オチチェル

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オチチェルモンゴル語: Öčičer[1]生没年不詳)とは、13世紀後半から14世紀初頭にかけて大元ウルスに仕えたフーシン部出身の領侯。四駿と讃えられたチンギス・カンの最側近、ボロクル・ノヤンの子孫。

元史』などの漢文史料では月赤察児(yuèchìcháér)、『集史』などのペルシア語史料ではاوچاچار نويان(ūchāchār nūyān)と記される。

概要[編集]

クビライ時代[編集]

オチチェルはチンギス・カンに仕えたボロクルの孫のシレムンと、金朝の宰相の家系に生まれた石氏の間の息子として生まれた[2]。シレムンは若くして亡くなったため、モンゴル帝国第5代皇帝クビライは父を早くに失ったオチチェルを憐れみ、16歳の若さで召し抱えた。オチチェルは若くして所作に落ち着きがあり、受け答えも明晰であったためクビライは喜んで重用し、代々ボロクル家の人間が務める第4ケシクの長官に任じ、更に至元17年(1280年)には第1ケシク長にも任じられた[3]

至元26年(1289年)にはカイドゥがアルタイ山脈を越えてモンゴル高原中央部のハンガイ地方に進出し、大元ウルス側では丞相のアントンバヤン、御史大夫のウズ・テムル(オルルク・ノヤン)らが撃退のため出陣した。この時、オチチェルは自らも出陣してカイドゥと戦いたいとクビライに申し出たが、クビライはこれを押しとどめている[4]。翌至元27年(1290年)、朝廷ではサンガ尚書省を再設立して専権を振るっていた。サンガの横暴な振るまいを憂えた尚書平章のイェスデルはサンガを弾劾することをオチチェルに請願し、オチチェルの活動もあってサンガは至元28年(1291年)に失脚した。サンガの失脚後、その悪事を暴いた功績としてオチチェルはサンガから没収された土地・財産を与えられた[5]

サンガが失脚したころ、朝廷では湖広行省で畲族といった少数民族が反抗的で政情が不安定なことが問題視されており、優秀な人材が必要とされていた。 そこで湖広行省に派遣する人物としてオチチェルがハルガスンを推挙したところ、はたしてハルガスンは湖広地方を8年にわたってよく治め、湖広一帯は安定した。後にハルガスンは中央に戻って最高位の丞相に任じられており、世間はオチチェルの人をみる目の確かさを褒めたたえたという[6]。また、至元28年(1291年)には大都周辺の水運の開発に携わり、完成した運河は「通恵河」と名付けられて官民ともに大いに用いられた。クビライはオチチェルの指導ぶりを褒めたたえ、「オチチェルが指揮を取らなかったら、これほど早くは完成しなかっただろう」と語ったという[7]

カイドゥ・ウルスとの戦い[編集]

クビライの死後にオルジェイトゥ・カアン(成宗テムル)が即位すると、先代からの重臣であるオチチェルは高位の職を与えられ、大徳3年(1300年)には最高位の太師という地位を授けられた[8]。一方、この頃アルタイ山脈方面ではカイドゥ・ウルスからの侵攻が激化しており、大徳5年(1301年)にオチチェルはモンゴル高原を統轄する晋王(ジノン)カマラの補佐のためモンゴル高原に派遣された。同年8月、カイドゥとドゥア率いる大軍団がアルタイ山脈を越えてモンゴル高原に侵攻し、これをオチチェルら大元ウルス軍が迎え撃った。大元ウルス側は全軍を5つに分け、それぞれをオチチェルやナンギャダイが率いていたが、カイドゥ軍の猛攻によってそれぞれ劣勢に陥った。オチチェル軍団はカイドゥ軍の猛攻によって劣勢に陥り、大将のオチチェル自らが鎧と矛を身につけて敵陣を陥落させるほどの激戦が繰り広げられた。最終的には前線指揮官を統べる皇族のカイシャンが陣頭指揮を執ってカイドゥ軍の攻撃を凌いだこと、またキプチャク軍団長のチョンウルがドゥア軍を敗退させたことにより、大元ウルス側はこの大侵攻を撃退することに成功した(テケリクの戦い[9]

戦後、カイドゥが戦傷によって急死するとカイドゥ・ウルス内では後継者の地位を巡って内紛が起き、チャガタイ家のドゥアは単独で大元ウルスに講和を申し込んだ。カイシャンがドゥアの申し出に如何に対応すべきかオチチェルら諸王・将帥に諮ったところ、オチチェルは「ドゥアの投降を受け入れるかどうかについては、本来カアンの判断を待つべきであるが、使者の往復を待っていては1月以上かかってしまい、それでは時機を失ってしまう。一度時機を失ってしまえば、国と人民にとって大きな災いとなる。ドゥアの妻は我が一族のマウガラの妹であるので、彼を使者として派遣しドゥアの投降を許可するのがよいだろう」と進言した。諸将はみなこの意見に賛同してマウガラが派遣され、ドゥアの投降は実現した。後に事情を聞いたオルジェイトゥ・カアンは適切な判断であったとオチチェルを称賛している[10]。大徳10年(1306年)、未だ大元ウルスに投降しないメリク・テムルらを討伐するためカイシャンはアルタイ山を越えて進撃し、オチチェルも軍を率いてこれに続いた(イルティシュ河の戦い)。オチチェルは配下の将車であるトゥマン・テムル、チャクら万人隊長を派遣し、メリク・テムル配下の部人を投降させていった[11]

クルク・カアンの治世[編集]

大徳11年(1307年)、オルジェイトゥ・カアンが病死し、モンゴル高原の諸王侯の支持を受けたカイシャンがクルク・カアンとして即位した。クルク・カアンは最も信頼おける部下としてオチチェルにアルタイ方面駐屯軍の地位を委ね、和林行省右丞相の職を与えた[1][12]。オチチェルは同年、旧カイドゥ・ウルスの残党であるチャパル、トゥクメらが未だ辺境の脅威となっていること、またカイドゥ・ウルスから多数の投降将兵が移住してきたことでモンゴル高原には牧地が不足していることを述べ、オチチェル自らアルタイ山を越えたジュンガル草原に駐屯しすることで残党軍を威聴し、また元々の駐屯地を投降将兵に分け与えようと進言した。オチチェルの進言を聞いたクルク・カアンは最善の策であると褒めたたえ、この政策が実行された結果チャパルらは行き場を失いついに投降するに至った[13]

クルク・カアンは多くの将兵の中でもオチチェルを国の元老として最も信任し、本来は皇族・附馬などにしか与えられない王号(淇陽王位)を授与し[14]、クルク・カアンの治世を通じてオチチェルの一族は繁栄した[15]至大4年(1311年)、クルク・カアンが急死すると弟で皇太子のアユルバルワダ一派は政権中枢部の人材を多数処刑し、事実上のクーデターによって朝廷を掌握した。そして同年、大都の大明殿を訪れたオチチェルはアユルバルワダらから歓待されたが、直後に私邸で亡くなった[1][16]

子孫[編集]

『国朝文類』巻23に所収される「太師淇陽忠武王碑」によると、オチチェルの息子には淇陽王位を継いだタラカイ、マラル、太師の位を継いだアスカン、エセン・テムルらがいた。

フーシン部ボロクル家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 杉山1995,125
  2. ^ 『国朝文類』巻23太師淇陽忠武王碑,「[脱歓]子失烈門、王之父也。……淇陽王夫人石氏、金宰相女也。追封淇陽王夫人。夫人生王……」
  3. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子月赤察児、性仁厚勤倹、事母以孝聞。資貌英偉、望之如神。世祖雅聞其賢、且閔其父之死、年十六召見。帝見其容止端重、奏対詳明、喜而謂曰『失烈門有子矣』。即命領四怯薛太官。至元十七年、長一怯薛。明年詔曰『月赤察児、秉心忠実、執事敬慎、知無不言、言無不尽、暁暢朝章、言輒称旨、不可以其年少、而弗陞其官。可代線真為宣徽使』」
  4. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「二十六年、帝討叛者于杭海、衆皆陣、月赤察児奏曰『丞相安童・伯顔、御史大夫月呂禄、皆已受命征戦、三人者臣不可以後之。今勍賊逆命、敢禦天戈、惟陛下憐臣、使臣一戦』。帝曰『乃祖博爾忽、佐我太祖、無征不在、無戦不克、其功大矣。卿以為安童輩与爾家同功一体、各立戦功、自恥不逮。然親属櫜鞬、恭衛朝夕、爾功非小、何必身踐行伍、手事斬馘、乃快爾心耶』」
  5. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「二十七年、桑哥既立尚書省、殺異己者、箝天下口、以刑爵為貨。既而紀綱大紊。尚書平章政事也速答児、太官属也、潜以其事白月赤察児、請奏劾之。桑哥伏誅、帝曰『月赤察児口伐大姦、発其蒙蔽』。乃以没入桑哥黄金四百両・白金三千五百両、及水田・水磑・別墅賞其清彊」
  6. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「桑哥既敗、帝以湖広行省西連番洞諸蛮、南接交趾島夷、延袤数千里、其間土沃人稠、畲丁・渓子善驚好闘、思得賢方伯往撫安之。月赤察児挙哈剌哈孫答剌罕以為行省平章政事、凡八年、威徳交孚、洽于海外;入為丞相、天下称賢。世以月赤察児為知人」
  7. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「二十八年、都水使者請鑿渠西導白浮諸水、経都城中、東入潞河、則江淮之舟既達広済渠、可直泊於都城之匯。帝亟欲其成、又不欲役其細民、勅四怯薛人及諸府人専其役、度其高深、画地分賦之、刻日使畢工。月赤察児率其属、著役者服、操畚鍤、即所賦以倡、趨者雲集、依刻而渠成、賜名曰通恵河、公私便之。帝語近臣曰『是渠、非月赤察児身率衆手、成不速也』」
  8. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「成宗即位、制曰『月赤察児、尽其誠力、深其謀議、抒忠於国、流恵於人、可加開府儀同三司・太保・録軍国重事・枢密・宣徽使』。大徳四年、拜太師」
  9. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「初、金山南北、叛王海都・篤娃拠之、不奉正朔垂五十年、時入為寇。嘗命親王統左右部宗王諸帥、屯列大軍、備其衝突。五年、朝議北師少怠、紀律不厳、命月赤察児副晋王以督之。是年、海都・篤娃入寇。大軍分為五隊、月赤察児将其一。鋒既交、頗不利。月赤察児怒、被甲持矛、身先陥陣、一軍随之、出敵之背、五軍合撃、大敗之。海都・篤娃遁去、月赤察児亦罷兵帰鎮」
  10. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「厥後篤娃来請臣附。時武宗亦在軍、月赤察児遣使詣武宗及諸王将帥議、曰『篤娃請降、為我大利、固当待命於上、然往返再閲月、必失事機。事機一失、為国大患、人民困於転輸、将士疲於討伐、無有已時矣。篤娃之妻、我弟馬兀合剌之妹也、宜遣使報之、許其臣附』。衆議皆以為允。既遣、始以事聞、帝曰『月赤察児深識機宜』。既而馬兀合剌復命、由是叛人稍稍来帰」
  11. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「十年冬、叛王滅里鉄木児等屯于金山、武宗帥師出其不意、先踰金山、月赤察児以諸軍継往、圧之以威、啖之以利、滅里鉄木児乃降。其部人驚潰、月赤察児遣禿満鉄木児・察忽将万人深入、其部人亦降。察八児者海都長子也、海都死、嗣領其衆、至是掩取其部人、凡両部十餘万口」
  12. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年秋七月]癸酉、罷和林宣慰司、置行中書省及称海等処宣慰司都元帥府・和林総管府。以太師月赤察児為和林行省右丞相、中書右丞相哈剌哈孫答剌罕為和林行省左丞相、依前太傅・録軍国重事」
  13. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「至大元年、月赤察児遣使奏曰『諸王禿苦滅本懐携貳、而察八児游兵近境、叛党素無悛心、倘合謀致死、則垂成之功顧為国患。臣以為昔者篤娃先衆請和、雖死、宜遣使安撫其子款徹、使不我異。又諸部既已帰明、我之牧地不足、宜処諸降人於金山之陽、吾軍屯田金山之北、軍食既饒、又成重戍、就彼有謀、吾已擣其腹心矣』。奏入、帝曰『是謀甚善、卿宜移軍阿答罕三撒海地』。月赤察児既移軍、察八児・禿苦滅果欲奔款徹、不見納、去留無所、遂相率来降、於是北辺始寧」
  14. ^ 『元史』巻22武宗本紀1,「[大徳十一年秋七月]丁丑……太師月赤察児為淇陽王」
  15. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「帝詔月赤察児曰『卿之先世、佐我祖宗、常為大将、攻城戦野、功烈甚著。卿乃国之元老、宣忠底績、靖謐中外。朕入継大統、卿之謀猷居多。今立和林等処行中書省、以卿為右丞相、依前太師・録軍国重事、特封淇陽王、佩黄金印。宗藩将領、実瞻卿麾進退。其益懋乃徳、悉乃心力、毋替所服』」
  16. ^ 『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「四年、月赤察児入朝、帝宴于大明殿、眷礼優渥。尋以疾薨于第。詔贈宣忠安遠佐運弼亮功臣、諡忠武」

参考文献[編集]

  • 志茂碩敏『モンゴル帝国史研究 正篇』東京大学出版会、2013年
  • 杉山正明大元ウルスの三大王国 : カイシャンの奪権とその前後(上)」『京都大學文學部研究紀要』第34巻、京都大學文學部、1995年3月、92-150頁、CRID 1050282677039186304hdl:2433/73071ISSN 0452-9774 
  • 村上正二訳注『モンゴル秘史 2巻』平凡社、1972年
  • 元史』巻119列伝6伯顔伝
  • 新元史』巻121列伝18月赤察児伝
  • 蒙兀児史記』巻29列伝10月赤察児伝
  • 国朝名臣事略』巻3太師洪陽忠武王