ノルベルト・ブリューム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
ブリューム(1981年のCDU党大会にて)

ノルベルト・セバスティアン・ブリュームNorbert Sebastian Blüm1935年7月21日 – )は、ドイツ政治家キリスト教民主同盟(CDU)所属。ヘルムート・コール内閣で1982年から1998年まで16年間の全期間を通して労働・社会問題大臣(厚生労働大臣に相当)を務めた。


経歴[編集]

庶民派[編集]

ヘッセン州リュッセルスハイム Rüsselsheim出身。リュッセルスハイムのアダム・オペル社の機械工として職業訓練を受け、1957年まで機械工として働く。マインツの夜間学校に通い始め、1961年にアビトゥーア合格。この間、ボーイスカウト組織であるドイツ聖ゲオルク・ボーイスカウト団Deutsche Pfadfinderschaft Sankt Georgのリュッセルスハイム支部代表を務める。その後フォルクスワーゲン社などの奨学金を得て歴史学、哲学、ドイツ語学などを専攻し、また輔祭として神学を学んだ(当時神学教授だったヨーゼフ・ラッツィンガー=教皇ベネディクト16世の下でも学んでいる)。1967年、博士号を取得。

ブリュームは1950年に設立間もないドイツキリスト教民主同盟(CDU)に入党した。ブリュームは党内組織であるキリスト教民主主義労働者連合(CDA)で活動し、1966年からCDAの月刊誌「社会秩序」編集員となり、1968年にCDA事務局員(‐1975年)、1977年にはCDA連邦代表に就任した(‐1987年)。1969年にCDU連邦幹事会入り。1972年、ドイツ連邦議会選挙で初当選。1980年には連邦議会議員団副会長に就任。1981年にCDU副党首に選出される。1981年、西ベルリン市長リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーに招聘されてその参事(連邦政府担当閣僚)に就任、ベルリン市議会議員となる。

労働・社会問題相[編集]

しかし翌年10月、新たに成立したCDUのヘルムート・コール内閣に労働・社会問題相として入閣。1983年総選挙でドイツ連邦議会に復帰。以後1998年の退陣まで、コール内閣の全期間にわたり労働・社会問題相を務めた。大臣として社会保障の充実を図り、とりわけ介護保険制度導入に尽力した。1987年から1999年までノルトライン=ヴェストファーレン州のCDU代表を、また1990年まで、ついで1992年‐2000年まで、CDU副党首を務めた。2002年を最後に連邦議会を去り、政界を引退した。

イエスの心を持ったマルクス主義者」と揶揄されていたブリュームは、次第に新自由主義的傾向を見せ始めたCDU党内での影響力を失っていた。2005年の新聞インタビューでは「あなたは自分を左翼だと思いますか?」という質問に、「そうだといいですね!」と答えている。

政界引退後[編集]

ブリュームはテレビの娯楽番組に度々登場する庶民派政治家として知られ、2000年からは番組制作にも関わっている。また子供向け書籍を執筆している。2001年にライプツィヒ人権賞を受賞。また、サイエントロジーに対する批判でも知られる。湾岸戦争後の経済制裁に苦しむイラクを度々訪問し、パレスチナを度々訪問してイスラエルの占領政策を批判している。2004年にはケルンで行われたパレスチナ支援イベントで「イスラエルはパレスチナ人に対して殲滅戦争をしている」と発言、「殲滅戦争」というナチス・ドイツ時代の用語を使ったため、反セム主義と批判されたこともある(本人は否定)。2007年秋からは、漫才コンビの一員として全国を巡業している。

語録[編集]

  • 「安心なもの、それは年金です」(1986年の選挙スローガン)
  • 「新自由主義は世界中に広がっている。こんなに早いとは私も予想していなかった」(Süddeutsche Zeitung 09/2006)


先代:
ハインツ・ヴェルトファル
ドイツ連邦共和国労働・社会問題相
1982年 - 1998年
次代:
ヴァルター・リースター