ネパール人民解放軍

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ネパール人民解放軍(ネパールじんみんかいほうぐん、जनमुक्ति सेना, नेपाल)は、ネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)の軍事組織ネパール政府に対して反乱を起こしていた。

概要[編集]

閲兵式における人民解放軍(2011年1月22日チトワン郡

1996年、ゴルカ、ロルパ、ルクム、シンドゥリの4郡で武装蜂起し、ネパール国軍武装警察と10年間にわたる「人民戦争」(ネパール内戦)を戦った。農村部を中心に国土のかなりの部分(一説に8割)を実効支配し、支配地域に「人民政府」を組織した。外国からの援助はなく、武器や資金は警察や政府軍、銀行を襲うなどして調達した。約2万人の兵力があるといわれていたが、2009年5月5日に暴露されたビデオの中で、マオイストのプラチャンダ議長は「実際は7000人から8000人だ」と話している[1]

軍大会にて演説するプラチャンダ(2007年3月20日

2001年8月、正式に軍隊として発足。プラチャンダ最高司令官の下で4人の副司令官プラバカール(ジャナルダン・シャルマ)、バルデブ(チャンドラ・プラカシュ・カナル)、パサン(ナンダ・キショル・プン)、アナンタ(バルサ・マン・プン)らが実戦を指揮した(プラチャンダ自身は戦闘期間中の多くをインドで過ごし、衛星電話で前線を指揮していた)。実戦を積み重ねる中で、「師団(Division、3000-4000人)」「旅団(Brigade、1000-1500人)」「大隊(Battalion、300-500人)」「小隊(Platoon)」「分隊(Squad)」といった組織が次第に整備された(下の組織から順に形成された)。2003年には2個師団、7旅団、19大隊が編制され、2005年には7個師団に増強されていた。

2006年、政府とマオイストの間で「包括的和平協定」が調印され、国連ネパール支援団(UNMIN)が人民解放軍の武装解除を実施し、両軍の停戦を監視した。2007年2月18日、UNMINはマオイストの武装解除のための武器・兵力の登録作業の完了を報告。

2008年8月、プラチャンダ議長が首相に就任し、人民解放軍最高司令官を辞任。人民解放軍最高責任者に前副司令官・パサン(ナンダ・キショル・プン)が就任した。マオイストはネパール国軍との統合を国軍に要求していたが、国軍制服組トップのルークマングド・カトワル陸軍参謀総長は軍の政治的中立性が保てなくなるとしてこれに公然と反対していた。ついに2009年5月3日、プラチャンダがカトワルを陸軍参謀総長から解任。これに対し連立与党、野党、国軍が一斉に反発し、ラムバラン・ヤーダブ大統領が解任を取り消し首相を非難するという事態に立ち至り、翌5月4日、プラチャンダが首相を辞任。人民解放軍の取り扱いをめぐる対立がきっかけとなり、連立政権崩壊という事態となった。マオイストは下野し、後継のマダブ・クマル・ネパール政権は統合に消極的である。

脚注[編集]

  1. ^ カトマンズ・ジャーナル2009年5月5日けぇ がるね?日記2009年5月5日

外部リンク[編集]