ルイ・エドモン・デュランティ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
ルイ・エドモン・デュランティ
Louis Edmond Duranty
Edgar Degas Portrait of Duranty.jpg
エドガー・ドガによる肖像画。
誕生 ルイ・エミール・エドモン・デュランティ
Louis Émile Edmond Duranty
(1833-06-05) 1833年6月5日
フランスの旗 フランス王国 パリ
死没 (1880-04-09) 1880年4月9日(46歳没)
フランスの旗 フランス共和国 パリ
墓地 パリ ペール・ラシェーズ墓地
職業 作家美術評論家
言語 フランス語
国籍 フランスの旗 フランス
文学活動 写実主義印象派
テンプレートを表示

ルイ・エドモン・デュランティLouis Edmond Duranty, 1833年5月5日 - 1880年4月9日)は、フランス作家美術評論家

生涯[編集]

エドモン・デュランティは、作家プロスペル・メリメの私生児だという噂があった。パリのコレージュ・シャプタルで短期間学んだ。1856年、ジュール・アセザ、ジャン=バティスト=アンリ・テュリエとともに月刊誌『レアリスム』を発刊したが、わずか6号を刊行して廃刊となった。自然主義文学に傾倒し、1860年代には自然主義・写実主義的小説をいくつか発表した[1]。1860年の小説『アンリエット・ジェラールの不運』、1862年の小説『好男子ギヨームの主張』で知られるようになった[2]

人形劇に熱意を燃やし、1861年テュイルリー庭園に人形劇場を作る許可を受けると、友人たちの協力を得ながら、人形、舞台、台本の制作を行った[2]

カフェ・ゲルボワカフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌといったパリのカフェに通い、美術批評家シャンフルーリフランス語版や画家ギュスターヴ・クールベと交友した。1863年エミール・ゾラと知り合い、彼の紹介でエドゥアール・マネエドガー・ドガといった前衛的な画家と親しくなった。1870年の『パリ・ジャーナル』誌では、ドミニク・アングルに代表されるアカデミズム絵画を批判し、若い画家たちを称賛した。ところが、同じ年、マネの作品についてデュランティが書いた批評のことで、マネがカフェ・ゲルボワでデュランティを攻撃したところ、デュランティはマネに決闘を申し込み、サン=ジェルマン=アン=レーの森で剣で戦った。デュランティは負傷したが、わだかまりは解決し、2人の交友は続いた[1]

マルスラン・デブータンによる肖像画。1876年頃。

1876年、第2回印象派グループ展について書いた38ページのパンフレット『新しい絵画:デュラン=リュエル画廊で展示会を行った画家のグループについて』を発表し、これは印象派を真剣に取り上げた初めての試みとなった。デュランティにとって、印象派の代表格は友人ドガであった。1879年、『クロニク・デザール』誌に発表した論文「独立派の画家のグループによる第4回展覧会」で、前衛的芸術の興隆についてより洗練された見方を提示した[1]。そこでは、次のように書いている[3]

モネは非常に生き生きとして精妙で巧みである。ピサロは繊細な感覚と素晴らしい優美さを兼ね備えている。モネとテオドール・ルソー、ピサロとミレーとの間には直接的なつながりがある。 — デュランティ、「独立派の画家のグループによる第4回展覧会」(1979年4月23日)

デュランティは、マスコミが多用した「印象派」という言葉を避け、「新しい絵画」と呼ぶことを好んだ[1]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Duranty, Edmond”. Dictionary of Art Historians. 2019年5月7日閲覧。
  2. ^ a b Louis Edmond Duranty”. Unima Internationale. 2019年5月7日閲覧。
  3. ^ 島田 (2009: 155-56)

参考文献[編集]

  • 島田紀夫『印象派の挑戦――モネ、ルノワール、ドガたちの友情と闘い』小学館、2009年。ISBN 978-4-09-682021-6