スティーヴ・ヒレッジ

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スティーヴ・ヒレッジ
SteveHillage1974.jpg
スティーヴ・ヒレッジ 1974
基本情報
出生名 スティーヴン・シンプソン・ヒレッジ
生誕 (1951-08-02) 1951年8月2日(66歳)
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン ウォルサムストウ
ジャンル プログレッシブ・ロックカンタベリー・ロックテクノ
職業 ギタリスト歌手作曲家音楽プロデューサー
担当楽器 ギターボーカルシンセサイザー
レーベル ヴァージン・レコード
共同作業者 アーザッケル
カーン
ケヴィン・エアーズ
ゴング
システム7

スティーヴ・ヒレッジ(Steve Hillage、1951年8月2日[1]- )は、カンタベリー・ロックを代表する、1960年代末より活躍しているイギリスのミュージシャンである。一般的にはソロ活動、ないしゴングシステム7といったグループに参加したことで知られている。

略歴[編集]

スティーヴン・シンプソン・ヒレッジ(Stephen Simpson Hillage)はロンドンウォルサムストウで生誕した。彼は1967年、「シティ・オブ・ロンドン・スクール」というパブリック・スクールに通っていたときにデイヴ・スチュワートと出会い、その後モント・キャンベルクリープ・ブロックスも加えて最初のバンドであるユリエル('Uriel')を結成した[2]。そのバンドは尿瓶('Urinal')に通じるということからマネジメント側から改名させられ、1969年にはアーザッケル('Arzachel')というグループに発展するが、ヒレッジはそのバンドを「大学に進学する」という理由で脱退した。ヒレッジの脱退したバンドはメンバーを変えて1968年にエッグ('Egg')へと発展し、そのバンドは高い評価を得る(エッグの三枚目のアルバムである"Civil Surface"にヒレッジはゲストとして参加している)。

1971年にヒレッジは音楽界に戻りカーン('Khan')を結成した(そのバンドでは友人であるデイヴ・スチュワートがキーボードを担当する)。翌年にアルバム"Space Shanty"を発表するが、同じ年にグループは解散した。次に彼はケヴィン・エアーズと組んだり、1973年から1974年にかけてゴングの有名な作品『ラジオ・グノーム三部作("Radio Gnome Trilogy")』にギタリストとして参加したりと様々なグループを渡り歩く。

1975年から彼は本格的にソロ活動に転向する。彼のソロ作品は主にゴングにおける作曲と連続性を持っており、1970年代におけるジミ・ヘンドリックス以降の展開、及びパンク・ロック直前の雰囲気の中で、ギタリストとして、あるいはプログレッシブ・ロック/フュージョンの作曲家・演奏家として、着実にキャリアを積んでいった。彼のアルバム"L"はトッド・ラングレンユートピアのメンバーと録音されたものであり、さらにGreenピンク・フロイドニック・メイスンがプロデュースに当たった。

これら1970年代の作品は、彼の長年のガールフレンドであるミケット・ジローディの協力を得てスタジオにおける複雑な制作技術を詰め込んだものである。フュージョンやスペイシーなギターサウンドはゴングのサウンドの延長線でもあったが、次第にシンセサイザーなどを取り入れたアンビエントな雰囲気へと変わっていく。この頃、ヒレッジはヒッピー文化の一人として見なされていたが、彼の作品の売り上げはパンク・ロックの到来とともに次第に下落していった。

ヒレッジはイギリス・アンダーグラウンド文化の中心であった、ロンドンラドブローク・グローブ周辺で時間を過ごし、ホークウインド ('Hawkwind'、アンダーグラウンドの共同体的なバンド)の結成メンバーであるニック・ターナー('Nik Turner')と仕事をした。

1979年には初期のアンビエント作品として知られるRainbow Dome Musickをリリースし[1]、同年にはOpen、1983年にはFor to Next/And Not Orをリリースするが、その後ソロ活動は途絶える[1]。1980年代以降、ヒレッジは録音プロデューサーとしても仕事をしており、シンプル・マインズロビン・ヒッチコックイット・バイツ等の録音制作に就いた[3]

1980年後半には活動が停滞していたが、1989年、ヒレッジはジ・オーブのアレックス・パターソンがクラブでRainbow Dome Musickをかけているのを聴き、それを機にジ・オーブとのコラボレーションを始める[1]。1990年代初頭にはジローディと再び組んで'システム7'を結成した。そのバンドはまもなくロンドンのアンダーグラウンドなダンスシーンの一角を形成するようになった。彼のプログレッシブ・ロックからテクノ/ダンスミュージックへの転向は一時期埋没しつつあった彼の存在を再評価させることとなる。

また、1990年代にはザ・シャーラタンズ(英バンド)のアルバム『アップ・トゥ・アワ・ヒップス』(1994年)をプロデュースした。次作もレコーディング初期段階でプロデュースを担当していたが、アルバム完成前にバンド側から解雇された。ただし、そのうちの数曲には、ヒレッジの名がプロデューサーとしてクレジットされている。

ヒレッジは1998年に「1, 2, 3 Soleils」というライの音楽イベントをプロデュースしている。アルジェリア出身の歌手であるFaudel、ラシッド・タハ(Rachid Taha)、ハレド(Khaled)をフィーチャーしたものである。1990年代中盤から、ヒレッジはギタリスト兼プロデューサーとして、主にラシッド・タハの音楽制作に加わっている。

ディスコグラフィ[編集]

ソロ・アルバム[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

ライヴ・アルバム[編集]

コンピレーション・アルバム[編集]

  • Aura (1979年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Steve Hillage | Biography | AllMusic - Artist Biography by Jason Ankeny
  2. ^ Arzachel | Biography | AllMusic - Artist Biography by Peter Kurtz
  3. ^ Steve Hillage | Awards | AllMusic