せの海

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本来の表記は「剗の海」です。この記事に付けられた題名は、技術的な制限により、記事名の制約から不正確なものとなっています。

剗の海 / 剗海(せのうみ)は、9世紀半ばまで日本富士山北麓にあったである。

また、さらに古く紀元前3000年以前にあった巨大な湖は、現在、古剗の海(こせのうみ)と呼ばれている[1]

概要[編集]

剗の海(当時の表記:剗海)はかつて富士山の北麓で東西にわたって広大な面積を有していたが、貞観6年(864年)に起こった富士山の大噴火(貞観大噴火)の際、おびただしい量の溶岩流によって大部分が埋まってしまった[1]。現在、富士五湖に名を連ねる西湖精進湖は、剗の海の一部が埋まらずに残ったものである[1]

このときの様子は、延喜元年(901年)に成立した公式史書である『日本三代実録』の「貞観6年7月17日」(ユリウス暦864年8月22日)に甲斐国国司から朝廷に届けられた報告(貞観大噴火についての第2報)として以下の内容が記されており[2]、 溶岩流が本栖湖と剗の海の2湖に流入したこと、多くの民家が溶岩流に呑み込まれてしまったこと、溶岩の別の流れは河口湖方面へ向かっていること、係る天変地異の前には大きな地震を始めとする様々な変事があったこと、などを伝えている[2]

貞觀六年七月十七日辛丑 甲斐國言  駿河國富士大山 忽有暴火 燒碎崗巒 草木焦熱  土鑠石流 埋八代郡本栖并剗兩水海  水熱如湯 魚鼈皆死 百姓居宅 與海共埋 或有宅無人 其數難記  兩海以東 亦有水海 名曰河口海 火焔赴向 河口海  本栖剗等海 未燒埋之前 地大震動 雷電暴雨 雲霧晦冥 山野難辨 然後有此災異焉  [2]

(現代語訳)
貞観6年7月17日辛丑甲斐国(の国司)が報じるところ、駿河国の大山・富士が突如として火を噴き、山じゅうを焼き砕き、草木は焦がれ死んだ。土石は溶け流れて、八代郡にある本栖海(本栖湖)と剗の海を埋めてしまった。湖水はお湯のように熱くなり、魚や亀の類はみな死んだ。人々の家屋は湖と共に埋まり、残った家にも人影は無く、そのような例は数え上げることもできない。2つの湖の東には河口海(河口湖)という湖があるが、火はこの方角へも向かっている。本栖海や剗の海が焼け埋まる前には、大地が大きく揺れ大雨があって、雲霧が立ちこめて暗闇に包まれ、山野の区別もつかなくなった。それらが起こった後にこのような災異が訪れたのだ。

また、この火山活動によって生まれた溶岩原の上にやがて形成(植生遷移)されていった森林地帯が、今日も見られる青木ヶ原樹海である[1]

古剗の海[編集]

より古く紀元前3000年以前には本栖湖と「剗の海」とが繋がっていたことが分かっており[注 1]、この巨大な湖には現代の研究者によって古剗の海の名が与えられている[1](当然ながら、縄文時代にあたる当時の呼称は今に伝わっていない)。

呼称[編集]

剗海(せのうみ)の記録は平安時代の史書『日本三代実録』に見られる。この書において「」は「水海」であって「本栖湖」は「本栖海」、河口湖も「河口海」であるから、同じ感覚で剗海を現代日本語の形に変えるなら、「剗湖」もしくは「剗の湖」ということになる。つまり、特別に大きかったがゆえに「海」という字が当てられていたわけではない。前段(概要)で解説している甲斐国司の報告を当時の人の認識のままに再現する場合、「本栖海」を「本栖湖」と訳すのと同じく(むろん、現存しない地形に対して実際にはそのような呼称は与えられないが、)「剗海」は「剗湖」と訳してしかるべき、ということである。

の字義は、「削る」「平らにする」などとするのが一般的であるが、9世紀に「関所」の意味で用いた例(「白河菊多両剗[注 2]」「白河菊多剗守六十人」等)がある[3][4][5]。「)」と同系である[6]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 西湖精進湖本栖湖の3湖はいまも水位が連動しており、水中では繋がっていると考えられている。
  2. ^ 「菊多」は勿来関(勿来剗)の平安時代中期以前の名称である「菊多関(菊多剗)」を指しており、菊多郡に属することに由来する。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 剗の海・古剗の海はどんな湖だったのか? - 富士山自然学校
  2. ^ a b c 第1章 富士山の山としての特性 - 内閣府中央防災会議
  3. ^ 白河関跡”. (公式ウェブサイト). 白河市 (2011年1月11日). 2011年10月20日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2011年9月30日閲覧。
  4. ^ [1][リンク切れ]
  5. ^ 諸根樟一 『白河及菊多剗研究』 櫻關書院、1932年7月
  6. ^ 『漢字源』による。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]