ノート:本能寺の変/過去ログ1

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2003年-2007年の議論

読んでいて面白い記事なのですが、史実であると確認されていない事柄が混ざっている点がいささか問題かと。さりとて、これにどのように手を加えたらよいかも分からず。Falcosapiens 14:35 2003年6月7日 (UTC)

「一説によると、」とか、「小説ではこのように書かれることが多い。ただし、史実として確認された事実ではない。」のように、但し書きをつけるとよいと思います。ひとまずどこかで読んだ記憶があるようなことしか書いていないので、削除ではなく、このように加工するのが適当だと思います。 - Sutou 14:44 2003年6月7日 (UTC)

愛宕百韻での「時は今 天が下知る 五月哉」の上句ですが、どちらからの引用なのでしょう。対応可能な方、できれば添えていただければと思います。一般に知られている「下しる」の他に事変後の難を避けるために「下なる」と故意に手を加えられた句も残っていたかと思います(常山紀談か)。実際の句では「天」は「あめ」の可能性も、「哉」も漢字を充てていたかどうか。Kaeruh 2006年7月27日 (木) 04:01 (UTC)

IPアドレスからの編集者も含め、あやしげな説がどんどん付け加えられていて、もはや個別に整理していては埒が明かない状況になりつつあるのでは。誰かが全体をばっさり再整理しちゃったほうがよいかも。--Hotsuregua 2007年1月27日 (土) 14:18 (UTC)

まずは項目を分けて読みやすくし、どういう説が書かれているかを把握しやすくしてみました。また、出典が明記されていない、はっきりしないものには要出典を貼っておきました。情報や資料をお持ちの方にいろいろご協力いただけると助かります。--Horlicks 2007年4月20日 (金) 14:38 (UTC)
Horlicksさんの整理のおかげでだいぶ見やすくなりました。--Hotsuregua 2007年4月24日 (火) 11:44 (UTC)

:Kaeruhさん、『信長公記』と『新潮古典集成』(1980年刊)で愛宕百韻光秀発句典拠を調べてみましたが多様でなかなか難しい。ただし今掲載の「時は今 天が下知る 五月哉」はありません。例示しますのでどれにするかご意見を下さい。

•『信長公記』    ときは今 あめが下知る 五月哉

 一番古い。ただし冒頭三句のみ記述。

●『新潮古典集成』から

•『連歌集書一七』  ときは今 天が下しる 五月哉

 静嘉堂文庫蔵本 『新潮古典集成』 愛宕百韻底本

•京都大学蔵「平松本」ときは今 天が下なる 五月哉

•続群書類従     時は今  あめか下なる 五月哉

 塙保己一編、江戸時代の1819年(文政2年)正編完成、続編は子、孫へと引き継がれ明治44年・1911年に完成の日本最大の国書叢書。

•他に校合本が3冊、いずれも「知る」又は「しる」本文未掲載  おっしゃっている『常山紀談』は、江戸の説話本で信じられません。実は本能寺の変でどこかで聞いた話というのはこのころ多数書かれた物語のどれかなのです。『新潮古典集成』の注でも、『三暁庵随筆』などで、紹巴が取り調べられて最初は光秀は「なる」と詠んだのに後で「しる」と変えたなど多くの伝説に彩られている、とあります。でも「下なる」が2冊もあります。悩むところです。--奈良たかし2007年7月30日 (月)

独自説の追加について

ときおり、「首謀者」の項に新説、独自説を追加する編集が見受けられますが、以下のことにじゅうぶん留意してください。

出典を明記する
なぜそれが必要かについては、以下のWikipedia方針文書をお読みください。
これらの文書に「出典」の定義も明確に示されていますので、ご参照ください。
投稿者本人の言葉でいかにその説に信憑性があるかを解説することは「出典」ではありませんのでご注意ください。

上記は2007-06-17 13:59:47にHorlicksによって投稿されたものです。[1]

まだ、出典を示さないで説を追加される方が見受けられます。最低限、だれがどこで主張した説なのか、程度のことは書いていただきたく、あらためてお願いいたします。テンプレートでも注意を促しているのですから、無視しないようにしてください。現状では何でも(自分が思いついた説でさえ)書ける状態になっており、好ましくありません。--Horlicks 2009年6月5日 (金) 11:27 (UTC)

長宗我部元親説について

鈴木眞哉・藤本正行共著の『信長は謀略で殺されたのか』では井沢元彦が長宗我部元親説と朝廷説を提唱したかのように記載されていますし、この記事でも井沢元彦が『逆説の日本史』内で提唱したと記述されていますが、『逆説の日本史』を読めば分かるようにいろんな説を紹介した上で「私は今のところ、これは光秀の発作的な単独行動で黒幕などいない、と考えている(『逆説の日本史10』戦国覇王編p477,5行目-文庫版)」と結論付けています。--ロビタ 2007年6月30日 (土) 15:13 (UTC)

つまり、井沢氏本人がその説を提唱しているわけではなく、あくまで他者の説として紹介しているに過ぎない、ということですね?だれがどこで提唱しているかは紹介していないのでしょうか?
そうだとすると「出典」にはならない、ということになるかも知れませんね。--Horlicks -note 2007年6月30日 (土) 16:20 (UTC)

長宗我部元親説については故桑田忠親国学院大学名誉教授が『明智光秀』講談社,1983年で、光秀が長宗我部家と織田家のあっせんをしていたが、信長の先約不履行によって、武士の面目を失墜したことが原因とされているのが元だと思います。桑田氏は従来の怨恨説を俗説と否定されましたが、この説も一般的には広義の怨恨説と解釈されています。なお、野望説(と解釈されている)を唱えた故高柳光寿先生と論争になり、「本能寺の変」や光秀研究者の間では「高柳・桑田論争」と呼ばれています。--まったけ 2007年7月6日 (金) 10:56 (UTC)

返事が遅れてすいません。井沢元彦の『逆説の日本史』では誰が長宗我部元親説を唱えたのか明記されず、最近注目されている説として紹介されたにすぎません。鈴木眞哉・藤本正行共著の『信長は謀略で殺されたのか』で紹介されている各説で本項で記載のない説を明記すると
羽柴秀吉説 - 広瀬仁紀、新宮正春、谷恒生など
徳川家康説 - 八切止夫、小林久三
毛利輝元説 - 中津文彦
本願寺教如説 - 寺内大吉
余談ですが各説をまとめたサイトを見つけました本能寺の変に関する各説。--ロビタ 2007年7月10日 (火) 12:02 (UTC)
丁寧にありがとうございます。これらを参考に、またぼちぼち手を入れていこうかと思います。よかったらロビタさんも編集に参加していただけるとありがたいです。--Horlicks -note 2007年7月10日 (火) 12:42 (UTC)

 後藤敦氏のまとめによると、学者・作家等の説も含めると、およそ50程の説があると言われています。後藤氏の説は『別冊歴史読本 完全検証 信長襲殺』新人物往来社,1994年に詳しく記されていますが、入手困難であると思われます。静岡大学教授の小和田哲男氏の著書『明智光秀 つくられた「謀反人」』PHP新書,1998年にも掲載されています。なお、独自研究ですが、『本能寺の変』を含めて明智光秀についてサイト訪問者からの質問をまとめた『明智光秀公都隣問答』を作成しましたので御参考の為に添付しておきます。--まったけ 2007年7月12日 (木) 07:56 (UTC)

最近読んだ本の中では、谷口克広「信長の天下布武への道」、藤田達生「秀吉神話をくつがえす」などで信長の四国政策の転換が変の要因になったとの説が書かれていました。四国の平定を長宗我部-光秀ラインで進めていたが、長宗我部が四国を制圧しそうになったので、三好-秀吉ラインに切り替え、長宗我部征伐の本軍が出発するのが変の当日だったためとしています。--彩華1226 2008年5月31日 (土) 08:22 (UTC)

腐った魚について

光秀が坂本の名物、鮒鮨(フナを発酵させたスシ)を出したところ、それを知らない信長が腐っているのだと思い込み「臭い」と怒った、という逸話は聞いたことがありますが、実際に魚が腐っていたという話ではなかったと思います。修正したほうがいいでしょうか?--Horlicks 2007年9月25日 (火) 10:36 (UTC)

 この『祖父物語』というのも江戸時代始めによくある講談話の創作説話集にすぎません。史実ではないのです。ただこれを上げておかないと「どこかで聞いた話」で、みんな混乱し始めるので書いておきました。私としてはあまり細かく書かなくてもいいと思うのですが。それにこれは江戸市街地ができて江戸湾での近郊漁業が盛んになって江戸前寿司が当たり前となった江戸時代の人が書いたことが歴然としています。なれ鮨の内、現代はホンナレが滋賀の鮒寿司だけとなりましたが当時はまだ各地にあったはずです。生成(なまなれ、成熟を浅く止めた飯ごと食うなれ鮨)となるとみんな食べていたはずです。つまりは腐っているなどと当時の人が思うわけないのです。そこまで説明しないと意味がわかりませんので書かないでいいと思います。--奈良たかし 2007年9月26日 (水) 00:12 (UTC)

二点ほど。奈良たかしさんの考察は理解できるのですが、問題は現状の記述が「腐った魚を出した」という記述になっているため、説話の内容と一致していないことになるという点が一つと、もう一つ、上記は奈良たかしさんの独自研究になってしまいます、という点です。
ご存知かとは思いますが、本記事ではたびたび独自研究による加筆、編集が繰り返された経緯があり、整理を試みてもなかなか追いつかない現状があります。そのため、出典に基づく記述という点について特に慎重になる必要があると考えています。
独自研究の排除と出典の明記は、一次史料についての記者の解釈や理解に基づいて書くということではなく、先行研究の存在と認知性を出典によって明示することで、だれでもいつでも検証が可能な状態にすることが目的です。歴史関連の場合、この点がよく混同されており、問題がよく起きる部分でもあります。たとえば過去の事例としては喜連川騒動などを参照いただくとよくわかります。
ではどうすればいいか、ということになりますが、上記の魚の話についていえば、奈良たかしさんがお書きになっているような考察が行われている先行研究が記載されている文献資料などを出典として添えることで、問題は避けられると思います。もちろん記述内容はその研究の内容に沿う必要があります。
どうぞご一考をお願いいたします。--Horlicks 2007年9月26日 (水) 05:43 (UTC)


Horlicksさんが鮒寿司のことを言われたのでそういう話もあったかなと勘違いしましたが、やはり悪臭のする魚を出したという説話が『別本川角太閤記』か『川角太閤記』に掲載されており、時代としてはこちらの方が先行しているようなので『別本川角太閤記』か『川角太閤記』で「腐った魚」ではなく、「悪臭のする魚」としてもう少し調査して変更します。--奈良たかし 2007年9月26日 (水) 17:50 (UTC)

了解しました。私のほうでも何か資料が手元にあればよかったのですが、あいにくありませんでした。お手数をおかけすることになりますが、よろしくお願いいたします。--Horlicks 2007年9月26日 (水) 11:23 (UTC)

大変遅くなり申し訳ありませんでした。「悪臭のする魚」と「川角太閤記」に修正しました。江戸時代に始まる説話は明記しないと、大河ドラマ等で説話を入れて放映されるたびに国民とWikipediaに誤解と混乱が広がると思います。もう少し整理したいと思います。--奈良たかし 2008年2月2日 (土) 13:28 (UTC)

本能寺の火薬庫の爆破、織田長益が信忠に切腹を勧めた、など根拠のないものの削除

 節題の2つは悪いですが削除しました。


 本能寺の地下火薬庫の爆破ですが、当時のイエズス会の教会は2町、長さでは記述したように200mの近辺にあり、フロイスは長崎に行き留守でしたが、残っていた宣教師が見聞しまた事件中と事後教会の情報網で集めたものを『日本史』は記入しています。最初争いの声が聞こえ喧嘩と思った(これは『信長公記』で中の人が聞き思ったのと同様ですね。)が銃声が多数聞こえ煙も出て争乱とわかりやがて光秀の謀反と連絡がある。また『信長公記』でも著者は信長が逃がした女衆に取材しています。いずれも近くにいて爆破していたらわかるのですが記述はない。出典は何でしょうか。私は安部龍太郎の小説「信長燃ゆ」以外知りません。 また元亀元(1570)年に本能寺に初めて宿泊し専用宿舎指定するが以後11年間使用しない。ところが天正8(1580)年2月に信長は本能寺の改造を指示。堀土居を造り厩新設し建物を建てる。以後9年に宿泊、10年に使用し本能寺の変に倒れる。これほど回数は少なく普段は寺なので武器火薬は宿舎にする際に軍勢が持ち込む以外無いのです。


 「織田長益が信忠に切腹を勧めた」あの狂歌でさえ「お腹召させておいて」とはありますが何も長益が勧めたとはなっていません。「光秀軍を三度も退却させた」というのは二条御所の門前の公家の日記にあるのです。状況からいってその時逃げたとしか思えません。落城近い時は前久邸屋根からのねらい打ちの中で逃げようがないのです。勧めたということは状況からいってあり得ないのです。また『三河物語』にもそんな記述はありません。というわけで「切腹を勧めた」のみ削除させていただきます。--奈良たかし 2007年9月26日 (水) 00:42 (UTC)

こちらも同様に、編集内容そのものには特に反対しないのですが、上記のように独自の考察を展開された結果として、ということになると、独自研究になってしまうおそれがあるかと思います。
なお、上記ご指摘のような出典のない記述は「要出典」を貼って様子を見たうえで、出典が提示されなければ削除していただいてもまったく問題ないと思います。--Horlicks 2007年9月26日 (水) 05:51 (UTC)


まるで史料にないことを載せられている場合は、ある程度書いておかないと「「要出典」を貼って様子を見たうえで削除」をすると書いた人に納得してもらえないと思ったので、なぜ削除したのか知っておいてほしいのですが。何か他で不満を言ってる方がだいぶいらっしゃるようなので。それにまったく無いことを書かれている場合は先行研究を探すのは難しい。まあ、「要出典」でしばらくおいてコメントを書いてもいいのですが。--奈良たかし 2007年9月26日 (水) 17:55 (UTC)

京都新聞の本能寺遺跡調査記事を脚注と外部リンクして「信長が光秀を疑っていたと指摘」と記事中にあるように記述されたものは現実にはなく自己説なので書き改めました。92年の今谷明氏の『信長と天皇』以来研究者の一般へのポイントの本は大方読んでいますが、各書とも光秀を信用していたという点は一致しています。光秀に軍勢を集めさせ、その進軍付近に小勢で行ったわけですから。--奈良たかし 2008年2月2日 (土) 13:28 (UTC)

「信長が光秀を疑っていたと指摘」については紙面によって記載が変わっているので、書き改めました。歴史人 2008年2月6日 (水) 08:02 (UTC)

光秀が政務を執っていた期間について

2006年11月10日 (金) 04:52の編集以降、明智光秀が「政務を執ったのが10日から21日の11日間と短かったため」という趣旨の記述がありますが、その直前に書かれている13日深夜に土民に討たれていたことと辻褄があわないのではないのでしょうか?とりあえず元の「10日から12日の3日間であったため」に修正しておきましたが、もしこちらの理解不足でしたらご指摘いただければ幸いです。--60.47.77.149 2007年9月26日 (水) 17:00 (UTC)

確かにご指摘の「10日から」はおかしいです。しかし史料検証に優れた谷口克広著『検証本能寺の変』で安土に入ったのが4日と5日の両史料があり、谷口氏は『兼見卿記』を信用し5日を取っていますが他史料も薄弱なものではありません。通説では安土に入ることで天下人となり、朝廷への昇殿もそれからです。それで両説明記として「日間」は消しました。ご容赦ください。--奈良たかし 2008年2月2日 (土) 13:28 (UTC)

「敵は本能寺にあり」について

「敵は本能寺にあり」は『川角太閤記』が初出、とありましたが、人物往来社『戦国史料叢書1太閤史料集』(昭和40年発行)収録の同書に該当記述が見当たりませんでしたので削除修正。また、根拠として『検証本能寺の変』が挙げられていたのでそちらも念のため精査しましたが、同書にあるのは「川角太閤記には明智軍の参加者が協力していた」という話で、「敵は本能寺にあり」とは無関係です。『明智軍記』については元禄十五年(1702年)版を収録した新人物往来社『明智軍記』(1995年発行)で確認。ネット上では「頼山陽が自作の漢詩の中で創案した」とする記述が散見されますがこちらの方が古いです。

分割提案

本記事「本能寺の変」は重大事件でありながら、いまだ謎の多い事件ですので、研究史も厖大ですが、小説・映画・ドラマ等の創作作品でも扱われることの多いテーマです。ただし、歴史的な史料・資料にもとづいた「史実・学説」と、資料を重視しない(あるいは史料・資料の制約からは比較的自由な)「フィクション・創作」とは、やはり切り分けるべきではないでしょうか。そのように考え、本記事のうち、「本能寺の変#フィクションにおける本能寺の変」節の分割を提案します。この分割提案と同時に、「関ヶ原の戦い#関ヶ原の戦いに関する創作」にも分割提案を出しました。「関ヶ原」の方は一覧記事ですので、本記事の場合とは若干性格が異なるかもしれませんが、一括してここで議論できればと思います。議題は、

  1. 分割の是非
  2. (分割を是とした場合)分割後の新記事=フィクションを扱った項目の記事名

です。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。--Chokorin 2010年8月6日 (金) 20:14 (UTC)(加筆)--Chokorin 2010年8月6日 (金) 20:35 (UTC)

議論の場を「本能寺」と「関ヶ原」で分けてもよかったのですが、可能であれば分割後の記事名をそろえるなど、統一的な対応ができないかと思い、一括議論としました。よろしくお願いします。--Chokorin 2010年8月7日 (土) 01:48 (UTC)
関連する議論

コメント欄

コメント受付期間

  • 2010年8月7日(土)00:00 (UTC) - 2010年8月15日(日)23:59 (UTC)

分割の是非

(賛成)賛成します。--SakumaTakuya 2010年8月8日 (日) 03:16 (UTC)

記事名等

「本能寺の変を題材とする創作作品」「関ヶ原の戦いを題材とする創作作品」あたりで統一するのが無難と考えます(「創作物」あるいは「創作」でもよいかもしれませんが)。本能寺の変を題材とする小説・ドラマなどは他にもあると思いますので、リストアップして一覧をつくったうえで、現在の節「フィクションにおける本能寺の変」は、そのまま新記事のなかの一節にするのがよいと考えます。--Chokorin 2010年8月7日 (土) 02:16 (UTC)

記事名ですが、第二次世界大戦を題材とした作品一覧という前例に習い、本能寺の変を題材とした作品一覧関ヶ原の戦いを題材とした作品一覧ではいかがでしょうか?--SakumaTakuya 2010年8月8日 (日) 03:16 (UTC)
御意見ありがとうございました。「第二次世界大戦を題材とした作品一覧」という記事があったのですね。教えてくださり、ありがとうございました。関ヶ原に関しては、「関ヶ原の戦いを題材とした作品一覧」でもよいと思いますが、本能寺に関していうと、現状すでに一覧記事ではありませんので、「本能寺の変を題材とした作品一覧」とした場合、少し問題がのこると考えます。また、「○○を題材とした作品一覧」とした場合、
  1. 現代史においては、記録や証言が豊富なため「創作」性の薄い実録的な作品が製作可能であり、また、実際に製作されているのに対し、前近代については、そもそも残された記録が数的に多くないうえに、断片的であり、史料も自家存続のために保存したなどという経緯でのこったものが多く、記録における自己正当化はむしろ当然の与件であるため、その解釈も大きく分かれる。それゆえ、ドラマ化・小説化に際しては「創作」の比重が大きくならざるを得ないという事情があります。であるなら、最初から「創作作品」と銘打った方がより性格がはっきりするような気もします。
  2. 「一覧」としてしまうと、加筆がそこで停滞してしまいますが、むしろ作品紹介などのかたちで加筆されることは歓迎すべきことではないかという考えもあります。
とはいえ、可能であれば、SakumaTakuya様のおっしゃるように統一的に扱うことも大切なことであり、傾聴すべき御見解と思います。いかがでしょうか。--Chokorin 2010年8月9日 (月) 23:32 (UTC)
記事名は出来るだけ百科事典としての統一感を持たせる意味からも前例を参考とすべきではありますが、おっしゃるように一覧記事でないものを「○○の一覧」とするのも、ちょっと慎重に構えたいと思います。本能寺の変を題材とした作品でもいいようにも思います。とは言え、絶対そうでなければいけないというものでもないので、ゆっくり考えましょう。--ろう(Law soma) D C 2010年8月12日 (木) 01:23 (UTC)
この問題が出た時に歴史人物記事や歴史事件記事について各々○○を題材とする創作を思いつきました。現代的な媒体は殆どフォローできるのではないかと思います。ただ古典的な作品や演目、例えば豊臣秀吉に対して天正記太閤記絵本太閤記・・・太閤記 (NHK大河ドラマ)と並べていくと、どこに切れ目があるのかな?と不安になります。そして検証番組とか再現ドラマはどうなのか?とか。少なくとも、史学的記事とフィクションは峻別すべきと思います。また、記事の分量的に同居が許される場合もあるかと思いますが・・・--Yasumi 2010年8月13日 (金) 21:10 (UTC)
みなさまの御意見を総合すると、「○○を題材とする作品」あたりが落としどころかな?と感じます。
  • 作品数が最初から厖大なものにおよぶと予想される世界史的大事件で、さしあたって「○○を題材とする作品一覧」が必要とされるケースとして第二次世界大戦などがある。
  • 上記以外のおおかたの事件については、「○○を題材とする作品」の項目を立て、一覧は、そのなかのセクションとして組み込むこととする。
  • 検証番組・再現ドラマなど、創作性のうすいものものも「○○を題材とする作品」で扱える。検証番組や再現ドラマのうち、史学的に重要とみなされるものについては、本記事のなかでもふれることとすればよい。
  • ゲームも「創作」というと語弊が出てくるが、「作品」というネーミングのなかで扱う分には、さほど違和感がない。
以上の理由からです。いかがでしょうか。--Chokorin 2010年8月15日 (日) 22:34 (UTC)
もう3日ほど、お待ちしたいと思います。特に御異論なければ、「○○を題材とする作品」ということで分割したいと思います。--Chokorin 2010年8月16日 (月) 12:13 (UTC)

分割終了

それぞれ分割しました。--Chokorin 2010年8月19日 (木) 06:58 (UTC)

本能寺の変と直接因果関係のない記述について

本能寺の変と直接関係のない記述が目立つ事があります。例として本日、徳川家康の堺での死亡説を削除しました 理由として

  • 堺での死亡説は文中でも大阪夏の陣で作られたものであるとされ(実際堺での死亡説では大阪夏の陣で真田幸村に打たれたことになっている)本能寺の変とは全く無関係であること

今後も本能寺の変と直接因果関係のない記述については削除していく方向でいきたいと思いますがノートに項目と理由を掲示頂ければと思います--ノーザン123 2010年10月24日 (日) 21:56 (UTC)

「本能寺の変」呼称について

素朴な疑問なのですが、「本能寺の変」という事件の呼称は何に由来するのでしょうか?同時代の史料用語であるのか近世期くらいに確立した事件の呼称なのか、あるいは近代以降の歴史学において用語として採用された経緯など、基本的な事件の呼称について言及があれば良いのではないかと思います。--でここ 2011年4月18日 (月) 12:15 (UTC)

誰も返答しないので一応私から書いておきます。これは、呼称というより単に国語の問題で、例えば「新明解国語辞典 第4版」では、「変」について「②天災・人災など、社会生活の秩序を乱すような突然の出来事。〔狭義では、動乱・兵乱・内乱を指す〕」とあります。
これまでの例としては、“政治的な陰謀や政変、クーデター”などで“時の政治権力者が強襲され場合により殺害された場合”に、前にその発生した場所名を付けて固有名詞として呼びます。他には「桜田門外の変」や軍事衝突の「禁門の変」、明治時代でも「紀尾井坂の変」などの例があります。だから言及しないでいいと思います。なお、足利尊氏や徳川家康のように、戦争を起こし権力を奪取して政権が成立した場合には呼びません。
ちなみに他に、朝廷が関わるものがあり、クーデターの「乙巳の変」があります。そして最近まで天皇皇族が軍事反乱を起こした場合、はばかって乱とつけず、平城上皇の乱なのに「薬子の変」や、後鳥羽上皇の乱なのに「承久の変」なども。これらは人名や元号を付けて呼びます。後例は現在は「乱」を付けたり混用していますが。--奈良たかし会話2013年3月3日 (日) 08:10 (UTC)

明智光秀の記事の統合について

今回の整理と史料に基づく独自研究

久しぶりに、独自研究は隠したり除去、まったく無いことは除去、その他記述など整理し、わかるものは出典をつけました。島津氏の点は一次資料に基づく独自研究なので[高次出典]を貼付しました。


律令制度の官位が理解不足の方が。信長は、ある程度たってから右大臣右大将をやめても、前(さきの)と、付くだけで扱いは変わらず煩雑な儀式に出席しないだけ楽なのです。正二位という位は返上してないから体制の中にいるのです。

一次資料と二次資料これらを整理して内容を紹介するのはいいですが、それで独自に研究するのはだめなのです。この区別がついてない人があまりに多い。特に一次史料は、読みにくいからいくらでも勝手に膨らませられるという所があり、注意が必要です。--奈良たかし会話2013年2月28日 (木) 09:39 (UTC)

利用者:Hihisu氏の編集について

保護依頼した利用者:Hihisu氏の編集については、「利用者‐会話:Hihisu#引用と出典の書き方について」で議論しておりますので、そちらをご覧ください。--Quark Logo会話2015年1月2日 (金) 10:15 (UTC)

利用者:Hihisu氏の編集について、新たにコメント依頼しました。自分が言っても聞かないので、第三者様のご意見いただければ幸いです。--Quark Logo会話2015年1月3日 (土) 03:08 (UTC)

‎Aketihou氏のコメントアウトについて

利用者:Aketihou会話 / 投稿記録 / 記録氏のコメントアウトに返事をしますが、ウィキペディアにおける独自研究の意味を把握してないと思います。独自研究とはっきりわかっているのなら削除してよいです。出典のある雑説と、独自研究は異なります。注意事項および合意にあるように出典のない独自研究は削除することになってますが、これはウィキペディア全体の基準であって、特にこのページがということではありません。ウィキペディアの独自研究とは、単に独自色のある主張という意味ではなくて、検証可能性のないものをさします。独自研究と検証可能性の説明は両方熟読してもらいたいのですが、出典があっても情報源が信頼できないではないかという場合は、ノートにて議論して、合意を形成してください。それが一般的なルールであって、ウィキペディアの決まりです。それに文句があるというのなら井戸端会議ででも議論して、方針について質問してください。--Quark Logo会話2015年3月7日 (土) 01:46 (UTC)

あと、言及されている「光秀の書簡」なるものは存在せず、最近話題の石谷家文書は長曾我部元親が斎藤利三、利宗、石谷頼辰に宛てたもので、光秀の書状ではなく、また動機のようなものが書かれているわけでもないです。四国説はすでに書いてありますが、定説に至っていないという点では説明の通りです。光秀が本能寺の変の動機を記した古文書なるものはこの世に存在しません。--Quark Logo会話2015年3月7日 (土) 05:53 (UTC)
利用者:Aketihou氏は「明智光秀の動機については書簡で明らかになっている」と言ってますが、その”書簡”を明示してください。そのようなものがこの世に存在するなら歴史的大発見ですが・・・・。あなたの言っているような検証可能性を満たさない情報っていうのが、まさに独自研究です。是非、というか、絶対的にガイドラインを熟読ください。全然理解してないように思いますし、聞きかじりで書いてませんか? 単純に勘違いをしていると思います。また履歴をみればわかるわけですが、雑説は全て私が書いたものではありません。消すという作業においても、ひとつひとつ検証していく作業が必要で、チェック作業は途中です。雑説だと言っているぐらいだから、重大な説だと考えていませんが、沢山の人がかかわった記事なので乱暴な編集をしてないだけです。全部の出典、史料をみたのか、という話であり、そもそも書く段階で出典の明記が守られていればこのような苦労はないわけですが、あなたのようにウィキペディアのルールに全く無知という人がかかわってくるのでしょうがないという面があります。言っておきますが、記事は現状が最終版というわけではなく、常に更新されていく性質のものです。--Quark Logo会話2015年3月7日 (土) 11:34 (UTC)
ますます混乱するばかりなので私も書いておきます。私も記述に関わっていますが、私も本能寺の変の陰謀説など無いと考えている一人です。冷静な研究者の多くも敢えて説に分類するなら野望説(高柳光寿など)、高齢焦慮説(谷口克広)、四国政策内紛説(桐野作人など)ぐらいです。私もそう思います。
しかし、これだけ陰謀説が多くなるのは、歴史家の藤本正行氏と鈴木眞哉氏の共著『信長は謀略で殺されたのか―本能寺の変・謀略説を嗤う』洋泉社新書y、2006年で、何回も取り上げるNHK歴史番組が最大の原因だと分析されていて、鈴木眞哉氏は別の本でNHKの大河ドラマも影響が大きいと書かれています。謀略説を鎮めるための最近の藤本正行氏の著書では、『本能寺の変 信長の油断・光秀の殺意』2010年 洋泉社歴史新書yの「まえがき」でも、”信長の本は多いが”「共通するのは本能寺の変の謎を解明する」というキャッチフレーズを掲げることである」と記述され、その他小説やテレビドラマが多い点も指摘されていて、実は「謀略説」は「日本の多数派」ともいえます。多数派である限り多くいろんな人が書いたし、これからも書かれるだろうし、出典に基づいて書かれたものは一概に消すわけにはいかないのです。
また光秀の書簡は、案外少ないというか山崎の戦で敗北して死んでから各領主などに出されたほとんどは廃棄されたらしいし、これまで残っている書状もすごく曖昧なので例え残っていてもわからないと思います。「天下が欲しかった」とは書けなかったのではと言う研究者の意見もあります。あるいは「高齢だから」も「信長政権の政策をめぐる内紛だ」とも書けないでしょう。
①美濃野口城主西尾光教宛て「父子悪逆天下の妨げ討ち果し候」
②毛利の小早川隆景宛て、あの有名な秀吉陣中に迷い込んできた毛利への早飛脚が持参していた手紙「光秀事、憤りを抱き、遺恨黙出しがたく今日二日本能寺において素懐を達し候」
③雑賀衆反信長派の土橋平尉宛て、義昭上洛を伝えた手紙への許諾を伝える返書で理由には触れず。
④細川藤孝忠興親子への手紙 ひたすら味方してくれと哀願する手紙で理由に触れず。ちなみに、光秀からの信長を討ったという第一報は、藤孝さんが激怒してすぐ焼いたので残っていません。『細川家記』では、こういう内容だそうです。「信長われに度々面目を失わせ、わがままの振舞のみこれあるにつき、父子ともに討ち果し、鬱積を散じ候。」(桑田忠親『明智光秀』P.205)
これ以外にないと思います。だから残念ながら書簡でわかるはずということは無いと思います。--奈良たかし会話2015年3月7日 (土) 14:25 (UTC)

利用者:Aketihou氏が「管理者の程度が知れますね」」という表現をつかっているところを見ると、Wikipedia:ウィキペディアは何ではないかを熟読してください、とまた言わねばなりません。中身の議論に入る以前に、大きな勘違いをしている人ではないでしょうか。この話で”管理者”はなんの関係もありませんが・・・。

ちなみに川角太閤記で採用された細川家文書の光秀覚書の該当の小早川隆景宛てのものについては小和田哲男氏桑田忠親氏、高柳光寿氏らは明らかな偽書であると言っています。これは怨恨説の根拠としばしばされますが、その怨恨説はすでに書いてあります。--Quark Logo会話2015年3月7日 (土) 16:57 (UTC)

どちらでもいいのですが、桑田忠親氏については、『明智光秀』P.190で本物だと言ってます。「後人の偽作と断定するにはあまりに文章が見ごとである。自然見があるし、理に叶っている。」と。私も光秀らしい曖昧さがあるし、この意見に賛成しています。但し修飾と末尾の文言が変わったものだというのは聞き取った内容をまとめた際に加わったものだと思っています。『川角太閤記』は、史料分析に優れた谷口克広氏が、『検証本能寺の変』で、記述への検証と注意は必要だが、光秀軍の元下士官2人が協力して取材に応じているので「本能寺の変」付近に限り「参考になる史料」として一定程度使用できると判断されています。--奈良たかし会話2015年3月7日 (土) 17:32 (UTC)
奈良たかしさん、失礼しました。記憶で書いたので間違えました。否定派は小和田氏だけでした。しかしこれは怨恨説または将軍黒幕説などの根拠にされると思いますが、いずれにしろ諸説の1つだと思います。またこれ以外の文章は全部、Aketihou氏へのものですのでご了解ください。--Quark Logo会話2015年3月8日 (日) 02:14 (UTC)
ほとんどがAketihou氏への記述だとは理解しています。ただし光秀書状に言及することはwikipediaの本能寺の変に寄与するものなので細かく書いています。高柳光寿氏は、『明智光秀』P.174で小早川隆景宛書状を本物として扱いつつも、成立過程のせいか限定許容で、「光秀は信長に対して近年憤りを抱き、遺恨黙止し難い」のみ取り上げています。「将軍御旗を上げ」は取っていないのです。公平のため最近のこの書状の全面否定論者を書くと、
桐野作人『真説本能寺』P.229・230 〈書留文言の「誠惶誠恐」が大げさで厚礼すぎるし当時の大名間書状で例もなく不自然だ〉ちなみにここで「高柳光寿氏は全面否定論者」と記述しています??高柳光寿氏は他書で全然違うことを書かれているのでしょうか。
谷口克広『検証本能寺の変』P.61-62、『川角太閤記』を参考資料としたが、書状は〈当時の書状の言い回しとかなり違っており偽文書であることは一目瞭然〉--奈良たかし会話2015年3月8日 (日) 06:57 (UTC)
手元に史料がないので、わかったら回答します。桐野作人氏の著作はよく知りません。--Quark Logo会話2015年3月8日 (日) 09:30 (UTC)


なんという不毛な長文の数々。まともな議論ができる人物がいるとは思えないですね。もう一度よく再考して投稿しなおしてみてはどうだろうか?--Aketihou会話2015年3月11日 (水) 22:53 (UTC)