アマルナ時代

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アテン神を崇拝するアメンホテプ4世とその家族が彫られたアマルナ時代の写実的な壁画。

アマルナ時代(アマルナじだい、英語: Amarna Period)とは、古代エジプト第18王朝の、首都がテル・エル・アマルナに存在し、太陽神アテンの信仰がより一層に盛んであった[1]アメンホテプ4世アクエンアテン[2]、アメンヘテプ[3])の治世の歴史的・美術史的呼称。厳密には、エジプト新王国第18王朝アメンホテプ4世の治世の、紀元前1417年ごろから前1362年ごろまでの時代をいう[3]

概要[編集]

この時代では、アメンホテプ4世の改革の影響によりアテン神が崇拝されるようになり、古代エジプト元来のアメン・ラーの信仰は停滞し、後に「アマルナ美術」と呼ばれる事と成る美術が花開いた。宗教的・社会的改革(アテン信仰)が行われ、それに伴って文学・美術上の写実主義・自然主義的傾向が顕著となった。後にアメンホテプ4世の息子・ツタンカーメンによってアメン・ラーの信仰が復活され、アテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を告げた。

「アマルナ時代」と便宜される時代は、ファラオアメンホテプ4世とその女王ネフェルティティ王宮が現在のアマルナ英語:Amarna)に移されたエジプト第18王朝の後半頃の古代エジプト王国の歴史の時代であった。エジプトの多神教の劇的な変化を反映するために、また、エジプトの多神教の劇的な変化を反映するために、アメンホテプ4世の治世に行われた改革によってアマルナ時代は始まった。

アメンホテプ4世は唯一神アテンのみを祭る他のエジプトのみならず世界で初となる一神教拝一神教単一神教かで意見が分かれている[4])を確立した[注釈 1]。また、アテンだけではなく伝統的なエジプト宗教と同じくアメンホテプ4世自身も神である、と民衆に説いた。王たるアメンホテプ4世自身も神であるとされ、その為に壁画には特異な姿で描かれたとも云われている。

アテンは恵みをもたらし、神たる王を守護する神であり、アテンはアメンホテプ4世とその王族だけの為の神だった。アテンは太陽円盤の形で数多くの手を持つ姿であり、通常のエジプトの宗教とは異なり民衆にはアテンを崇拝するのではなく、アメンホテプ4世を唯一の神として崇拝するよう説いた。これまでの宗教では王の上に更に神官団が存在し、神アメンを利用して横柄な行為を繰り返すことによって、本来の頂点たる王の権威は著しく低下していたが、王自らを神であるとして権威を高めようとしたのである。

なお、アテン神の最初期の正式な名称は(公式名)は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー[5]」であり、あくまでラーの変化した体系であるとしたが[6]、後に、最初の部分の「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する」と最後の「ラー」の名が削除されることになった。

沿革[編集]

アテンと遷都[編集]

アテン

エジプト新王国時代の初期、古代エジプト王アメンホテプ4世の支配した時代に入ると、ナイル川流域の都であったテーベアメンを祭る神官団の権力が異常に増大し、王権の存続自体が危ぶまれるほどに力が増大した。その王を抑えるほどの強大な権力にはファラオでさえも抗うことのできない程の富が集まり、集まった富は全エジプトの約3分の1にも及んだという。また、「アメン」と言う絶対神が背後に在ることから、寄進などの要求も何のためらいもなく進言し、アメンホテプ4世以前の歴代古代エジプト王(ファラオ)は莫大な富の寄進を繰り返した。

その事態に危機感をおぼえたのが紀元前1362年に即位したアメンホテプ4世王であり、その治世4年目、著しく低下していた権威を高めようとして「アテン[注釈 2]」という太陽の形をした唯一の神をエジプトの神とし、王権はテーベのアメンの信仰崇拝から脱し、神官団の影響から離れた[注釈 3]。改革を行うべく宗教的な革新事業を行い、アメンホテプ4世は治世5年目(紀元前1367年ごろ)にアテン信仰の導入を始めた。なお、アテンと言う神とその崇拝の起源についてはかなり古いと思われており[1]太陽神ラーと同一視された[1]。また、もともとは天体としての太陽そのものをさしたが、エジプト新王国時代になって太陽神の一人として神格化された。

その手始めとして、治世6年目に、アテン神へ捧げる新都テル・エル・アマルナ(現在のアマルナ、この時代の名の由来となった、正式名称アケトアテン[注釈 4])の建設を開始し、治世8年目には王朝発祥の地テーベを放棄してここに都を遷した。一方、アメンの神官団はテーベに留め置き、新都アマルナに遷ることは許されなかった。アマルナにはアテン神のための太陽神殿英語版が建設され、アテン信仰の中心地と成った。また、自身の王名も「The one who is beneficial to Aten,またはThe living spirit of Aten」を意味する「アクエンアテン[注釈 5]」と改名し、改革を推し進めた。なお、「イクナートン」と言うのは、ドイツ語読み及び、これが訛ったものである。

しかし、アメン神の存在をすべて禁止したのではなく、共同統治者であるスメンクカーラー王をテーベのアメン神官団との仲裁役として関係の保全に努めた。また、まだ伝統的な神々への崇拝を禁止しておらず、この時期にはアテンへ捧げる神殿の他にも従来のアメン神などの神々へ捧げる神殿も建築している。しかし、即位9年目に入るとアメンホテプ4世は旧来のエジプトの神々を排斥するようになり、一層と宗教改革を推し進め、アテンの信仰を広げて行った。

アメンホテプ4世が創り上げた「アテン」と言う神は日輪の姿をしていた。その事実は同時代の壁画からも裏付けられている。しかし、それまでのエジプトの宗教とは異なり、広く民衆のために在る神なのではなく、王アメンホテプのためだけに存在するとされた。それと同時に、一般の民衆にはアテンを崇拝するのではなく、アメンホテプ4世を神であるとして崇拝するよう説き、王の権威を高る試みを行った。

アマルナ時代に入ってから信仰され始めたアテン神は単に崇拝を民衆に強制させたのではなく、エジプト古来の宗教は首都アマルナから離れた地域では他の神々が著しく少ない程度に崇拝された[注釈 6]。特に、旧都テーベにはまだ強大な権力を保持するアメン神官団が勢力を維持しており、その周辺ではアメン信仰がいまだ活発に行われていたという。

アマルナ美術[編集]

王の彫像。今までにない写実性がある。

また、この時代は、アジアシリアミタンニ王国ヒッタイト帝国などの国々と文化交流が盛んに行われたりもした時代であった。それらの文化の流入も後に「アマルナ美術」と呼ばれる様式の開花の要因の一つであった。この宗教改革は、単に宗教のみにとどまらず、芸術、とくに壁画彫像、神殿建築、また文学においては文語体から口語体へと、伝統を否定する種々の試行錯誤が多岐にわたって行われた。つまり新王国時代初頭に支配していた芸術における理想主義が、この時代に入って写実自然主義の傾向へと変化していった。

アメンホテプ4世によるアテン信仰のエジプトの国家神としての地位の一時的な確立と追求は、古来から連綿と続いてきた古い美術の様式の否定をもたらす結果を生んだ。また、アメンホテプ王自身の意向が強く働いたと思われる今までにはないような新たな芸術・建築などの様式の基準を生み出した。アマルナ美術の特徴は特にリアリズムな王像の表現における変化は顕著で、それまでの理想的な姿を描いた王像と異なっている。アメンホテプ4世の王像は細長い手足、垂れた胸、突き出た腹を持つ醜悪な外見をしている。やがてこの王の体型が新しい基準となった。

写実的な美術様式へと変遷する中で、当時の宮廷彫刻家ベクは、「宮廷彫刻家とは見た通りに表現するものである」とアメンホテプ4世王から言葉を頂いたと書き残している。また、王妃ネフェルティティに命ぜられ製作したと言われているネフェルティティの胸像は、同じく宮廷彫刻家であったトトメスが製作した。この彫像はアマルナ時代の美術の最高傑作とうたわれる彫像で、当時としては珍しい極めてモデルとした人物にごく忠実(写実的)な彩色石灰岩彫刻である。

また、神像における神の表現も大きな変化を遂げた。その例として、この時期最も有力な神として崇められたアテン神は、従来とは異なる姿をしていた。第11王朝の頃に太陽神に対する信仰が盛んになるにつれて当時の最高神・ラーのように鷹の頭を持つ人型の神、或いは獣面人身の神として信仰が浸透していったが、アマルナ時代には表現をされず、日輪(太陽円盤)から無数の手が放射状に差し伸べられている、という新しい様式の姿で表され、現在ではこちらの姿の方が著名となっている。

この新しい神の図像の体型は、全ての衆生に恵みをもたらし、救いの手を差し伸べると言うアテン神の特性を表現する手段として新たに生み出された表現であった。アテン神は、神話も神像も貧弱だったことから、これを最高神とする信仰が生じると、極めて抽象的で観念的な神となったと考えられる。

この時代の美術は従来の伝統に拘束されることなく、自由な発想を背景に描かれている絵画が多くなり、元来基礎が確立されていた写実主義の絵画や彫刻、建築様式が誕生した。アケト・アテンの王廟には、王女の死を悲しむ両親の姿が克明に描かれており、写実主義がみごとに貫かれているが、テーベの西岸にある貴族の墓の壁画にも、その兆候は認められ、遷都以前にすでに写実主義の基礎が確立されていたといえる。また、彫像も写実、自然主義を基本としている。

こうしたアマルナ美術は、類型化、理想化の傾向が強かったエジプト美術に新しい息吹を吹き込み、その後の美術に少なからぬ影響を残した。

終焉[編集]

アマルナ時代はこの改革を推し進めたアメンホテプ4世の死によって終わりを告げることとなり、次の代のツタンカーメン王の時代に入ると、旧秩序の回復を望む神官団とツタンカーメン王との間に和解が成立した。王宮もアマルナからメンフィスへと遷される事と成る。つい昨年まで信仰が盛んであったアテン神の崇拝は禁じられ、アテン神を彫った壁画レリーフ偶像などはすべて破壊され、アテン神と言う存在までをも抹殺しようとした。また、従来のアメン・ラーの神々の神殿は、破壊されていたものはツタンカーメン王の下で復元され、再びアメン・ラーの信仰が復活された。かくしてアテン神の信仰は止められ、アマルナ時代も終焉を遂げたのであった。

アマルナ改革は急進的すぎたせいもあり神官達の猛反発を受けて結局挫折し、新しい様式もエジプトの伝統と乖離しすぎていたため一時限りのものに終わったのであった。

しかし、ツタンカーメンは、アテン信仰からアメン信仰に戻したファラオだったにも関わらず、王家の谷のツタンカーメン王の王墓(KV62)からは、アマルナ様式の美術作品が多く出土している。それらの副葬品は、その時代に作られた物やその意匠を一部継承したものであると考えられている。ツタンカーメン王の墓から出土の黄金の玉座はアマルナ様式をよく表し、王と妃を表した人物の体格は家庭的な柔らかさがある。

影響とその後[編集]

アメンホテプ4世の墓の中から発見された、顔の部分が削り取られた棺。女性の棺から粗く転用されたものであることが分かっている。

この宗教に端を発する一連の改革は、強い勢力になったことをアメンホテプ4世が嫌い、宗教的権力を王権と一本化することを狙ったと考えられる。一時的にはファラオの権威が威信を回復し、テーベのアメン神官団を抑える試みは成功をおさめたが、彼の死と共にその改革は終止符を打たれ、後の世からは忘れ去られた時代と成った。アテン信仰は、宮廷や他の幾つかの場所でのみ受け入れられていたと考えられている。

この一連の宗教改革は、単に宗教のみにとどまらず、芸術、とくに壁画、彫像神殿建築において多大なる変化をもたらした[8]。宗教的にも文化的にも伝統を否定する種々の試行錯誤が多岐にわたって行われ、結果としては失敗に終わったとはいえ、後につながる美術の様式が集大成されたと言える。エジプト新王国時代初頭に支配していた芸術の様式が、この時代に入って写実、自然主義の傾向へと変化していった。

後の時代には、この数々の改革を断行したアメンホテプ4世はアメン神の信仰を棄てたことによって忌み嫌われる存在と成った。また、アテン信仰やその保護者たるアメンホテプ4世王の痕跡を抹消するあらゆる努力がなされた。後世の人々からはアメン神を受け入れない異端者と見なされて、アメンホテプ4世の名は彼自身が建立した記念碑からも削除された。冒潰され王の名前はファラオに即位した証と成る王名表からも名が削り取られ、抹殺され、アメンホテプ3世からホルエムヘブの間のファラオは存在しなかった事にされた。しかし、近年では再評価の声も高まりつつある。

アメンホテプ4世から4代後のファラオ・ホルエムヘブの命令により新都として建造されてまだ建設の途上だったアマルナの街や王宮、アテンの神殿など一切の建築物は破壊され、王家メンフィスへと遷った。それ以降、ナイルデルタ地方が政治の中心と成る。アテン大神殿は解体され、その石材は他の場所での神殿の建設計画のために運び去られたため、その以降は2000年にもわたって隠され続けた。また、テーベに造営したアテンの神殿も同様に破壊された。その中に存在したアテンに関連する聖なる品々も粉々に破壊され、存在を留めることは無かった。

テーベにアメンホテプ4世の王墓とされる臨時に用意された小さな墓(KV55英語版)が発見されているが、墓は反対勢力により暴かれ、壁に描かれたレリーフは一切削られてしまっている。また、アメンホテプ4世のからは王の顔の部分が削り取られた。

しかし、廃墟と化した都アマルナには遺構が後世まで残り、近年になってから再発掘され、その全貌が明らかと成った。旧アマルナでは後のローマ帝国時代や初期のコプト正教会の支配下だった時代にも別の用途として使われていたことが分かっている[注釈 7]

その後、アテン神の廃止に伴い、再びアメン神官団の勢力が伸長した。その結果、再びアメン神官団の勢力は増大し、新王国最後の第20王朝の時代には再びアメン神殿に対する王の寄進がまた活発となる。アメン神殿はエジプト国内に広大な神殿領を保持し、更に後の第20王朝末期の時代にはアメン神殿の神官団の勢力が事実上の独立勢力(アメン大司祭国家)と言うべき状態にまでもなった[10]

アマルナ文書[編集]

1887年アマルナから発見された楔形文字の粘土板(いわゆるアマルナ文書)は、この時代の外交関係を知る重要な史料となっている。1887年に偶然発見され、その数は約360点にも及ぶ。楔形文字で書かれたこの粘土板文書は、同時代のバビロニア国王やその他の王侯達と交わした外交文書であるとされる。

その他[編集]

アマルナの衰退[編集]

アマルナは紀元前14世紀に改革の実現のためアメンホテプ王の治世第4年に「唯一神アテン」の侵攻を唱え、王都テーベにアテンのための神殿を建てた[11]。しかしテーベでアトン信仰の確立は困難となったので、即位6年目にアマルナに都を移し、新王都アマルナ(アケト・アテン、アテンの地平線)造営が決定され、2年の間にテーベより遷都するために急いで建設された[12]太陽神アテンを唯一神とする都「アケトアテン(アテンの地平線と意味)」と題されて建設されたこの都は、当時の人口は約3万人ほどであるとされ、古代においては大都市の類だった。しかし、アメンホテプ王の死後に即位した新王ツタンカーメンの治世第4年に放棄され[13]、中心地は未だ完成されていないアマルナを永久に去って都も戻され、アマルナはわずか15年ほどの都と記憶されることとなった。

その後、後世のファラオホルエムヘブの命令によりアマルナの町は破壊され、その石材は他の場所での建設計画のために運び去られた。アメンホテプ4世は後世の人々からは「アメン信仰を棄てて“アテン”という異端の神を崇拝した」と看做され異端者とされる。王はその名を冒涜され、その名が削除されたあおりを食らって彼がアマルナに造営した建物は破壊された。現在、アマルナに残っている美術作品の王区は、崖などに彫られている磨崖碑などである。

建設を早めるため、日干しレンガを多用して表面を磨いた建物がほとんどで、これが後に遺構をあまりとどめず、急速な衰退を招いた一因ともなった。日干しレンガは粘土を固めた後に天日で乾燥させて造る煉瓦であり、よく成形して乾燥させた日干しレンガは、乾燥帯では現在も使用されている建材となっている。今でも、耐候性に優れ、普及している地域は多い。しかし、ひとたび長雨に晒されればその被害は甚大で、多くは泥に還ることが多い。そのため、アマルナは長年の雨に晒されて劣化し、崩壊したとされる。ただし、古代エジプトでは普通、王宮や要塞、神殿境内や都市を囲う壁、あるいは神殿複合体の中にある補助的な建物、家屋を作るために用いられていた。

しかし、この町は全く忘却されたわけではなかった。この場所は後のホルエムへブの時代に建てられた寺院が残っている他、更に後世のローマ帝国時代や初期キリスト教の時代にも使われており、都市の南部の発掘ではそれらの時代の遺構やコプト教会の施設などが見つかっている[9]

アマルナの遺跡には、神殿や南北の王宮政庁の遺構、王や高官の墓などが現在でも遺跡として残っており、その他には王族の崖に作られたネクロポリスが残っている[14]。ほかの都は、後世の遺跡に埋もれてしまったり、現在でも街であったりするために、古代の都市計画は判然としない都市も多い。そのため、遺構の基礎部分の保存がよく、都市計画を知りうることのできる古代エジプトでは数少ない遺跡の一つとして重要視されている。

神殿[編集]

アメンホテプ4世の父王・アメンホテプ3世の時代には、アメンの神官団の度重なる寄進の要求にこたえて都テーベにはルクソール神殿などの神殿を、また、前諸王の時代に蓄積された富をもとにテーベ西岸に王自身の葬祭殿が造営された。それらの建築物は、アメンホテプ3世以前の時代に構築された伝統的な構築方法、プランを踏襲したものだった。

しかし、アメンホテプ4世のアマルナにおけるアテンの神殿建築は、方位的には従来どおり朝日の昇るの方向に正面が向けられていた。しかし、(アテンの象徴)を配慮したために、ルクソール神殿などにみられる多柱室は廃止された。また、アマルナにおける神殿は急遽造営されたこともあって、建築資材に従来のように石材は多用されず、簡単に入手できる日干しレンガが主に使用されたため、神殿自体荘厳な重厚さには欠けていた。

神殿の中に施された装飾は、これまでの「1000年を経ても変化しない」と言われた伝統的で静的な様式から、写実的かつ動的なものに変り、改革的な新興宗教の雰囲気をよく伝えている。

国力[編集]

アメンホテプ4世は、アジアに対しては大規模な軍事遠征を行なってはいない。彼は、国内の統治とアマルナでの宗教改革に集中している間は戦闘を避けたため、当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイト帝国に古代エジプトの王朝の領土だったシリア及びパレスチナ地方の属国群を奪われ、国力が一時低下していた[11]

また、アメンホテプ王がこの時代、まれな「平和主義者」であったとする見解も嘗て存在した。

アマルナ王[編集]

アマルナの王の位は、アメンホテプ4世自身とその共同統治者であるスメンクカーラー王、そしてアメンホテプ4世の息子であるツタンカーテン(のちのツタンカーメン、「トゥトゥ・アンク・アテン〈アテンの生ける似姿〉」から、後にアメン信仰を復活させるにあたって「トゥトゥ・アンク・アメン〈アメンの生ける似姿〉」に改名した)であるとされている。また、ごく一部の学者は、アメンホテプ4世の娘、ネフェルネフェルアテン・タシェリトも「ネフェルネフェルアテン」としてファラオに即位していたと主張しているが、大多数は即位はしていないという立場をとっている。ネフェルネフェルアテンの正体については、ネフェルティティの偽名であるという説、娘メリトアテンのファラオ名などという説が唱えられているが、女性の王族であるということ以外詳しくは判然としない。

  1. アメンホテプ4世(在位:紀元前1362年頃 - 紀元前1333年頃)
  2. スメンクカーラー(在位:紀元前1336年 - 紀元前1334年)
  3. ツタンカーメン(在位:紀元前1333年頃 - 紀元前1324年頃)
  4. ネフェルネフェルアテン(在位:紀元前1335年 - 紀元前1333年、実在性に疑問あり)?

アマルナ王家[編集]

アマルナ王朝の王家は、アメンホテプ4世の母后とアメンホテプの皇后、そしてその間から生まれた息子と娘たちだった。また、アメンホテプ4世は一部の娘に王妃の位を与え、自身の共同統治者の位に据えていた。

アメンホテプ4世の妻
スメンクカーラーの妻
ツタンカーメンの妻
アメンホテプ4世の子
その他

アマルナ美術[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 実際には、アメンホテプ4世とアテンと言う2柱の神が存在する「二神教」であったとする学説も存在する。
  2. ^ 「太陽円盤」を意味し、宇宙を創造して世界の秩序を維持し、全人類、動物、鳥、植物を創造し[7]、万物に生命を賦与する唯一絶対の神とされ、ヘブライ人一神教の先駆ともいわれる。[1]
  3. ^ 日輪を神格化した神で、以前はテーベで祀られていた。なお、テーベで祀られるようになる前にはヘリオポリスで祀られていたという説がある[6]
  4. ^ 「アテンの地平線」を意味する。
  5. ^ ヒエログリフ: 𓇋𓏏𓈖𓇳𓅜𓐍𓈖 - 英語: Akh en Aten(Ax-n-itn)
  6. ^ 対内的には、敵であるアメン神団を殲滅に追い込むこともなく存続を許していた。
  7. ^ 都市の南部の発掘ではそれらの時代の遺構が見つかっている[9]

参考文献[編集]

  1. ^ a b c d https://kotobank.jp/word/アトン
  2. ^ 池上英洋 『西洋美術史入門』筑摩書房、2012年、146頁。ISBN 978-4-480-68876-7 
  3. ^ a b 世界大百科事典 第2版の解説”. コトバンク. 2020年5月13日閲覧。
  4. ^ Montserrat, Dominic, 1964- (2000). Akhenaten : history, fantasy, and ancient Egypt. London: Routledge. ISBN 0-415-18549-1. OCLC 42923652. https://www.worldcat.org/oclc/42923652 
  5. ^ https://www.worldcat.org/oclc/673002815、筑摩書房、近藤二郎
  6. ^ a b The Complete Gods and Goddesses of Ancient Egypt. Thames & Hudson. (2003)
  7. ^ 古代オリエント集. 筑摩書房. (1999)
  8. ^ https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%8A%E6%99%82%E4%BB%A3-815923
  9. ^ a b Middle Egypt Survey Project 2006”. Amarna Project (2006年). 2007年6月6日閲覧。
  10. ^ ジャック・フィネガン著、三笠宮崇仁訳『考古学から見た古代オリエント史』岩波書店1983年
  11. ^ a b https://kotobank.jp/word/アメンホテプ%284世%29-2128194
  12. ^ https://kotobank.jp/word/アマルナ-676591
  13. ^ The Official Website of the Amarna Project”. 2008年10月1日閲覧。
  14. ^ https://kotobank.jp/word/テルエルアマルナ-679084
  15. ^ Reeves, C. Nicholas. New Light on Kiya from Texts in the British Museum, p.100 The Journal of Egyptian Archaeology, Vol. 74 (1988)
  16. ^ a b Grajetzki, Ancient Egyptian Queens: A Hieroglyphic Dictionary, Golden House Publications, London, 2005, ISBN 978-0-9547218-9-3

関連項目[編集]

外部リンク[編集]