俗称される。キャリバーはCal.9-90。
Ref.1518[編集]
パーペチュアルカレンダー、ムーンフェイズ、クロノグラフ機能を持つφ35mmの複雑時計。キャリバーは13Q。1941年から1954年までに281個が製造された。2010年5月11日のクリスティーズオークションで競売に出された黄金の腕時計として史上最高値、腕時計全体でも歴代2位の約626万スイスフラン(約5億2200万円)で落札された旨報道されたがこれはRef.1527の間違いである。
Ref.1527[編集]
Ref.1518に似ているが、ラグが長く曲がり、右側面がほんの少しではあるがリューズガード様になっているワンオフ品である。2010年5月11日のクリスティーズオークションで競売に出された黄金の腕時計として史上最高値、腕時計全体でも歴代2位の約626万スイスフラン(約5億2200万円)で落札された[7][8]。
Ref.1526[編集]
Ref.1518からクロノグラフを省略した型。キャリバーはCal.12-120Q。1942年から1952年までに210個が製造された。
Ref.1593[編集]
22×32mmの角形時計。「フレアード」と俗称される。キャリバーはCal.9-90。
Ref.2451[編集]
二重構造のケースで防塵構造を実現し、アウターケースは、パテック・フィリップでは珍しいスクリューバック方式を採用。ケースの素材にはイエローゴールド、ピンクゴールド、プラチナのメジャーな素材以外に、パテック・フィリップにおいては極めて珍しいステンレス鋼のモデルがある。ケースはφ30mm。キャリバーは手巻きのCal.10-200。
Ref.2526[編集]
強い日差しにも焼けないよう白七宝製文字盤を使用していることから、カメラの熱帯仕様にちなんで「トロピカル」と俗称されている。ケースはφ35mm。キャリバーはCal.12-600AT。
Ref.2499[編集]
Ref.1518の後継で、ケースデザインが近代化された。φ38mm。派生型を含め1950年から1985年までに349[注釈 2]製造された。1960年にクロノグラフのプッシュボタンが角型から丸型に変更された。1978年以降はサファイアクリスタルに変更されたRef.2499/100である。特殊な派生型としてインテグラルケースに収められたRef.2499/101が4個以下存在する。
キャリバー89[編集]
創業150周年を記念して製作された33機能の複雑時計。基本計算、基本設計は1980年に開始され、作動する試作品は1988年7月、製品は1989年4月に完成した。直径88.2mm、ガラスを除いた厚み36.55mm、ガラスを含んだ厚み44.07mm、ケースのみの重量500g、総重量1,100g。1278個のパーツが洋銀製プレート3枚に4層になって組まれている。126石。ガラス、ディスクはサファイア・クリスタル製。文字盤は14金に銀蒸着が施してある。
18金イエローゴールドケースに収められた試作品の他18金イエローゴールド、18金ローズゴールド、18金ホワイトゴールド、プラチナのケース素材違いで4個が製作され、1989年4月9日のアンティコルム・オークションにイエローゴールドモデルが出品されて4,500,000スイスフランで落札された。2004年4月のアンティコルム・オークションにも出品され、6,600,000スイスフランで落札されている。試作品はパテックフィリップミュージアムにある。
Ref.3700/1A[編集]
1976年に登場したラグジュアリースポーツウォッチでノーチラスと呼ばれるモデルである。
1972年にジェラルド・ジェンタによってデザイン・考案され、1975年にプロトタイプが完成した。
特徴的な舷窓型のケースにケースと一体化したラグ、ステンレス鋼製であるにもかかわらずゴールド製の時計よりも高価な腕時計として登場した。発売した当初はすぐに市場に受け入れられることは無かったが、徐々に受け入れられていった。[9]
後継モデルと区別するために「ジャンボ」の相性で親しまれている。
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c 『腕時計一生もの』p.210。
- ^ a b c d e f g h i 『腕時計 男のグッズ100シリーズ1』p.18-19。
- ^ a b c d e f g h i j 「至高の時計メーカー パテック フィリップ」(パテック フィリップ大図鑑 p.4 図上 1998年10月5日)。
- ^ 「至高の時計メーカー パテック フィリップ」(パテック フィリップ大図鑑 P4 1998年10月5日)
- ^ ケースNo.27033。
- ^ John Loring 『Tiffany timepieces』 ISBN 0-8109-5592-X 、P.18〜21
- ^ PHILIPPE Complicated Wrist Watch
- ^ クリスティーズのウェブサイト。
- ^ “パテックフィリップ ノーチラス 5711/1A 世界で最も高価なステンレスラグジュアリーウォッチ”. 2019年4月19日閲覧。
参考文献[編集]
- ワールドフォトプレス編『腕時計 男のグッズ100シリーズ1』光文社文庫 ISBN 4-334-70494-8
- 並木浩一『腕時計一生もの』光文社新書 ISBN 4-334-03148-X