カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ
カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ (Café de la Nouvelle Athènes) は、フランスのパリ、ピガール広場9番地にあったカフェ。19世紀、エドゥアール・マネや印象派の画家たちが集ったことで知られる。
場所
[編集]マネと印象派の集まり
[編集]マネや、エドガー・ドガなどの後の印象派を形成する若手芸術家たちは、1860年代後半から1870年代前半にかけて、パリのカフェ・ゲルボワに集まり、「バティニョール派」と呼ばれていた。そこに版画家マルスラン・デブータンも参加したが、1873年半ば頃、デブータンが、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに行きつけのカフェを変えたようであり、それに伴って、皆のたまり場がここに移り変わった[2]。
批評家のジョルジュ・リヴィエールは、次のように書いている[1]。
ヌーヴェル・アテーヌに、我々はしばしば大勢で集まった。にこやかで優雅なマネは、とても若々しい風情で、デブータンの隣に座りにやってきては、彼と愉快な対照をなしていた。ドガは、ルイ=フィリップ・スタイルのブルジョワのような様子で、同時代人に対する辛辣な言葉を携えてやってきた。
カフェ・ゲルボワの常連だったエミール・ゾラ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、ザカリー・アストリュク、フィリップ・ビュルティ、アルマン・シルヴェストルらに加えて、ジャン=ルイ・フォラン、ジャン=フランソワ・ラファエリ、アンリ・ゲラール、ジャン・リシュパン、オーギュスト・ヴィリエ・ド・リラダン、音楽家エルネスト・カバネルらがカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌに集まった。ピエール=オーギュスト・ルノワールも顔を出した[1]。
カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌを舞台にした作品として有名なのは、ドガの『アブサン』であり、女優エレン・アンドレとデブータンがモデルとなっている[3]。
ラファエリは、ルイ・エドモン・デュランティの紹介で、ドガ、フォラン、フェデリコ・ザンドメーネギらカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌの仲間に加わるようになったと思われる[4]。しかし、ラファエリをはじめとするドガの仲間に印象派グループ展への参加を認めるかどうかは、印象派グループ内に対立をもたらした[5]。ギュスターヴ・カイユボットは、カミーユ・ピサロへの手紙の中でドガの批判をする際、次のように書いている[6]。
ドガが私たちの中に不和を持ち込んだのです。彼にとって不幸なことですが、彼の性格は善良とはいえません。絵画制作に専念した方がよいと思われる時に、彼はカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌや社交界で熱弁を振るって時間を過ごしています。 — ギュスターヴ・カイユボット、ピサロへの手紙(1881年1月24日)
その後
[編集]第一次世界大戦後、この店があった建物では、モニコ (Monico) というレストランが営業し、その後、El embajador del tango、スフィンクス、ナルシスなどと名前が変わった後、建物が建て替えられ、高級百貨店が営業した[7]。
関連作品
[編集]-
ジャン=ルイ・フォラン『カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ』
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エドガー・ドガ『アブサン(カフェにて)』
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エドゥアール・マネ『カフェのジョージョ・ムーア』1879年頃
脚注
[編集]- ^ a b c 三浦 (2018: 140)。
- ^ 三浦 (2018: 139-40)。
- ^ 三浦 (2018: 141)。
- ^ 島田 (2009: 183)。
- ^ 島田 (2009: 178)。
- ^ 島田 (2009: 190)。
- ^ “Place Pigalle (2) Nouvelle Athènes, Folie Pigalle.”. Montmartre secret. 2019年5月12日閲覧。
参考文献
[編集]- 島田紀夫『印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』小学館、2009年。ISBN 978-4-09-682021-6。
- 三浦篤『エドゥアール・マネ――西洋絵画史の革命』KADOKAWA〈角川選書〉、2018年。ISBN 978-4-04-703581-2。