ノート:尾陽神社

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--124.27.226.160 2009年7月11日 (土) 02:44 (UTC)--124.27.226.160 2009年7月3日 (金) 01:42 (UTC)名古屋市史等公の刊行物に明治8年1875年旧藩士の第二代名古屋市長志水忠平氏が藩祖徳川義直公、明治31年年1898年には徳川慶勝公の御馬廻役(近習)であった初代名古屋市長の中村修氏がお二人の御霊を名古屋東照宮に合祀を願い実現した事が起源であり邸内社は全く根拠がない。根拠を示させて頂きたい。このページには以前創建はは名古屋市、愛知県が創建したと書いていたが消えました。 名古屋開府300年記念で創建を決めたが名古屋開府300年記念会は官民合同の会であり創建を提案し創建する為に旧藩士で構成される戴恩会に当時の金で30000円寄付しただけで、その他は戴恩会が資金を募金して創建したがこれも公文書で明らかである。 仮本殿倒壊と書いているが旧藩士がやむを得ず祠を造り奉斎していたが何処に仮本殿があったのか?根拠を示させていただきたい。 このページには事実に反すると思われる文言が多い為要出典等タグを貼らしていただきました。正確な資料の提示をお願いします。尾陽神社の栞、宮司曰くではなく。 独自研究と言うならば最初に書き込まれた事のほとんどではないでしょうか?なるきっそすさん。 6月27日本文、ノート共白紙化されました。都合の悪い事を書かれたら白紙化するではルールに反すると思います。反論するならばこのノートで行うが筋でしょう。Wikipediaの管理者に通報して復活させてもらいます。 名古屋市史、名古屋市教育会編概観大名古屋等の書籍は名古屋の鶴舞図書館で閲覧可能です。                      近藤清三 平成21年6月22日AM:0時50分(申し訳ない6月22日ではなく6月29日です)[返信]

ご覧の皆様は現在の外部リンクの尾陽神社のホ-ムページをプリントアウトしておいて下さい。論点が定まりません。当然この問題は尾陽神社が責任のある立場として参加すべきだと思います。まずは神社の発祥という部分から始めましょう尾陽神社の栞、ホームページで発祥は名古屋城内の邸内社と言いますが昭和8年1933年4月1日名古屋市教育会発行の概観大名古屋 P181 一 徳川義直 p181 12行~13行 今、中区(現在昭和区に分割されている)御器所に在る尾陽神社は旧藩士等が其の遺徳を感佩して、徳川義直徳川慶勝の霊を祀ったものである。とあり 二 県社 尾陽神社 位置 中区(昭和区)北市場(字名) 祭神 徳川義直徳川慶勝 創立沿革 名古屋の藩祖徳川義直の霊は明治8年1875年、藩主徳川慶勝の霊は明治31年1898年に県社名古屋東照宮徳川家康の御霊と共に合祀したが、開府300年の記念事業として有志相謀り(欄外に戴恩会を組織すとあるのが有志)官許を得て社殿を創建(以下略)とある。①此処には創建したのは旧藩士とある。尾陽神社の栞、ホームページは旧藩士が創建者ではなく、名古屋市、愛知県が創建としているが根拠は。明治8年1875年明治31年1898年に両公の御霊を合祀願った人物は後々に問題にします。②元は合祀いただいた名古屋東照宮。お二人の御霊が邸内社にあったならば名古屋東照宮に合祀する時何処から御遷座されたのか?また邸内社の記述はどこにあるのか出典、根拠を示してください。近藤清三 平成21年6月30日AM:1時  明治8年1875年明治31年1898年名古屋東照宮徳川義直公と徳川慶勝公の御霊を合祀願った人物の話は誰かという問題ですが名古屋市史(明治)社会 P227~P230 二 東照宮 名古屋東照宮は~の内P228冒頭の祭神の記述で徳川義直(公)の霊の合祀、明治31年1898年徳川慶勝(公)の霊の合祀が書かれそのページの後ろから6行目に明治7年1874年士族総代志水忠平、(第二代名古屋市長在職期明治23年1890年から明治27年1894年)当社に徳川義直(公)の霊を合祀せんことを官に請い、許可を得て以下略とあり{士族中村修(初代名古屋市長在職期明治22年1889年から明治23年[[1890年)、鶴舞図書館の明治の名古屋人に記載)}が徳川慶勝(公)の霊の合祀せんことを官に請い、許可を得て、明治31年1898年4月5日徳川慶勝(公)の霊をも併せ祀るとある。ここで両名とも名古屋市長としてではなく旧藩士の立場でお二人の御霊を名古屋東照宮に合祀した事を留意していただきたい。合祀をねがった年は在職期間と重ならない。市長が合祀を願ったから名古屋市が合祀を願ったにはならない。注、この記述の中に徳川慶勝公の御霊を合祀願った人物の記述は無い。ただ名古屋市鶴舞図書館に収められている昭和55年に黒宮氏が自費出版した御器所今昔という書物の中に御器所西城跡(現在の尾陽神社の在る場所)の項の欄外に中村修氏が明治31年1898年願って徳川慶勝公を祀ったとの記述あり。黒宮氏は昭和区の北山で生まれ育った生粋の御器所人であるが御由緒をご存知だったようで御器所の歴史の一部として書き残された。尚、中村修氏は慶勝公の御馬廻役(前述の明治の名古屋人参照)このように旧藩士がお二人の御霊を名古屋東照宮に合祀した事を一切栞、ホームページに記載していない。香川君反論を。    近藤清三

近藤清三さん、重ねてお願いいたします。Wikipediaはあなたの論文を発表する場ではありません。各種方針やガイドラインを熟読いただき、中立的な観点で執筆いただきますようお願いいたします。


またその上で、Wikipedia:スタイルマニュアルに沿った記述を行ってください。単なる文章の羅列では論文でしかないです。--なるきっそす。会話履歴 2009年6月30日 (火) 00:16 (UTC)[返信]

平成21年6月30日AM:11時30分 管理人様へ。読まれた方に予断と先入観を与えると思われる部分を削除します。なるきっそすさん、異議ばかりではなく、議論に参加すべきでしょう。     近藤清三

ええと何度も繰り返しますが、議論以前の問題で、Wikipediaはあなたの論文を発表する場ではありません。またWikipedia:スタイルマニュアルに沿った記述を行ってください。各種ガイドライン等を読んでいただいての発言でしょうか?尾陽神社の史実がおかしいと言われるのであれば、直接該当神社と行ってください。ここで行うことではありません。--なるきっそす。会話履歴 2009年7月1日 (水) 05:17 (UTC)[返信]

平成21年7月1日なるきっそすさん、確かに貴方の言われる通りかも知れません。平成10年から尾陽神社とは交渉しましたがなんら訂正しません。私も貴方の言われるスタイルマニアルを不勉強です。今しばらくお時間を下さい。

平成21年7月3日、6月30日の版で名古屋市は市制をひく前は・・・の文章で第6代迄の区長、市長は全て旧藩士と書きましたが不確実(志水直、青山周の出身)の為削除いたしました。自らWikipediaに嘘、偽り、不確実な事を掲載するなと言いながら不確実な事を書き込みました事をお詫びします。お許し下さい。--124.27.226.160 2009年7月3日 (金) 01:43 (UTC)[返信]

平成21年7月11日、名古屋開府300年記念会について。 昭和55年1980年復刻名古屋市史付録名古屋開府300年記念会P581~p591に会の性格、組織、業績が記載されている。 1行目、我が名古屋市が能く長足の進歩を以って今日の盛況を呈するに至るたりは~始まる文章の内に名古屋開府300年記念会を明治40年1907年9月2日に組織し行事を完遂し明治43年1910年8月解散したとある。 会長、名古屋市長加藤重三郎(旧藩士、後名古屋電灯社長(現在の中部電力)等多くの企業の取締役,奥田正香氏、県知事深野氏との関係を三角同盟と言われた。)、副会長、名古屋商工会議所会頭、奥田正香(旧藩士、徳川慶勝公の御馬廻役、日本車両製造、現在の東邦ガス名古屋電力(合併して中部電力三重紡績(現在の東洋紡)等多くの企業の創建及び経営し名古屋の渋沢栄一と言われた)、監査、神野金之助(御用商人系、神野銀行等数多くの名古屋の企業の創立、紅葉屋事件の富田重助は血縁)、岡谷惣助(御用商人系、現在の岡谷鋼機、旧藩主、旧藩士の資産を運用するために創立された愛知銀行(後の東海銀行の頭取等多くの企業の取締役)、(市議会から政治家兼財界人の白石半助名古屋鉄道取締役等)山田才吉(東陽館、南陽館、奥田正香氏達と東邦ガスの経営に参加)伊藤由太郎愛知銀行東海銀行名古屋電灯取締等)鈴木惣兵衛(御用商人、幕末の日本の3大材木商、明治銀行愛知時計日本車両製造等多く企業の役員)上遠野富之助奥田正香氏の片腕、後名古屋商工会議所会頭、名古屋鉄道社長、日本車両製造名古屋電力(合併して中部電力、)東邦ガス等多くの企業の取締役)等が主な役員構成でした。) また会の構成員はP581後ろから2行目、会員を分かちて名誉会員(常議委員会の協議を経て会長の推薦するもの、及び金500円以上出金者)、特別会員(金100円以上出金者)正会員(金10円以上出金者)以下・・・・とあり官民合同の組織でありまたP581後ろから3行目中ほど記念会の営造物にして永久保存に堪うべきものは、その使用を終えたるの後、之を名古屋市に寄付する事とせり(寄付された物とは鶴舞公園に現在もある公会堂前の噴水、奏楽堂、胡蝶ヶ池)名古屋開府300年会=名古屋市ではない。 同じくP582、3行目明治43年1910年7月15日、更に同理事会を開き、廟社建設に就き、記念会より交付を受けたる30000円を基金として、戴恩会を組織し、尚広く寄付金を募集する事を議決せりとある。この様に名古屋市が刊行した公の書籍に名古屋開府300年記念会が提案したがその後は旧藩士達で構成された戴恩会が神社を創建した。昭和8年刊の概観大名古屋とほぼ同じ記述である。 これで尾陽神社の元は旧藩士のお二人が藩祖徳川義直公と幕末の藩主徳川慶勝公の御霊を合祀した名古屋東照宮。神社を創建したのは名古屋市、愛知県ではなく旧藩士である。このノートは現在の本文にある様に事の理非、真偽を議論する様にと書いてあります。異議、反論があればこのノート上に根拠、出典(尾陽神社のホームぺージ、栞は除く)をお示し下さい。反論無くば次に行きます。--124.27.226.160 2009年7月11日 (土) 02:44 (UTC)[返信]

非常に読み難いのでひとまず日付毎に改行を加えました。
近藤清三さん記事の執筆方法スタイルマニュアル等を読んでいただいての記述でしょうか?貴方の書き方は非常に読み難いものとなっています。すいませんが、基本的なルールというのを理解されてないと思います。
さらに各種方針やガイドラインといったWikipediaのルールも読んでください。
正直なところ結論として貴方が何を言いたいのか理解できません。なので異論も反論もできません。--なるきっそす。会話履歴 2009年7月11日 (土) 06:22 (UTC)[返信]

なるきっそすさん、貴方のご指摘の如く私の書いた文は改行すらままならず誠に読み辛いものになっています。私に代わり改行していただき有難うございました。ご指摘いただきました様に改善するように努力いたしますが未だ年、月、日の入れ方が解ったぐらいのテイタラクです。ご容赦下さい。--124.27.226.160 2009年7月12日 (日) 01:05 (UTC)--124.27.226.160 2009年7月20日 (月) 08:32 (UTC)--124.27.226.160 2009年7月20日 (月) 08:34 (UTC)[返信]

再立項しました。[編集]

削除依頼の終了に伴い、著作権の問題が無い形で本記事を再立項しました。--KAMUI 2009年9月27日 (日) 12:43 (UTC)[返信]

ご苦労様です。--青木おおぎ高校生 (会話/履歴) 2009年9月27日 (日) 13:17 (UTC)[返信]