ドゥエ=ラ=フォンテーヌ

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Doué-la-Fontaine

行政
フランスの旗 フランス
地域圏 (Région) ペイ・ド・ラ・ロワール地域圏
(département) メーヌ=エ=ロワール県
(arrondissement) ソミュール郡
小郡 (canton) ドゥエ=ラ=フォンテーヌ小郡
INSEEコード 49125
郵便番号 49700
市長任期 ミシェル・パテ[1]
2014年 - 2020年
自治体間連合 (fr) fr:Communauté de communes de la région de Doué-la-Fontaine
人口動態
人口 7584人
2013年
人口密度 211人/km2
住民の呼称 Douessins
地理
座標 北緯47度11分38秒 西経0度16分28秒 / 北緯47.1938888889度 西経0.274444444444度 / 47.1938888889; -0.274444444444座標: 北緯47度11分38秒 西経0度16分28秒 / 北緯47.1938888889度 西経0.274444444444度 / 47.1938888889; -0.274444444444
標高 平均:m
最低:48m
最高:105m
面積 35.9km2
Doué-la-Fontaineの位置(フランス内)
Doué-la-Fontaine
Doué-la-Fontaine
公式サイト ville-douelafontaine.fr/
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ドゥエ=ラ=フォンテーヌDoué-la-Fontaine)は、フランスペイ・ド・ラ・ロワール地域圏メーヌ=エ=ロワール県の旧コミューン。2016年12月15日、周辺の7のコミューンと合併しコミューン・ヌーヴェル(fr)であるドゥエ=アン=アンジューとなった。

地理[編集]

ドゥエ=ラ=フォンテーヌの位置
採石場にある、貝殻の化石からなる石灰岩層

ソミュロワ地方にあり、ロワール・アンジュー・トゥーレーヌ地域圏自然公園の中心に位置する。モントルイユ=ベレの北東10km、ソミュールの南西14kmの距離にある。

1999年にINSEEが確立した分類表によれば[2]、ドゥエ=ラ=フォンテーヌは孤立した町で、単一のコミューンで都市部を形成している。すでにある都市部の一部ではないし、すでにある都市空間の一部にもなっていない。

一億年から一億二千万年前、中新世時代の海の下にドゥエはあった。西へ向かって水が引いていき、貝殻が厚く堆積した石灰岩層が姿を現した。

コミューンの南西部近くを流れるレイヨン川の小さな支流が、コミューン内を流れている。コミューンの北部でドゥエ川は源を発し、西へ流れてレイヨン川に合流する。南部で源を発するガナシュ川は西へ流れてコンクルソン・シュル・レイヨンとの境界付近でクール・シル・プル川に合流する。

由来[編集]

814年から835年までの間、コミューンの地名はThedoadus、Thedwat、Teutwadus、Theodwadumとなり、その後847年にDoadumとなった。アルベール・ドーザによれば、ゲルマン語の男性名Theudoadから生じたとされるのに対し、エルネスト・ネグルは、ラテン語の男性名Deodatusから生じたとする。我々は980年頃にvilla Doadensiと記されたのを見つけている。1050年頃にはCastrum Doadus、1055年頃にはcastro Daodoであった。1060年頃にHugo de Doeと言及している。名前は1182年にDoeに進化するが、1392年にはDouetumとなっている。1500年にはDoué près Saumurとなっていた[3][4]

douéという言葉は、自然にできたまたは人為的に作られた水が流れる水路を意味する、古いつづりのdouetからきている。『アンジューの方言と訛りにおける語源学と歴史の用語集』によれば、ヴェルニエとオニヨンはどちらもdoueについてふれている。douveが語頭音消失したもので、douetは洗うことを意味しているというのである[5]。Doué-la-Fontaineの場合、douéは古代のコミューン名の語源を示しているのである[3]

Doué-la-Fontaineの名は1893年に採用された。公式にコミューン名となったのは1933年4月11日のデクレにおいてである[4]

歴史[編集]

人がこの地を通過した最古の痕跡として、ムスティエ文化の道具が見つかっている。新石器時代には研磨された石斧、骨や角でできた道具がもたらされた。

6つのドルメンがドゥエ=ラ=フォンテーヌ小郡に散らばっているのは、新石器時代に人が定住した証拠である[6]

青銅器時代以降、複数の斧、釘、矢、鉄製の槍、ゲルマンの文様が刻まれた腕輪、ハルシュタット文化の影響がみられる剣が見つかっている。現代のドゥエの地は、古代にガリア族、アンデカウィ族、ピクト族の境界線上であった[6]

ガロ=ローマ時代のドゥエ=ラ=フォンテーヌ郡の地は、ローマのヴィラが建設されていた。実際のヴィラはおそらくソミュールアンジェ、モントルイユ=ベレ、ジャンムとの間を通るローマ街道の交差地点であった[6]

8世紀、ドゥエはアキテーヌの領土だった。790年以降、シャルルマーニュの子ルイ敬虔王は13歳ながらもすでにアキテーヌ王となって10年であった。彼は781年からヴィラまたはpalatium de Theotwadumに恒久的に住んでいた。814年、ルイは父の死に伴い、こうして皇帝となった。彼は832年にアキテーヌ王ピピン1世から帰順を受けている。カロリング朝時代の住居の痕跡は何も残っていない[6]

847年2月15日、シャルル2世はドゥエとその周辺の土地をキュノー修道院の修道士たちに授けた[7]。講堂が、9世紀最後の20年ほどの期間に、現在の町の南に建てられた。深刻な火災で損傷する前に、10世紀半ばに建物は分割され拡張された。10世紀終わりには建物はおそらく要塞に転換されていた[8]

サン=レジェ教会とサン・ジャン・バティスト教会の周辺で定住地が成長していった。ヴァイキングの侵攻でキュノー修道院の修道士たちが追い出されたため、彼らはトゥルニュの修道院に避難した。アンジュー伯はキュノー修道院の土地を自分の影響下に組み込む機会を得た。これらの一部を手に入れるため、トゥルニュの聖職者ウードはドゥエの土地をアンジュー伯ジョフロワ1世のものと認めている。987年にジョフロワ1世が死ぬと、新たな伯爵となったフルク・ネラは人口集中地の近くにカストルムを築いた。これがその後要塞化された[7]

1024年頃、アンジュー伯はドゥエ城をジェルドゥアン・ド・ソミュールの子エメリに与えた。彼はアンジュー伯に対し反乱を起こし、1026年に捕虜となっている。しかしながら、ドゥエ領主は伯爵の宗主権に対して反抗的であり続けた。城は1109年と1123年にアンジュー伯フルク4世によって包囲され、1147年にはジョフロワ4世によって破壊された[7]

13世紀、町は繁栄していた。町は市場を開く会場であるアルを持ち、見本市、そして布の市場を持っていた。1229年には町のブルジョワ階級によって病院が設置された。13世紀、ウスタシュ・ド・ドゥエとリル・ブシャール家との婚姻によって、持参金がもたらされた。持参した領地は男爵領となった。町とドゥエの城は百年戦争で被害を受けた。1427年にカトリーヌ・ド・リル・ブシャールがジョルジュ1世・ラ・トレモイユと結婚したことによって、男爵領はラ・トレモイユ家のものとなった[7]

16世紀から17世紀にかけ、ドゥエはカトリーヌ・ド・メディシスシャルル9世アンリ4世ルイ13世が滞在するという栄誉を賜った。ルイ14世は町を自治体とし、自らの紋章を与えた。しかし、男爵ジョゼフ・フロンの時代に町は最大の繁栄を経験した。ドゥエの城を再建し、イタリアから輸入したポプラを50万本植えた。彼はアルファルファとイガマメの栽培を導入し、自らが建てたシャトーの中にスーランジェ苗床場を設置した。彼は噴水も設計した。彼はまた、貿易拡大のための見本市市場の会場を手配した。特に王家の庭師の支援を受けて奨励したバラ栽培は、現在のドゥエの国際的な名声につながっている。

ジョゼフ・フロンはフランス革命初期の犠牲者の一人だった。シャトーは破壊された。今日まで残るのは、厩舎と城壁の土台の一部である。

ヴァンデ戦争において、ドゥエは6月7日と8月3日にヴァンデ軍に攻撃されている。8月5日に共和国軍によってヴァンデ軍は蹴散らされ、彼らは9月14日に行われたヴァンデ軍の攻撃を退けている。1793年11月30日、アンジェから1200人の捕虜がドゥエに移送された。彼らは1794年1月22日まで、アリーナやサン・ピエール教会に閉じ込められていた。2か月の間に184人が死亡した。350人から370人以上の囚人たちは、ギロチンにかけられるか、銃殺された[9]

革命後のドゥエは、19世紀に成長した。バラの栽培と生産が急成長し、鉄道は1896年にドゥエに達した。ドゥエは、自治体内にある発電所によって電化された最初の中小都市である。20世紀初頭、地場産業は急激に転換点となり、園芸は継続して伸びた。1964年10月1日、ドゥエはドゥースおよびスーランジェと合併した[10]

人口統計[編集]

人口グラフ
1962年 1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2007年 2013年
3895 6018 6497 6724 7260 7450 7428 7584

参照元:1962年から1999年まで人口の2倍カウントなし。1999年までEHESS/Cassini[11]、2004年以降INSEE[12][13]

経済[編集]

  • ドゥエ・ラ・フォンテーヌ動物園 - メーヌ=エ=ロワール県有数の来客者数を誇る。2010年の来客者数は231,764人[14]

ギャラリー[編集]

出身者[編集]

脚注[編集]

  1. ^ "Liste des maires élus en 2014" (PDF). le site de la préfecture du département de fr:Maine-et-Loire. 2014年4月19日閲覧.
  2. ^ Page INSEE [1] ; cheminement : sur la petite carte de France, onglet Départements, puis choisir le département, puis menu déroulant Couches d'aide à la sélection
  3. ^ a b (Augereau 2004, p. 74)
  4. ^ a b (Port 1978, p. 55)
  5. ^ (Verrier & Onillon 1908, p. 298)
  6. ^ a b c d (Port 1978, p. 57)
  7. ^ a b c d (Port 1978, p. 58)
  8. ^ Étude des vestiges de l'aula, Doué la Fontaine (Maine et Loire)
  9. ^ Jacques Hussenet (dir.), « Détruisez la Vendée ! », p. 455.
  10. ^ INSEE, Code Officiel Géographique, Modifications des communes de Maine-et-Loire, consultées le 24 juin 2012
  11. ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=12124
  12. ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
  13. ^ http://www.insee.fr
  14. ^ "Chiffres cles du tourisme en Anjou". {{cite web}}: Cite webテンプレートでは|access-date=引数が必須です。 (説明)

参考文献[編集]

  • Célestin Port, Dictionnaire historique, géographique et biographique de Maine-et-Loire et de l'ancienne province d'Anjou : D-M, t. 2, Angers, H. Siraudeau et Cie,‎ , 2e éd. (notice BnF no FRBNF34649310, lire en ligne)
  • Pierre-Louis Augereau, Les secrets des noms de communes et lieux-dits du Maine-et-Loire, Le Coudray-Macouard, Cheminements,‎ , 398 p. (notice BnF no FRBNF39295447, lire en ligne), p. 52-53.
  • A.-J. Verrier および R. Onillon, Glossaire étymologique et historique des parlers et patois de l'Anjou, t. I et II,‎ , consulter en ligne (tome I), consulter en ligne (tome II)
  • Jacques Hussenet (dir.), « Détruisez la Vendée ! » Regards croisés sur les victimes et destructions de la guerre de Vendée, La Roche-sur-Yon, fr:Centre vendéen de recherches historiques,‎ .