ヌオン・チア

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カンボジアの政治家
ヌオン・チア
នួន ជា
Nuon Chea
Nuon Chea Trial January 2011.jpg
生年月日 1926年7月7日(89歳)
出生地 Flag of Colonial Annam.svg フランス領インドシナ連邦、カンボジア、バタンバン州
所属政党 タイ共産党
インドシナ共産党
カンプチア共産党(クメール・ルージュ)

Flag of Democratic Kampuchea.svg 民主カンプチア人民代表議会議長
在任期間 1976年4月11日 - 1982年
国家幹部会議長 キュー・サムファン
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ヌオン・チアクメール語: នួន ជា / Nuon Chea, 1926年7月7日 - )は、カンボジアの政治家。カンプチア共産党副書記兼中央委員会常務委員。民主カンプチア政権では人民代表議会議長(国会議長)を務め、ポル・ポトに次ぐ第2位の地位にあった。

経歴[編集]

本名は、ラオ・キム・ローン(Lao Kim Lorn)[1](本名はロン・ブンロト(Long Bunruot)だと書く文献[2]もある)。1950年代にクメール・イサラクのメンバーとして活動していた時期[3]には、ロン・リス(Long Rith)と名乗っていた[4][2]1926年7月7日、カンボジアバタンバン州サンカエ(Sangkae)地区ヴォアト・コー(Voat Kor)村に生まれた[1]。生家は華僑で、裕福な家であったという[5]

1942年、バッタンバンで中学4年を修了した後、バンコクに向かい、1944年にタマサート大学予科に7期生として入学した[6]。(カンボジア特別法廷での第1審判決文では、タイに出たのは1941年と認定されている[1]。)タマサト(Thammasat)大学では法律学を専攻した[1][7]。この当時は、タイ語名のルンロート・ラオディーを名乗っていた[8]。(カンボジア特別法廷での第1審判決文では、ルンラート・ラオディ(Runglert Laodi)と名乗っていたと認定されている[1])。同時期(文献[9]によると、タマサト大学へ入学する前のことであるという)、タイの財務省や外務省でもパートタイムの事務員として働いたことがある[1][7][10]

1950年、ムオン(Muon)という人物に勧誘されて[7]タイ共産党に入党[11][1]、この頃からプロパガンダや教育活動(新聞の発行、辺境の農民の教化活動など)に携わることで活動が活発化し始める[12]。 同年カンボジアに帰国した(文献[7]によると、バッタンバンへ戻った)。後に、インドシナ共産党に転籍[12][7][13]し、1951年9月[14]、クメール人民革命党(後のカンボジア共産党)中央委員会の委員に任命された[14]

1951年頃から1954年まで、党の命令により、政治教育の目的でベトナムへ送られたが、ジュネーブ停戦協定の後でカンボジアへ帰国する[12] (文献[14]によると帰国は1955年夏のことであるという)。ストゥン・チニト(Stung Chinit)川そばのボエン・ルヴェア(Boeng Lvea)やサムロートなどの辺境の村を転々として、革命運動への関与を隠して生活したが、1955年にはプノンペンへ移住した[12]。教師、売り子、輸出入関連企業(中国・カンボジア間での輸出入をおこなう会社だったという[15])の店員など職業を変えつつ、プノンペン市の革命委員として地下活動を続けた[16]。1960年の第2回党大会において党中央委員会常務委員および党中央委員会副書記に選出され、党内序列第2位となる[17][18]。1963年2月の党大会においてポル・ポトが党書記に選出されると、その下で引き続き党副書記を務めることになった[19]

ロン・ノル闘争期の1973年3月25日、解放軍最高司令部の設置が公表された際、最高司令部副議長および「軍政治部長」の肩書きで紹介され[20]、武装勢力政治部門で序列第1位の地位にあった[21]

1975年4月のプノンペン制圧後、10月9日の党常務委員会において委員の任務分担が採択され、チアは「党務、社会福祉、宣伝および教育担当」とされた[22]。また、遅くとも1970年以後に存在が公表された党中央委員会軍事委員会の「副委員長、政治担当」とされ、さらに同委員会内の秘密の「治安委員会」のなかの「秘密委員会」の委員長を務めていた[23]

1976年1月に民主カンプチアが樹立され、4月11日から始まる人民代表議会第1期第1回全体会議において人民代表議会常任委員会議長に選出された[24]。暗号名「ブラザー・ナンバー2」と呼ばれ、政権内でポル・ポトに次ぐ第2位と目された[25]

1979年ベトナムの侵攻に伴い政権が崩壊するとゲリラ活動に転じる。

1998年、現政権に投降。恩赦を受けて釈放後、パイリンに居を移す。

2007年カンボジア特別法廷に拘束される。その後は高齢のため入退院を繰り返しており、公判維持が難しくなっている[25]

2013年10月21日、検察は最高刑にあたる終身刑を求刑した[26]

第1審の審理中や最終弁論で、ヌオン・チアは民主カンプチア時代に起こったことに対して倫理的責任については認めた[27]が、自分には実権がなかったと主張して[27]、法的責任は一切認めなかった[27]。また、1審裁判では、一部の質問に対して簡潔に答えることはしたが、おおむね黙秘した[28]

2014年8月7日、案件002/01に関して第1審で判決が下され、キュー・サムファンと共に終身刑が宣告された[29]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 案件002/01第1審判決文、パラグラフ305.
  2. ^ a b P.Short, Pol Pot : Anatomy of a nightmare, Henry Holt and Company, LLC, New York, p.455.
  3. ^ P.Short, Pol Pot, p.5.
  4. ^ B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), Yale University Press, ISBN 978-0-300-10262-8, p.428.
  5. ^ “ポル・ポト派ナンバー2のヌオン・チア容疑者、虐殺指示か”. AFP.BB.NEWS. http://www.afpbb.com/article/2161088 2010年9月17日閲覧。 
  6. ^ 村嶋(2008年)、92ページ。
  7. ^ a b c d e B.Kiernan, How Pol Pot(second edition), p.59.
  8. ^ 村嶋(2008年)、88-89ページ。
  9. ^ P.Short, Pol Pot , p.119.
  10. ^ P.Short, Pol Pot, p.119.
  11. ^ 村嶋(2008年)、93ページ。
  12. ^ a b c d 第1審判決文、パラグラフ306.
  13. ^ P.Short, Pol Pot, p.119.
  14. ^ a b c P.Short, Pol Pot, p.119.
  15. ^ P.Short, Pol Pot p.120.
  16. ^ 第1審判決文、パラグラフ308.
  17. ^ 山田(2004年)、27-28ページ。
  18. ^ ヘッダー、ティットモア(2005年)、94-95ページ。
  19. ^ 山田(2004年)、28-29ページ。
  20. ^ http://d-arch.ide.go.jp/browse/html/1972/201/1972201DIA.html
  21. ^ ヘッダー、ティットモア(2005年)、104ページ・注194。
  22. ^ ヘッダー、ティットモア(2005年)、95-96ページ。
  23. ^ ヘッダー、ティットモア(2005年)、96-97ページ。
  24. ^ http://d-arch.ide.go.jp/browse/html/1976/201/1976201DIA.html
  25. ^ a b “ポル・ポト派ナンバー3死去、虐殺究明に影響も”. 読売新聞. (2013年3月14日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20130314-OYT1T01077.htm 2013年3月15日閲覧。 [リンク切れ]
  26. ^ ポルポト政権元最高幹部に終身刑求刑 特別法廷で検察側」『朝日新聞デジタル』2013年10月21日
  27. ^ a b c 案件002/01第1審判決文、パラグラフ1062.
  28. ^ 第1審判決文、パラグラフ304.
  29. ^ 第1審判決文、パラグラフ1061.

参考文献[編集]

関連項目[編集]