ミリチャル

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ミリチャルモンゴル語: Miričar,中国語: 密里察児,? - 1267年)とは13世紀後半にモンゴル帝国の華北方面タンマチ(辺境鎮戍軍)副司令官を務めた人物。『元史』などの漢文史料では密里察児(mìlǐcháér)と記される。また、『元史』世祖本紀に登場する「タルグン・コルチ(Tarγun Qorči)」はミリチャルの別名であったと考えられている。「mirija」と「Tarγun)」はともにモンゴル語で「肥満」「太った」を意味する[1]

概要[編集]

ミリチャルは「四駿」と讃えられた建国の功臣ボロクルの一族で、ヒタイ(華北)方面タンマチの指揮官タガチャルの孫として生まれた。ミリチャルの父ベルグテイが1258年に南宋との戦いの中で陣没すると[2]、ミリチャルは南宋遠征司令官のクビライから父祖同様に河南駐屯軍の指揮官に任命された。1262年(中統3年)には南宋との最前線に西方の「河南統軍司」と東方の「山東統軍司」という二つの軍司令部が設置され、ミリチャルは前者の長官(河南路統軍使)に抜擢された。ミリチャルが統轄する「河南統軍司」は亳州から均州に至る河南一帯に駐屯する万人隊を統轄したという[3][4]

1264年(中統3年)には南宋前線の州都を駐屯守備するため、河南の屯田民3〜4千人を「保甲・丁壮・射生軍」に充てる提言がなされた[5][6]。この提言はクビライの認可を得て実行に移され、新編成された「保甲・丁壮・射生軍」のダルガチにはミリチャルが抜擢された。「河南路統軍使」と「河南保甲・丁壮・射生軍ダルガチ」を兼ねるミリチャルは、河南に駐屯するモンゴル諸軍の中でもかなり高位の指揮官であったと考えられている[7]

その後、ミリチャルは襄陽・樊城の戦いに加わったが、1267年(至元4年)に陣没した[8]。死後、ミリチャルの地位は弟のスルドタイが継いだ。

子孫[編集]

アルクイ[編集]

アルクイはミリチャルの長男で、叔父に当たるスルドタイの死後、その地位を継承した。1281年(至元18年)には「江西道都元帥」に任じられて江西地方に駐屯したが、間もなく亡くなった[9]

フーシン部タガチャル家[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松田1987,63-64頁
  2. ^ 『元史』は襄陽・樊城の戦いにおいてベルグテイは戦死したと記すが(『元史』巻119列伝6博爾忽伝,「子別里虎䚟……戊午、会師囲宋襄陽、逼樊城、力戦死之」)、同年に襄陽で戦闘が行われたとの記録はなく、この記述は息子のミリチャルの死因と混同させてしまったものと考えられている(堤1992,57頁)
  3. ^ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統三年十二月]丙辰……立河南・山東統軍司、以塔剌渾火児赤為河南路統軍使、盧昇副之、東距亳州、西至均州、諸万戸隷焉」
  4. ^ なお、タガチャル家について最も詳しい記録を残す「忽神公神道碑銘」はミリチャルの河南路統軍使就任を中統元年(1260年)のこととする。一方、『元史』世祖本紀は「河南統軍司」の設置を中統3年のこととし、タルグン・コルチ(塔剌渾火児赤)が河南路統軍使に任じられたとする。「ミリチャル」と「タルグン」は同じく「肥満」を意味するため両者は同じ人物を指しており、実際の「河南統軍司」設置の年代は中統3年のことと考える見解が受け容れられている(松田1987,63-64頁)。
  5. ^ 「忽神公神道比碑銘」,「[中統]五年、授保甲・丁壮・射生軍達魯花赤」(松田1987,64頁)
  6. ^ 『元史』巻5世祖本紀2,「[中統四年秋七月]戊戌……河南統軍司言『屯田民為保甲・丁壮・射生軍、凡三千四百人、分戍沿辺州郡、乞蠲他徭』。従之」
  7. ^ 松田孝一はこの頃のミリチャルが「河南における総司令官の地位を占めていた」とする(松田1987,53頁)が、堤一昭は同じく河南を拠点とするスベエテイ家のアジュがミリチャルよりも常に高位であったことを指摘し、「河南における総司令」とは言い難いと述べている(堤1992,57頁)
  8. ^ 「忽神公神道比碑銘」,「至元四年、襲蒙古軍万戸、従攻樊城、卒」(松田1987,64頁)
  9. ^ 「忽神公神道比碑銘」,「阿魯灰襲領其軍、至元十八年授江西道都元帥、卒」(松田1987,58頁/堤1992,56頁)

参考文献[編集]

  • 松田孝一「河南淮北蒙古軍都万戸府考」『東洋学報』68号、1987年
  • 松田孝一「宋元軍制史上の探馬赤(タンマチ)問題 」『宋元時代史の基本問題』汲古書院、1996年
  • 堤一昭「元代華北のモンゴル軍団長の家系」『史林』75号、1992年