「ディオンヌ家の五つ子姉妹」の版間の差分

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[[File:Dionne Quintuplets.jpg|425px|right|thumb|ディオンヌ家の五つ子姉妹(1940年頃)]]
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'''ディオンヌ家の五つ子姉妹''' ('''Dionne quintuplet sisters''') は、全員が幼児期以降まで成長した世界最初の[[五つ子]]として知られる。五つ子姉妹は[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]{{仮リンク|キャランダー (オンタリオ州)|en|Callander, Ontario|label=キャランダー}}において、[[1934年]][[5月28日]]に出生した。「奇跡の赤ちゃん」として出生直後から注目を浴び、[[世界恐慌]]当時の不屈の精神と喜びの世界的なシンボルとなった<ref name="PBS">{{Cite web|author=Dennis Gaffney|url=http://www.pbs.org/wgbh/roadshow/fts/wichita_200803A12.html|title=The Story of the Dionne Quintuplets|publisher=[[公共放送サービス|PBS.org]]|language=英語|date=2009年3月23|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
'''ディオンヌ家の五つ子姉妹''' ('''Dionne quintuplet sisters''') は、全員が幼児期以降まで成長した世界最初の[[五つ子]]として知られる。五つ子姉妹は[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]{{仮リンク|キャランダー (オンタリオ州)|en|Callander, Ontario|label=キャランダー}}において、[[1934年]][[5月28日]]に出生した。「奇跡の赤ちゃん」として出生直後から注目を浴び、[[世界恐慌]]当時の不屈の精神と喜びの世界的なシンボルとなった<ref name="PBS">{{Cite news|author=Dennis Gaffney|url=http://www.pbs.org/wgbh/roadshow/fts/wichita_200803A12.html|title=The Story of the Dionne Quintuplets|publisher=[[公共放送サービス|Public Broadcasting Service]]|language=英語|date=2009-03-23|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


ディオンヌ家の五つ子姉妹は予定日よりも2ヶ月早い[[早産]]だった。{{仮リンク|オンタリオ州政府|en|Government of Ontario}}は翌[[1935年]]に「ディオンヌ家の五つ子後見法」を成立させて両親の親権を剥奪してしまい、彼女達は[[産科医]][[アラン・ロイ・ダフォー]]の保護下に置かれ、9歳まで両親と離れて暮らさなければならなかった。関係者は彼女達が暮らす保育所をカナダの代表的な観光地にすることで利益を得るようになった。
ディオンヌ家の五つ子姉妹は予定日よりも2ヶ月早い[[早産]]だった。{{仮リンク|オンタリオ州政府|en|Government of Ontario}}は翌[[1935年]]に「ディオンヌ家の五つ子後見法」を成立させて両親の親権を剥奪してしまい、彼女達は[[産科医]][[アラン・ロイ・ダフォー]]の保護下に置かれ、9歳まで両親と離れて暮らさなければならなかった。関係者は彼女達が暮らす保育所をカナダの代表的な観光地にすることで利益を得るようになった。
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!出生順!!性別!!出生時間<ref>{{Cite web|url=http://www.mycallander.ca/the-dionne-quintuplets/|title=The Dionne Quintuplets|publisher=Mycallander.ca|language=英語|accessdate=2014年11月17日}}</ref>!!名前!!死亡日
!出生順!!性別!!出生時間<ref>{{Cite web|url=http://www.mycallander.ca/the-dionne-quintuplets/|title=The Dionne Quintuplets|publisher=Municipality of Callander|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>!!名前!!死亡日
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== 生 ==
== 生い立ち ==
=== 出生 ===
[[File:Dionnequints1.jpg|275px|right|thumb|1934年。[[オンタリオ州首相]]{{仮リンク|ミッチェル・ヘプバーン|en|Mitchell Hepburn}}とともに]]
[[File:Dionnequints1.jpg|275px|right|thumb|1934年。[[オンタリオ州首相]]{{仮リンク|ミッチェル・ヘプバーン|en|Mitchell Hepburn}}とともに]]
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|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=uJl5uNPUJjI The Dionne Quins - 1934年から1936年までの姉妹の映像(British Pathéがアップロードした動画)]
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[[1934年]][[5月28日]]に[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]{{仮リンク|キャランダー (オンタリオ州)|en|Callander, Ontario|label=キャランダー}}において、[[フランス系カナダ人]]女性のエルジール・ディオンヌは予定日より2ヶ月早く5人の一卵性の女の子を出産した。赤ちゃん達は片手でしっかり持てるほど小さかった<ref name="PBS" />。エルジールは最終的にこの五つ子の他に単独の9人の子供を出産している<ref name="Britannica">{{Cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/164217/Dionne-quintuplets|title=Dionne quintuplets|publisher=[[ブリタニカ百科事典|Britannica.com]]|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
[[1934年]][[5月28日]]に[[カナダ]]の[[オンタリオ州]]{{仮リンク|キャランダー (オンタリオ州)|en|Callander, Ontario|label=キャランダー}}において、[[フランス系カナダ人]]女性のエルジール・ディオンヌは予定日より2ヶ月早く5人の一卵性の女の子を出産した。赤ちゃん達は片手でしっかり持てるほど小さかった<ref name="PBS" />。エルジールは最終的にこの五つ子の他に単独の9人の子供を出産している<ref name="Britannica">{{Cite web|url=http://www.britannica.com/EBchecked/topic/164217/Dionne-quintuplets|title=Dionne quintuplets|publisher=[[ブリタニカ百科事典|Encyclopædia Britannica]]|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


[[アラン・ロイ・ダフォー]]は夜中にエルジールの夫オリヴァ・ディオンヌから呼び出され、2人の助産婦の助けを借りて五つ子の出産を担当した医師だった。ダフォーは赤ちゃん達の様子を見てすぐに死んでしまうだろうと考えていた。母のエルジールも出産後に激しいショックを受けており、ダフォーは子供達と同様に死ぬだろうと考えたが、彼女は2時間後に回復した<ref name="Canadianhistoryforkids">{{Cite web|author=Mickey Maple|url=http://www.canadianhistoryforkids.com/canadian-history-for-kids-dionne-quintuplets/|title=Canadian History for Kids: Dionne Quintuplets|publisher=Canadianhistoryforkids.com|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
[[アラン・ロイ・ダフォー]]は夜中にエルジールの夫オリヴァ・ディオンヌから呼び出され、2人の助産婦の助けを借りて五つ子の出産を担当した医師だった。ダフォーは赤ちゃん達の様子を見てすぐに死んでしまうだろうと考えていた。母のエルジールも出産後に激しいショックを受けており、ダフォーは子供達と同様に死ぬだろうと考えたが、彼女は2時間後に回復した<ref name="Canadianhistoryforkids">{{Cite web|author=Mickey Maple|url=http://www.canadianhistoryforkids.com/canadian-history-for-kids-dionne-quintuplets/|title=Canadian History for Kids: Dionne Quintuplets|publisher=Canadian History for Kids|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


[[トロント大学]]は[[生物学]]・[[歯学]]、その他身体的検査<!-- 心理学的検査について:要出典となっているものの、興味深い報告が英文版に記載されている。しかし出典を探したものの、発見できなかったので心理学をコメントアウト。おそらく古い書籍に、科学的検証なく記載されていたのではないかと推察する。 -->の見地からディオンヌの五つ子の調査を主導し、生物学的調査から五つ子は一卵性であることが立証されている。母親は妊娠3ヶ月頃に痙攣と共に奇妙な物体を排出したと医師に話しており、元は六つの受精胚が存在していた可能性が広く信じられている。一卵性であるため、誕生した5人の新生児は同じ[[形質|遺伝形質]]を有している<ref name="Britannica" />。[[マギル大学]]医療センターに務める[[産科学]]専門家のリチャード・ブラウンは「一般的に五つ子を持つ確率は5000万分の1から6000万分の1と言われています。しかし、一卵性の5人の女の子を持つとなると5500万分の1よりもはるかに低いでしょう。そして、新生児のケアが実際に存在しなかった1930年代に全員の女の子が生き延びたという事実は、桁外れという言葉でも言い表せないぐらいです」との見解を示している<ref name="Harrowsmith">{{Cite web|author=Harrowsmith|url=http://harrowsmithalmanac.com/2012/10/09/burden-of-fame/|title=Burden of Fame|publisher=Harrowsmithalmanac.com|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。五つ子以上の多胎児は年間で数十組の出産例があるが<ref>{{cite journal|url=http://www.cdc.gov/nchs/data/nvsr/nvsr64/nvsr64_01.pdf|accessdate=2015-03-20|title=Births: Final Data for 2013|journal=National Vital Statistics Reports|volume=64|number=1|date=2015-01-15|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター]]|page=11|format=PDF}}</ref>、「一卵性の」周胎児(五つ子)はまれである<ref>{{cite web|url=http://multiples.about.com/od/quintssextuplets/a/quintuplets.htm|accessdate=2015-03-27|title=General Information About Quintuplet Multiple Births|date=2014-04-16|author=Pamela Prindle Fierro|publisher=About.com}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/17/AR2007081700163.html|accessdate=2015-03-27|title=Rare Identical Quadruplets Born|author=SARAH COOKE|publisher=[[ワシントン・ポスト|Washingtonpost.com]]|date=2007-08-17}}</ref>。
[[トロント大学]]は[[生物学]]・[[歯学]]、その他身体的検査の見地からディオンヌの五つ子の調査を主導し、生物学的調査から五つ子は一卵性であることが立証されている。母親は妊娠3ヶ月頃に痙攣と共に奇妙な物体を排出したと医師に話しており、元は六つの受精胚が存在していた可能性が広く信じられている。一卵性であるため、誕生した5人の新生児は同じ[[形質|遺伝形質]]を有している<ref name="Britannica" />。五つ子以上の多胎児は年間で数十組の出産例があるが<ref>{{Cite journal|url=http://www.cdc.gov/nchs/data/nvsr/nvsr64/nvsr64_01.pdf|title=Births: Final Data for 2013|journal=National Vital Statistics Reports|volume=64|number=1|publisher=[[アメリカ疾病予防管理センター|Centers for Disease Control and Prevention]]|page=11|format=PDF|date=2015-01-15|accessdate=2018-04-16}}</ref>、「一卵性の」周胎児(五つ子)はまれである<ref>{{Cite web|author=Pamela Prindle Fierro|url=https://www.verywellfamily.com/quintuplets-quints-2447327|title=General Information About Quintuplet Multiple Births|publisher=Verywell Family|language=英語|date=2014-04-16|accessdate=2018-04-16}}</ref><ref>{{Cite news|author=Sarah Cooke|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/17/AR2007081700163.html|title=Rare Identical Quadruplets Born|work=[[ワシントン・ポスト|The Washington Post]]|language=英語|date=2007-08-17|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


赤ちゃん達は加熱された毛布にくるまれ、隣人から借りた枝編みバスケットに入れて育てられた。彼女達は台所へ連れて行かれ、部屋のドアを開いた状態にしておき、[[ストーブ]]で部屋の中を暖かく保つようにした。一人ずつバスケットから取り出され、[[オリーブ・オイル]]でマッサージされた。最初の24時間は2時間おきに、[[コーンシロップ]]を加えて甘くした水が与えられた。2日目に彼女達は少し大きめの洗濯バスケットの中に入れられ、[[湯たんぽ]]で保温した。常に監視され、何度も目覚めなければならなかった。そして、[[牛乳|ミルク]]やお湯、スプーン2杯分のコーンシロップ、および覚せい作用のある[[ラム酒]]1滴または2滴が与えられた<ref>{{Cite book|author=Merrill Denison|title=Infant Industry: The Quintuplets|publisher=Harper's Magazine Condensed in Readers Digest 33 (200)|page=104-107|language=英語}}</ref>。
赤ちゃん達は加熱された毛布にくるまれ、隣人から借りた枝編みバスケットに入れて育てられた。彼女達は台所へ連れて行かれ、部屋のドアを開いた状態にしておき、[[ストーブ]]で部屋の中を暖かく保つようにした。一人ずつバスケットから取り出され、[[オリーブ・オイル]]でマッサージされた。最初の24時間は2時間おきに、[[コーンシロップ]]を加えて甘くした水が与えられた。2日目に彼女達は少し大きめの洗濯バスケットの中に入れられ、[[湯たんぽ]]で保温した。常に監視され、何度も目覚めなければならなかった。そして、[[牛乳|ミルク]]やお湯、スプーン2杯分のコーンシロップ、および覚せい作用のある[[ラム酒]]1滴または2滴が与えられた<ref>{{Cite book|author=Merrill Denison|title=Infant Industry: The Quintuplets|publisher=Harper's Magazine Condensed in Readers Digest 33 (200)|page=104-107|language=英語}}</ref>。


== ダフォーの保育所 ==
=== ダフォーの保育所 ===
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[[File:Dionne quintuplets1937.jpg|275px|right|thumb|1937年に発行されたポストカード]]
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[[File:Dionne quintuplets1939.jpg|300px|right|thumb|1939年のトロントへの旅行]]
[[File:Dionne quintuplets1939.jpg|300px|right|thumb|1939年のトロントへの旅行]]
五つ子誕生のニュースはたちまち駆け巡り、将来に経済的困難に陥ってしまうことを予期した父親のオリヴァは五つ子が出生したわずか3日後には代表者から説得を受けて子供達を[[シカゴ万国博覧会 (1933年)|シカゴ万国博覧会]]に出展するための契約を締結し、世界中の人々の見世物にすることを容認した<ref name="uwo">{{Cite web|author=Amy Wallace|url=http://www.uwo.ca/visarts/research/2008-09/bon_a_tirer/Amy%20Wallace.html|title=1.A Prelude to Forgetting Remembering the Dionne Quintuplets|publisher=UWO.ca|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。当時は見本市や他の展示会で赤ちゃんが展示されることは珍しくなかった<ref>{{Cite web|author=A. J. Liebling|url=http://www.neonatology.org/classics/liebling.html|title=A Patron of the Preemies|publisher=Neonatology.orz|language=英語|date=|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。{{仮リンク|オンタリオ州司法長官|en|Attorney General of Ontario}}の{{仮リンク|アーサー・ローバック|en|Arthur Roebuck}}は7月27日にこの契約を失効させることで搾取を阻止するために、五つ子の両親の[[親権]]を剥奪する権限を取得した<ref>{{Cite web|author=Laura Neilson|url=http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/dionne-quintuplets-miracle-births-at-the-height-of-the-depression-feature/|title=Dionne Quintuplets: Miracle Births at the Height of the Depression|publisher=Thecanadianencyclopedia.ca|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。[[カナダ自由党|自由党]]の{{仮リンク|ミッチェル・ヘプバーン|en|Mitchell Hepburn}}を首班とする{{仮リンク|オンタリオ州政府|en|Government of Ontario}}が注目度の高い彼女達を18歳の誕生日まで保護下に置く名目で{{仮リンク|オンタリオ州立法議会|en|Legislative Assembly of Ontario|label=立法議会}}に提出した「ディオンヌ家の五つ子後見法」は翌[[1935年]]3月にその内容を変更せずに通過した<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=950&dat=19350315&id=KvxPAAAAIBAJ&sjid=6FQDAAAAIBAJ&pg=2395,4069135|title=Dionne Quintuplets May Become Special Wards of King as Law Pends in Canadian Legislature|newspaper=The Evening Independent|language=英語|date=1935年3月15|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
五つ子誕生のニュースはたちまち駆け巡り、将来に経済的困難に陥ってしまうことを予期した父親のオリヴァは五つ子が出生したわずか3日後には代表者から説得を受けて子供達を[[シカゴ万国博覧会 (1933年)|シカゴ万国博覧会]]に出展するための契約を締結し、世界中の人々の見世物にすることを容認した<ref name="uwo">{{Cite web|author=Amy Wallace|url=http://www.uwo.ca/visarts/research/2008-09/bon_a_tirer/Amy%20Wallace.html|title=1.A Prelude to Forgetting Remembering the Dionne Quintuplets|publisher=[[ウェスタンオンタリオ大学|Western University]]|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。当時は見本市や他の展示会で赤ちゃんが展示されることは珍しくなかった<ref>{{Cite web|author=A. J. Liebling|url=http://www.neonatology.org/classics/liebling.html|title=A Patron of the Preemies|publisher=Neonatology|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。{{仮リンク|オンタリオ州司法長官|en|Attorney General of Ontario}}の{{仮リンク|アーサー・ローバック|en|Arthur Roebuck}}は7月27日にこの契約を失効させることで搾取を阻止するために、五つ子の両親の[[親権]]を剥奪する権限を取得した<ref>{{Cite web|author=Laura Neilson|url=http://www.thecanadianencyclopedia.ca/en/article/dionne-quintuplets-miracle-births-at-the-height-of-the-depression-feature/|title=Dionne Quintuplets: Miracle Births at the Height of the Depression|publisher=The Canadian Encyclopedia|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。[[カナダ自由党|自由党]]の{{仮リンク|ミッチェル・ヘプバーン|en|Mitchell Hepburn}}を首班とする{{仮リンク|オンタリオ州政府|en|Government of Ontario}}が注目度の高い彼女達を18歳の誕生日まで保護下に置く名目で{{仮リンク|オンタリオ州立法議会|en|Legislative Assembly of Ontario|label=立法議会}}に提出した「ディオンヌ家の五つ子後見法」は翌[[1935年]]3月にその内容を変更せずに通過した<ref>{{Cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=950&dat=19350315&id=KvxPAAAAIBAJ&sjid=6FQDAAAAIBAJ&pg=2395,4069135|title=Dionne Quintuplets May Become Special Wards of King as Law Pends in Canadian Legislature|work=The Evening Independent|language=英語|date=1935-03-15|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


彼女達の生家から道路を挟み、五つ子姉妹とその新たな保護者が生活するためにダフォーを主任とする病院と保育所が建設された。彼女達は1935年9月下旬に、農家からこの保育所に移住した。屋外に設計された遊び場を持っていたが、屋根付き[[ド]]に囲まれ、1日に二度あるいは三度、観光客が姉妹を観察することが許可されていた。[[赤十字社]]の募金活動によって施設の運営資金が供給された。保育所は9室あり、その近くにスッフの家があった。スタッフの家には3人の看護師とその護衛を担当する3人の警官が居住していた。1人の[[ハウスキーパー]]と2人の[[メ]]は五つ子姉妹と一緒に本館に居住していた。建物は高さ7[[フィート]]の[[有刺鉄線]]のフェンスに囲まれていた。家庭教師が勉強を教え、看護師が日常生活の世話を担当していた。道路を挟んだ家に住む両親や兄弟とはたまに交流していた。毎朝五つ子姉妹は大きな浴室で一緒に服を着替え、それから自分の髪をカールさせた。[[祈り]]を捧げた後、[[ゴング]]が鳴ってから彼女達は食事部屋で朝食を食べた。朝食開始から30分後にはテーブルの上を綺麗にしておかなければならなかった。サンルームで30分間楽器を演奏してから15分間の休憩を取り、9時にダフォーが朝の検査を行っていた。月ごとに、日中の活動の様々な[[時間割|タイムテーブル]]が設定された。毎日夕食の前にシャワーを浴びた後にパジャマを着用した。夕食は正確に6時に食べるようにした。その後に彼女達は夕方の祈りを捧げるためにプレイルームに入室した。それぞれの女の子が自分が誰であるかを示す色とシンボルを手に持った。イヴォンヌの色はピンクで[[ルリツグミ|ブルーバード]]、アネットの色は赤で[[カエデ]]の葉、セシルの色は緑で自分でデザインした[[シチメンチョウ]]、エミリーの色は白で[[チューリップ]]、マリーの色は青で[[テディベア]]だった<ref>{{Cite web|author=Cynthia Wright|url=https://www.questia.com/library/journal/1P3-4585268/they-were-five-the-dionne-quintuplets-revisited|title=They Were Five: The Dionne Quintuplets Revisited|publisher=Questia.com|language=英語|date=1994年冬|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
彼女達の生家から道路を挟み、五つ子姉妹とその新たな保護者が生活するためにダフォーを主任とする病院と保育所が建設された。彼女達は1935年9月下旬に、農家からこの保育所に移住した<ref>{{Cite news|author=Ian Austen|url=https://www.nytimes.com/2017/04/02/world/canada/ontario-dionne-quintuplets.html?hpw&rref=world&action=click&pgtype=Homepage&module=well-region&region=bottom-well&WT.nav=bottom-well|title=2 Survivors of Canada's First Quintuplet Clan Reluctantly Re-emerge|work=[[ニュク・タイムズ|The New York Time]]|language=英語|date=2017-04-02|accessdate=2018-04-16}}</ref>。道路を挟んだ家に住む両親や兄弟とはたまに交流していた。毎朝五つ子姉妹は大きな浴室で一緒に服を着替え、それから自分の髪をカールさせた。[[祈り]]を捧げた後、[[ゴング]]が鳴ってから彼女達は食事部屋で朝食を食べた<ref>{{Cite news|author=Amanda Killelea|url=https://www.mirror.co.uk/news/uk-news/identical-quintuplets-taken-parents-put-10165992|title=Amanda Killelea|work=[[デイリー・ミラー|The Daily Mirror]]|language=英語|date=2017-04-05|accessdate=2018-04-16}}</ref>。朝食開始から30分後にはテーブルの上を綺麗にしておかなければならなかった。サンルームで30分間楽器を演奏してから15分間の休憩を取り、9時にダフォーが朝の検査を行っていた。月ごとに、日中の活動の様々な[[時間割|タイムテーブル]]が設定された。毎日夕食の前にシャワーを浴びた後にパジャマを着用した。夕食は正確に6時に食べるようにした。その後に彼女達は夕方の祈りを捧げるためにプレイルームに入室した。それぞれの女の子が自分が誰であるかを示す色とシンボルを手に持った。イヴォンヌの色はピンクで[[ルリツグミ|ブルーバード]]、アネットの色は赤で[[カエデ]]の葉、セシルの色は緑で自分でデザインした[[シチメンチョウ]]、エミリーの色は白で[[チューリップ]]、マリーの色は青で[[テディベア]]だった<ref>Thomas McCavour. {{Google books|q4-7DQAAQBAJ|Me, Myself & I|page=150}}</ref>。


見物者の姿を見えなくするために、五つ子姉妹の遊び場を覆う[[ガラス]]の内側は細かい網目の[[スクリーン]]で覆われていたが、彼らの影を見ることは出来た。成人した後に出版された著書''『We Were Five』''の中で4人の姉妹は「私達は[[サーカス]]の中心に住んでいました」と述べている<ref name="PBS" />。
見物者の姿を見えなくするために、五つ子姉妹の遊び場を覆う[[ガラス]]の内側は細かい網目の[[スクリーン]]で覆われていたが、彼らの影を見ることは出来た。成人した後に出版された著書''『We Were Five』''の中で4人の姉妹は「私達は[[サーカス]]の中心に住んでいました」と述べている<ref name="PBS" />。


一日あたり約6,000人が五つ子姉妹の姿を見るために屋外の遊び場を囲む観察ギャラリーを訪問した。十分なスペースの駐車場が提供された。父親のオリヴァも保育所の向かいにお土産物品店や委託販売店を作り、このエリアは「クイントランド」と名付けられた。お土産品には五つ子姉妹が描かれたサインや額装写真、スプーン、カップ、皿、書籍、ポストカード、人形などがあった<ref name="Canadianhistoryforkids" />。一時期、ディオンヌ姉妹の人形の売り上げは[[シャーリー・テンプル]]のそれに匹敵した<ref name="Chicagotribune">{{Cite web|author=New York Daily News|url=http://articles.chicagotribune.com/1994-05-29/news/9405290360_1_elzire-dionne-dionne-quints-quintuplets|title=3 Surviving Dionne Quints Reach Age 60|publisher=[[シカゴ・トリビューン|Chicagotribune.com]]|language=英語|date=1994年5月29|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。また、クイントランドは[[ナイアガラの滝]]を上回り、カナダ最大の観光地にまでなった<ref>{{Cite web|url=http://edition.cnn.com/US/9711/19/dionne.quints/|title=The Dionne quintuplets: A Depression-era freak show|publisher=[[CNN|CNN.com]]|language=英語|date=19971119|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。ディオンヌ姉妹の姿を見るためにキャランダーを訪問した人物には[[ハリウッド]]スターの[[クラーク・ゲーブル]]、[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュワート]]、[[ベティ・デイヴィス]]、[[ジェームズ・キャグニー]]、[[メイ・ウエスト]]が含まれる。[[アメリア・イアハート]]も彼女の不幸のフライトのわずか6週間前にキャランダーを訪問している<ref name="Baytoday">{{Cite web|author=Kate Adams|url=http://www.baytoday.ca/content/news/details.asp?c=62480|title=Miracle babies turn 80 today|publisher=Baytoday.ca|language=英語|date=2014年5月28|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。ハリウッドは1930年代後半にこの名声を利用して五つ子姉妹が「ワイアット姉妹」として主演する以下の3本の長編映画を製作した<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm2887257/?ref_=tt_ov_st|title=The Dionne Quintuplets|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb.com]]|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.tcm.com/tcmdb/title/88116/Reunion/|title=Reunion(1936)|publisher=[[ターナー・クラシック・ムービーズ|TCM.com]]|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
一日あたり約6,000人が五つ子姉妹の姿を見るために屋外の遊び場を囲む観察ギャラリーを訪問した。十分なスペースの駐車場が提供された。父親のオリヴァも保育所の向かいにお土産物品店や委託販売店を作り、このエリアは「クイントランド」と名付けられた。お土産品には五つ子姉妹が描かれたサインや額装写真、スプーン、カップ、皿、書籍、ポストカード、人形などがあった<ref name="Canadianhistoryforkids" />。一時期、ディオンヌ姉妹の人形の売り上げは[[シャーリー・テンプル]]のそれに匹敵した<ref name="Chicagotribune">{{Cite news|author=[[デイリーニューズ (ニューヨーク)|New York Daily News]]|url=http://articles.chicagotribune.com/1994-05-29/news/9405290360_1_elzire-dionne-dionne-quints-quintuplets|title=3 Surviving Dionne Quints Reach Age 60|work=[[シカゴ・トリビューン|The Chicago Tribune]]|language=英語|date=1994-05-29|accessdate=2018-04-16}}</ref>。また、クイントランドは[[ナイアガラの滝]]を上回り、カナダ最大の観光地にまでなった<ref>{{Cite news|author=|url=http://edition.cnn.com/US/9711/19/dionne.quints/|title=The Dionne quintuplets: A Depression-era freak show|publisher=[[CNN]]|language=英語|date=1997-11-19|accessdate=2018-04-16}}</ref>。ディオンヌ姉妹の姿を見るためにキャランダーを訪問した人物には[[ハリウッド]]スターの[[クラーク・ゲーブル]]、[[ジェームズ・ステュアート (俳優)|ジェームズ・スチュワート]]、[[ベティ・デイヴィス]]、[[ジェームズ・キャグニー]]、[[メイ・ウエスト]]が含まれる。[[アメリア・イアハート]]も彼女の不幸のフライトのわずか6週間前にキャランダーを訪問している<ref name="Baytoday">{{Cite news|author=Kate Adams|url=http://www.baytoday.ca/content/news/details.asp?c=62480|title=Miracle babies turn 80 today|publisher=Baytoday.ca|language=英語|date=2014-05-28|accessdate=2018-04-16}}</ref>。ハリウッドは1930年代後半にこの名声を利用して五つ子姉妹が「ワイアット姉妹」として主演する以下の3本の長編映画を製作した<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/name/nm2887257/?ref_=tt_ov_st|title=The Dionne Quintuplets|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|Internet Movie Database]]|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.tcm.com/tcmdb/title/88116/Reunion/|title=Reunion(1936)|publisher=[[ターナー・クラシック・ムービーズ|Turner Classic Movies]]|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。
* 『五つ児誕生』(1936年)
* 『五つ児誕生』(1936年)
* 『{{仮リンク|五つ児天国|en|Reunion (1936 film)}}』(1936年) - 上記映画の続編
* 『{{仮リンク|五つ児天国|en|Reunion (1936 film)}}』(1936年) - 上記映画の続編
* 『{{仮リンク|ファイブ・オブ・ア・カインド|en|Five of a Kind}}』(1938年) - 上記映画の続編
* 『{{仮リンク|ファイブ・オブ・ア・カインド|en|Five of a Kind}}』(1938年) - 上記映画の続編


幾つかの推計によると、「クイントランド」は10年足らずの期間で、オンタリオ州に5億[[カナダドル|ドル]]の利益をもたらしたとされる<ref name="PBS" />。アラン・ロイ・ダフォーは典型的な田舎医者として理想化された。その一方で、反抗的なオリヴァ・ディオンヌは新聞紙上で無情な日和見主義者として、子供を育てることにしか欲が無かったエルジール・ディオンヌは無知な農民として扱われた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。通りの向かい側に居住する五つ子姉妹の兄弟達は観光客や[[マスメディア]]に無視され、絶望的な貧困の中で暮らしていた<ref name="Gerry Burnie">{{Cite web|author=Gerry Burnie|url=https://interestingcanadianhistory.wordpress.com/category/dionne-quintuplets/|title=Dionne Quintuplets|publisher=Interestingcanadianhistory.wordpress.com|language=英語|date=2013年12月8日|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
幾つかの推計によると、「クイントランド」は10年足らずの期間で、オンタリオ州に5億[[カナダドル|ドル]]の利益をもたらしたとされる<ref name="PBS" />。アラン・ロイ・ダフォーは典型的な田舎医者として理想化された。その一方で、反抗的なオリヴァ・ディオンヌは新聞紙上で無情な日和見主義者として、子供を育てることにしか欲が無かったエルジール・ディオンヌは無知な農民として扱われた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。


ダフォーの保育所で生活していた間、五つ子姉妹には友達は出来なかった<ref name="Harrowsmith" />。現実の世界で何が起こっているかも知らされず、{{仮リンク|ニッケル (カナダの硬貨)|en|Nickel (Canadian coin)|label=ニッケル}}と{{仮リンク|ダイム (カナダの硬貨)|en|Dime (Canadian coin)|label=ダイム}}(両方ともカナダの硬貨)の区別も出来なかったと言われる<ref name="Harrowsmith" />。ダフォーの保護下に置かれた10年間でクイントランドの外に出ることを許されたのは父親の自動車に乗せられて短時間のドライブを経験したのを除けば、[[イギリスの君主|イギリス国王]][[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]に会うための[[1939年]]の[[トロント]]への旅行のみだった<ref>{{Cite web|url=http://www.habicurious.com/tag/the-dionne-quintuplet-guardianship-act-of-1935/|title=Tag Archives: The Dionne Quintuplet Guardianship Act of 1935|publisher=Habicurious.com|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref><ref name="LA">{{Cite web|author=Times Staff and Wire Reports|url=http://articles.latimes.com/2001/jun/24/local/me-14233|title=Yvonne Dionne; One of Three Remaining Identical Quintuplets|publisher=[[ロサンゼルス・タイムズ|LAtimes.com]]|language=英語|date=2001年6月24|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
ダフォーの保護下に置かれた10年間でクイントランドの外に出ることを許されたのは[[イギリスの君主|イギリス国王]][[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]に会うための[[1939年]]の[[トロント]]への旅行のみだった<ref name="LA">{{Cite news|author=Times Staff and Wire Reports|url=http://articles.latimes.com/2001/jun/24/local/me-14233|title=Yvonne Dionne; One of Three Remaining Identical Quintuplets|work=[[ロサンゼルス・タイムズ|Los Angeles Times]]|language=英語|date=2001-06-24|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


== 帰宅 ==
=== 帰宅 ===
[[File:Dionne quintuplets1947.jpg|325px|right|thumb|1947年。両親や司祭とともに]]
[[File:Dionne quintuplets1947.jpg|325px|right|thumb|1947年。両親や司祭とともに]]
五つ子姉妹が成長していくにつれて人々の関心は薄れていき、[[第二次世界大戦]]に突入する頃には新聞で取り上げられることも少なくなっていた<ref name="uwo" />。[[1943年]]11月、両親は彼女達の親権を獲得する長い闘争でついに勝利を収めた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。家族全員がクイントランドの徒歩圏内に新しく建てられた家に引っ越した。黄色い[[煉瓦|レンガ]]造りの、20室の大邸宅を建造するための費用は「五つ子基金」から支払われた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。
五つ子姉妹が成長していくにつれて人々の関心は薄れていき、[[第二次世界大戦]]に突入する頃には新聞で取り上げられることも少なくなっていた<ref name="uwo" />。[[1943年]]11月、両親は彼女達の親権を獲得する長い闘争でついに勝利を収めた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。家族全員がクイントランドの徒歩圏内に新しく建てられた家に引っ越した。黄色い[[煉瓦|レンガ]]造りの、20室の大邸宅を建造するための費用は「五つ子基金」から支払われた<ref name="Canadianhistoryforkids" />。


五つ子姉妹は他の家族と一緒の生活を開始したが、幸福は得られなかった。彼女達はエルジールが愛情を示してくれないと感じたし、オリヴァについては「暴君」とさえ見ていた。他の兄弟よりも多くの家事を押し付けられた<ref name="PBS" />。[[1995年]]には、この時点で存命していた3人の姉妹がその著書''『The Dionne Quintuplets: Family Secrets』''などで、彼女達が10代の時期に自動車に乗車中に父親から[[児童性的虐待|性的虐待]]を受けた経験があり、母親にも話せなかったと新たに主張した<ref name="NY">{{Cite web|author=Clyde H. Farnsworth|url=http://www.nytimes.com/1995/09/26/world/three-dionne-quintuplets-say-father-sexually-abused-them.html|title=Three Dionne Quintuplets Say Father Sexually Abused Them|publisher=[[ニューヨーク・タイムズ|NYtimes.com]]|language=英語|date=1995年9月26|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
五つ子姉妹は他の家族と一緒の生活を開始したが、幸福は得られなかった。彼女達はエルジールが愛情を示してくれないと感じたし、オリヴァについては「暴君」とさえ見ていた。他の兄弟よりも多くの家事を押し付けられた<ref name="PBS" />。[[1995年]]には、この時点で存命していた3人の姉妹がその著書''『The Dionne Quintuplets: Family Secrets』''などで、彼女達が10代の時期に自動車に乗車中に父親から[[児童性的虐待|性的虐待]]を受けた経験があり、母親にも話せなかったと新たに主張した<ref name="NY">{{Cite news|author=Clyde H. Farnsworth|url=http://www.nytimes.com/1995/09/26/world/three-dionne-quintuplets-say-father-sexually-abused-them.html|title=Three Dionne Quintuplets Say Father Sexually Abused Them|work=The New York Times|language=英語|date=1995-09-26|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


== 成人 ==
=== 成人 ===
[[File:Dionne Quintuplets1952.jpg|300px|right|thumb|フランスのニュース雑誌「{{仮リンク|パリ・マッチ|en|Paris Match}}」に登場した五つ子(1952年)。左から順にイヴォンヌ、マリー、アネット、エミリー、セシル]]
[[File:Dionne Quintuplets1952.jpg|300px|right|thumb|フランスのニュース雑誌「{{仮リンク|パリ・マッチ|en|Paris Match}}」に登場した五つ子(1952年)。左から順にイヴォンヌ、マリー、アネット、エミリー、セシル]]
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[[File:Dionne quintuplets1999.jpg|250px|right|thumb|1999年。イヴォンヌ、セシル、アネット]]
[[File:Dionne quintuplets1999.jpg|250px|right|thumb|1999年。イヴォンヌ、セシル、アネット]]
[[1952年]]に18歳になった五つ子姉妹は家を出て、他の家族との交流をほぼ全て絶った<ref name="PBS" />。五つ子姉妹のおかげで莫大な収入を得られたにも関わらず、姉妹が21歳になり、資金を受け取る資格を得た時に信託基金に残されていた額は80万ドルに減っていた<ref name="PBS" />。この時にそれ以外の金が[[カナダ政府]]、アラン・ロイ・ダフォー、オリヴァ・ディオンヌによって使い回されたことを知ることになる<ref name="Chicagotribune" />。80万ドルは4人の間で分け合った<ref name="NY2">{{Cite web|author=Anthony DePalma|url=http://www.nytimes.com/1998/03/04/world/st-bruno-journal-the-babies-of-quintland-now-broke-and-bitter.html?scp=1&sq=Quintland&st=nyt|title=St. Bruno Journal: The Babies of Quintland Now: Broke, and Bitter|publisher=NYtimes.com|language=英語|date=1998年3月4日|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
[[1952年]]に18歳になった五つ子姉妹は家を出て、他の家族との交流をほぼ全て絶った<ref name="PBS" />。五つ子姉妹のおかげで莫大な収入を得られたにも関わらず、姉妹が21歳になり、資金を受け取る資格を得た時に信託基金に残されていた額は80万ドルに減っていた<ref name="PBS" />。この時にそれ以外の金が[[カナダ政府]]、アラン・ロイ・ダフォー、オリヴァ・ディオンヌによって使い回されたことを知ることになる<ref name="Chicagotribune" />。80万ドルは4人の間で分け合った<ref name="NY2">{{Cite news|author=Anthony DePalma|url=http://www.nytimes.com/1998/03/04/world/st-bruno-journal-the-babies-of-quintland-now-broke-and-bitter.html?scp=1&sq=Quintland&st=nyt|title=St. Bruno Journal: The Babies of Quintland Now: Broke, and Bitter|work=The New York Times|language=英語|date=1998-03-04|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


3人が結婚している。マリーは2人の娘、アネットは3人の息子、セシルは乳児期に死亡した子供と双子を含む5人の子供をそれぞれもうけた<ref>[[#Soucy(1996年)|Soucy(1996年) ]]</ref>。マリーは死の4年前に夫と別居するようになり<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=1982&dat=19700228&id=xZBGAAAAIBAJ&sjid=9isNAAAAIBAJ&pg=6643,4839609|title=Marie, 1 Of 4 Surviving Dionne Quintuplets, Dies at 35|newspaper=The Evening News|language=英語|date=1970年2月28|accessdate=2014年11月16}}</ref>、アネットとセシルは離婚している<ref name="NY" />。
3人が結婚している。マリーは2人の娘、アネットは3人の息子、セシルは乳児期に死亡した子供と双子を含む5人の子供をそれぞれもうけた<ref>[[#Soucy(1996年)|Soucy(1996年) ]]</ref>。マリーは死の4年前に夫と別居するようになり<ref>{{Cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=1982&dat=19700228&id=xZBGAAAAIBAJ&sjid=9isNAAAAIBAJ&pg=6643,4839609|title=Marie, 1 Of 4 Surviving Dionne Quintuplets, Dies at 35|work=The Evening Independent|language=英語|date=1970-02-28|accessdate=2018-04-16}}</ref>、アネットとセシルは離婚している<ref name="NY" />。


五つ子姉妹のうち2人が中年期を迎える前に亡くなった。[[修道院]]の{{仮リンク|聖職志願者|en|Postulant}}となったエミリーは[[1954年]]に[[てんかん]]の発作が原因で亡くなった。彼女は発作持ちのために、付き添い人の居ない状態にしないように{{仮リンク|ナン (修道女)|en|Nun|label=ナン}}(修道女)に頼んでいた。ところが、見ることになっていた女性は眠っていると思い、[[ミサ]]に向かった。彼女はその間に、枕から顔を上げようとして誤って[[窒息|窒息死]]してしまった<ref name="PBS" /><ref name="Chicagotribune" /><ref name="Gerry Burnie" /><ref name="LA" /><ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=266&dat=19850523&id=_fsrAAAAIBAJ&sjid=gG0FAAAAIBAJ&pg=3281,3247780|title=Dionne Quintuplets Are Bitter Survivors|newspaper=Kentucky New Era|language=英語|date=1985年5月23|accessdate=2014年11月16}}</ref>。マリーは[[アルコール依存症]]と[[うつ病]]に数年間苦しんだ末、[[1970年]]に[[血栓症]]で亡くなった。彼女は夫と別居中でアパートに一人で住んでおり、3人の姉は何日も連絡が無かったので心配していた。医者が彼女の家に行き、死後数日が経過していることを確認した<ref name="PBS" /><ref name="Chicagotribune" />。
五つ子姉妹のうち2人が中年期を迎える前に亡くなった。[[修道院]]の{{仮リンク|聖職志願者|en|Postulant}}となったエミリーは[[1954年]]に[[てんかん]]の発作が原因で亡くなった。彼女は発作持ちのために、付き添い人の居ない状態にしないように{{仮リンク|ナン (修道女)|en|Nun|label=ナン}}(修道女)に頼んでいた。ところが、見ることになっていた女性は眠っていると思い、[[ミサ]]に向かった。彼女はその間に、枕から顔を上げようとして誤って[[窒息|窒息死]]してしまった<ref name="PBS" /><ref name="Chicagotribune" /><ref name="LA" /><ref>{{Cite news|url=http://news.google.com/newspapers?nid=266&dat=19850523&id=_fsrAAAAIBAJ&sjid=gG0FAAAAIBAJ&pg=3281,3247780|title=Dionne Quintuplets Are Bitter Survivors|work=Kentucky New Era|language=英語|date=1985-05-23|accessdate=2018-04-16}}</ref>。マリーは[[アルコール依存症]]と[[うつ病]]に数年間苦しんだ末、[[1970年]]に[[血栓症]]で亡くなった。彼女は夫と別居中でアパートに一人で住んでおり、3人の姉は何日も連絡が無かったので心配していた。医者が彼女の家に行き、死後数日が経過していることを確認した<ref name="PBS" /><ref name="Chicagotribune" />。


1965年にジェームズ・ブラフは4人の姉妹と協力して五つ子姉妹のこれまでの秘話を綴る''『We Were Five』''を著した<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/We-Were-Five-Quintuplets-Womanhood/dp/B0007DV0CM/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1430913235&sr=1-1|title=We Were Five: The Dionne Quintuplets' Story from Birth through Girlhood to Womanhood|publisher=[[Amazon.com]]|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>。{{仮リンク|ピエール・ベルトン|en|Pierre Berton}}が1977年に著した''『The Dionne Years: A Thirties Melodrama』''<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/Dionne-Years-Thirties-Melodrama/dp/0771012152/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1430919176&sr=1-1&keywords=The+Dionne+Years%3A+A+Thirties+Melodrama+in+1977|title=The Dionne Years A Thirties Melodrama|publisher=Amazon.com|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>を元に、1978年11月19日にカナダで[[テレビ映画]]''『The Dionne Quintuplets』''が放映された<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0165712/?ref_=nm_flmg_wr_4|title=The Dionne Quintuplets(1978)|publisher=[[インターネット・ムービー・データベース|IMDb.com]]|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>。また、{{仮リンク|ジョン・ナイミー|en|John Nihmey}}とスチュアート・フォックスマンが1986年に著した''『Time of Their Lives: The Dionne Tragedy』''<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/Time-Their-Lives-Dionne-Tragedy/dp/0921043007|title=Time of Their Lives: The Dionne Tragedy|publisher=Amazon.com|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>を元に、1994年にアメリカとカナダ合作の{{仮リンク|テレビ・ミニシリーズ|en|Miniseries}}『[[ミリオンダラー・ベイビーズ]]』が放映された。この映画では[[ボー・ブリッジス]]がダフォーを、{{仮リンク|ロイ・デュプイ|en|Roy Dupuis}}が父オリヴァを、{{仮リンク|セリーヌ・ボニエ|en|Céline Bonnier}}が母エルジールをそれぞれ演じている<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0108859/|title=Million Dollar Babies(1994)|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>。
1965年にジェームズ・ブラフは4人の姉妹と協力して五つ子姉妹のこれまでの秘話を綴る''『We Were Five』''を著した<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/We-Were-Five-Quintuplets-Womanhood/dp/B0007DV0CM/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1430913235&sr=1-1|title=We Were Five: The Dionne Quintuplets' Story from Birth through Girlhood to Womanhood|publisher=[[Amazon.com]]|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。{{仮リンク|ピエール・ベルトン|en|Pierre Berton}}が1977年に著した''『The Dionne Years: A Thirties Melodrama』''<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/Dionne-Years-Thirties-Melodrama/dp/0771012152/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1430919176&sr=1-1&keywords=The+Dionne+Years%3A+A+Thirties+Melodrama+in+1977|title=The Dionne Years A Thirties Melodrama|publisher=Amazon.com|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>を元に、1978年11月19日にカナダで[[テレビ映画]]''『The Dionne Quintuplets』''が放映された<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0165712/?ref_=nm_flmg_wr_4|title=The Dionne Quintuplets(1978)|publisher=Internet Movie Database|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。また、{{仮リンク|ジョン・ナイミー|en|John Nihmey}}とスチュアート・フォックスマンが1986年に著した''『Time of Their Lives: The Dionne Tragedy』''<ref>{{Cite web|url=http://www.amazon.com/Time-Their-Lives-Dionne-Tragedy/dp/0921043007|title=Time of Their Lives: The Dionne Tragedy|publisher=Amazon.com|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>を元に、1994年にアメリカとカナダ合作の{{仮リンク|テレビ・ミニシリーズ|en|Miniseries}}『[[ミリオンダラー・ベイビーズ]]』が放映された。この映画では[[ボー・ブリッジス]]がダフォーを、{{仮リンク|ロイ・デュプイ|en|Roy Dupuis}}が父オリヴァを、{{仮リンク|セリーヌ・ボニエ|en|Céline Bonnier}}が母エルジールをそれぞれ演じている<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0108859/|title=Million Dollar Babies(1994)|publisher=Internet Movie Database|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


基金から提供される資金も消失した後、60代に達したイヴォンヌとアネットとセシルは合わせて月746ドルの所得で、[[モントリオール]]郊外に一緒に暮らすようになった<ref name="PBS" />。3人の姉妹は搾取された分の報酬の支払いを要求したが、[[1998年]]にオンタリオ州政府と400万ドルで和解した<ref name="PBS" /><ref name="NY2" />。
基金から提供される資金も消失した後、60代に達したイヴォンヌとアネットとセシルは合わせて月746ドルの所得で、[[モントリオール]]郊外に一緒に暮らすようになった<ref name="PBS" />。3人の姉妹は搾取された分の報酬の支払いを要求したが、[[1998年]]にオンタリオ州政府と400万ドルで和解した<ref name="PBS" /><ref name="NY2" />。


1997年に3人の姉妹(イヴォンヌ、アネット、セシル)は{{仮リンク|マッコイ家の七つ子|en|McCaughey septuplets}}の過剰な宣伝を容認する親に向けて警告を発する[[公開状]]を書いた<ref>{{Cite web|author=Annette Dionne、Cecile Dionne、Yvonne Dionne|url=http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,987457,00.html|title=ADVICE FROM THE DIONNE QUINTUPLETS|publisher=[[タイム (雑誌)|TIME.com]]|language=英語|date=199712月1日|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
1997年に3人の姉妹(イヴォンヌ、アネット、セシル)は{{仮リンク|マッコイ家の七つ子|en|McCaughey septuplets}}の過剰な宣伝を容認する親に向けて警告を発する[[公開状]]を書いた<ref>{{Cite web|author=Annette Dionne、Cecile Dionne、Yvonne Dionne|url=http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,987457,00.html|title=ADVICE FROM THE DIONNE QUINTUPLETS|publisher=[[タイム (雑誌)|TIME]]|language=英語|date=1997-12-01|accessdate=2018-04-16}}</ref>。
{{cquote|''彼らの運命は他の子供達のそれと全く異ならないはずです。多胎児の出生を[[エンターテインメント]]と一緒にしてはならないし、商売道具にしてはならないのです。私達の人生は出生した地、オンタリオ州の政府による搾取で台無しにされてしまいました。私達は数百万人の観光客の好奇心のために一日3回、見物者の前に晒されました。今日に至るまで、私達の元には世界中から手紙が送られてきます。私達が受けてきた虐待を踏まえて彼らのサポートを表明してくれている全ての人々に、お礼を言います。そして、増大する子供達の名声を利用しようとする人々に、気を付けるように言います。私達の子供時代の経験によって、その後の人生がどのように永久に変わってしまったかを調べてそこから教訓を得ることを心から願っています。この手紙によって新生児達の事の成り行きが変更されれば、私達の人生の価値も高められることになるでしょう。''}}
{{cquote|''彼らの運命は他の子供達のそれと全く異ならないはずです。多胎児の出生を[[エンターテインメント]]と一緒にしてはならないし、商売道具にしてはならないのです。私達の人生は出生した地、オンタリオ州の政府による搾取で台無しにされてしまいました。私達は数百万人の観光客の好奇心のために一日3回、見物者の前に晒されました。今日に至るまで、私達の元には世界中から手紙が送られてきます。私達が受けてきた虐待を踏まえて彼らのサポートを表明してくれている全ての人々に、お礼を言います。そして、増大する子供達の名声を利用しようとする人々に、気を付けるように言います。私達の子供時代の経験によって、その後の人生がどのように永久に変わってしまったかを調べてそこから教訓を得ることを心から願っています。この手紙によって新生児達の事の成り行きが変更されれば、私達の人生の価値も高められることになるでしょう。''}}


イヴォンヌは[[2001年]]に[[悪性腫瘍|がん]]で亡くなった<ref name="Canadianhistoryforkids" /><ref name="LA" />。アネットとセシルは2014年5月28日に80歳の誕生日を迎えている<ref name="Baytoday" />。
イヴォンヌは[[2001年]]に[[悪性腫瘍|がん]]で亡くなった<ref name="Canadianhistoryforkids" /><ref name="LA" />。アネットとセシルは2014年5月28日に80歳の誕生日を迎えている<ref name="Baytoday" />。


=== ディオンヌの五つ子博物館 ===
オンタリオ州[[ノースベイ (オンタリオ州)|ノースベイ]]市は1985年にディオンヌ・パトロン財団の後援を受けてディオンヌ家の[[オリジナル]]の[[ファームハウス]]を購入し、建物を丸ごとノースベイに移動させた後、翌1986年に「ディオンヌ家の五つ子博物館」をオープンさせた<ref name="NorthBay">{{Cite web|url=http://northbaychamber.com/tourism/museum/|title=The Dionne Quints Museum|publisher=NorthBayChamber.com|language=英語|accessdate=2015年5月5日}}</ref>。博物館は{{仮リンク|オンタリオ・ハイウェイ11号線|en|Ontario Highway 11}}と[[トランスカナダハイウェイ|トランスカナダ・ハイウェイ]]の分岐点に位置しており、館内には五つ子の幼年期と成長期を特徴付ける様々な芸術品が展示されていた<ref name="NorthBay" />。しかし年々訪問客は減少し、2015年に博物館は閉鎖された<ref>{{Cite web|author=Alison Northcott|url=http://www.cbc.ca/news/canada/montreal/dionne-quintuplets-north-bay-1.4128021|title=Last surviving Dionne quintuplets hope to preserve childhood home|publisher=CBC News|language=英語|date=2010年5月25日|accessdate=2017年7月13日}}</ref>。
オンタリオ州[[ノースベイ (オンタリオ州)|ノースベイ]]市は1985年にディオンヌ家の[[オリジナル]]の[[ファームハウス]]を購入し、建物を丸ごとノースベイに移動させて「ディオンヌの五つ子博物館」をオープンさせた<ref>{{Cite news|author=Paola Loriggio|url=http://www.cbc.ca/news/canada/sudbury/dionne-quintuplets-home-north-bay-council-1.4055410|title=North Bay council expected to decide on fate of home where Dionne quintuplets were born|publisher=[[カナダ放送協会|Canadian Broadcasting Corporation]]|language=英語|date=2017-04-04|accessdate=2018-04-16}}</ref>。年々訪問客は減少し、2015年に一旦閉鎖された<ref>{{Cite news|author=Alison Northcott|url=http://www.cbc.ca/news/canada/montreal/dionne-quintuplets-north-bay-1.4128021|title=Last surviving Dionne quintuplets hope to preserve childhood home|publisher=Canadian Broadcasting Corporation|language=英語|date=2017-05-25|accessdate=2018-04-16}}</ref>。しかし2017年11月19日にノースベイのダウンタウンに移転することが決まった。博物館は2018年5月に再開される予定である<ref>{{Cite news|author=CBC News|url=http://www.cbc.ca/news/canada/sudbury/dionne-quints-home-move-1.4395582|title=Dionne Quints home set to move this month|publisher=Canadian Broadcasting Corporation|language=英語|date=201711--09|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


== 大衆文化への影響 ==
== 大衆文化への影響 ==
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* 『{{仮リンク|モーガンズ・クリークの奇跡|en|The Miracle of Morgan's Creek}}』(1944年)
* 『{{仮リンク|モーガンズ・クリークの奇跡|en|The Miracle of Morgan's Creek}}』(1944年)


[[マルクス兄弟]]が主演する『オペラは踊る』では、契約書にサインする時にドリフトウッドから複写の意味を知っているのかと聞かれたフィオレロが「もちろん、カナダの五つ子のことだ」と返答する場面がある<ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0026778/trivia|title=A Night at the Opera (1935) - Trivia|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。また、『ダンボ』の挿入歌の一つ「こうのとりにご用心」の[[英語]]版の歌詞には、「五つ子と靴の女性を覚えておくんだ」という語が出てくる<ref>{{cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0033563/trivia|title=Danbo (1941) - Trivia|publisher=IMDb.com|language=英語|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
[[マルクス兄弟]]が主演する『オペラは踊る』では、契約書にサインする時にドリフトウッドから複写の意味を知っているのかと聞かれたフィオレロが「もちろん、カナダの五つ子のことだ」と返答する場面がある<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0026778/trivia|title=A Night at the Opera (1935) - Trivia|publisher=Internet Movie Database|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。また、『ダンボ』の挿入歌の一つ「こうのとりにご用心」の[[英語]]版の歌詞には、「五つ子と靴の女性を覚えておくんだ」という語が出てくる<ref>{{Cite web|url=http://www.imdb.com/title/tt0033563/trivia|title=Danbo (1941) - Trivia|publisher=Internet Movie Database|language=英語|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


比較的最近では、実在したディオンヌ姉妹から着想を得て、排卵誘発剤がまだ開発されていなかった[[世界恐慌]]期に[[ケベック州]]で奇跡的に出生した五つ子姉妹の最後の生存者の殺人事件を題材とする[[ルイーズ・ペニー]]の小説『ハウ・ザ・ライト・ゲッツ・イン』(2013年)が刊行されている<ref>{{cite web|author=Maureen Corrigan|url=http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/book-world-review-how-the-light-gets-in-by-louise-penny/2013/08/25/4bad9070-fdf1-11e2-9711-3708310f6f4d_story.html|title=Book World review: ‘How the Light Gets In’ by Louise Penny|publisher=|Washingtonpost.com|language=英語|date=2013年8月25|accessdate=2014年11月13日}}</ref>。
比較的最近では、実在したディオンヌ姉妹から着想を得て、排卵誘発剤がまだ開発されていなかった[[世界恐慌]]期に[[ケベック州]]で奇跡的に出生した五つ子姉妹の最後の生存者の殺人事件を題材とする[[ルイーズ・ペニー]]の小説『ハウ・ザ・ライト・ゲッツ・イン』(2013年)が刊行されている<ref>{{Cite news|author=Maureen Corrigan|url=http://www.washingtonpost.com/entertainment/books/book-world-review-how-the-light-gets-in-by-louise-penny/2013/08/25/4bad9070-fdf1-11e2-9711-3708310f6f4d_story.html|title=Book World review: ‘How the Light Gets In’ by Louise Penny|work=The Washington Post|language=英語|date=2013-08-25|accessdate=2018-04-16}}</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[スールマン家の八つ子]]
* [[スールマン家の八つ子]]


== 書 ==
== 書 ==
* {{Cite book|author=James Brough, Annette Dionne, Cécile Dionne, Marie Dionne, Yvonne Dionne|date=1965年|title=We Were Five: The Dionne Quintuplets' Story from Birth through Girlhood to Womanhood|publisher=Simon and Schuster|language=英語|asin=B0007DV0CM}}
* {{Cite book|author=James Brough, Annette Dionne, Cécile Dionne, Marie Dionne, Yvonne Dionne|date=1965年|title=We Were Five: The Dionne Quintuplets' Story from Birth through Girlhood to Womanhood|publisher=Simon and Schuster|language=英語|asin=B0007DV0CM}}
* {{Cite book|author=Jean-Yves Soucy, Annette Dionne, Cécile Dionne, Yvonne Dionne|date=1996年|title=Family Secrets: The Dionne Quintuplets' Autobiography|publisher=Stoddart|language=英語|isbn=978-0773758032|ref=Soucy(1996年)}}
* {{Cite book|author=Jean-Yves Soucy, Annette Dionne, Cécile Dionne, Yvonne Dionne|date=1996年|title=Family Secrets: The Dionne Quintuplets' Autobiography|publisher=Stoddart|language=英語|isbn=978-0773758032|ref=Soucy(1996年)}}

2018年4月16日 (月) 09:08時点における版

ディオンヌ家の五つ子姉妹(1940年頃)
近くより撮影されたクイントランド

ディオンヌ家の五つ子姉妹 (Dionne quintuplet sisters) は、全員が幼児期以降まで成長した世界最初の五つ子として知られる。五つ子姉妹はカナダオンタリオ州キャランダー英語版において、1934年5月28日に出生した。「奇跡の赤ちゃん」として出生直後から注目を浴び、世界恐慌当時の不屈の精神と喜びの世界的なシンボルとなった[1]

ディオンヌ家の五つ子姉妹は予定日よりも2ヶ月早い早産だった。オンタリオ州政府英語版は翌1935年に「ディオンヌ家の五つ子後見法」を成立させて両親の親権を剥奪してしまい、彼女達は産科医アラン・ロイ・ダフォーの保護下に置かれ、9歳まで両親と離れて暮らさなければならなかった。関係者は彼女達が暮らす保育所をカナダの代表的な観光地にすることで利益を得るようになった。

出生順 性別 出生時間[2] 名前 死亡日
A 4時15分 イヴォンヌ・エドゥイルダ・マリー・ディオンヌ 2001年6月23日(2001-06-23)(67歳)


(がん)

B 4時25分 アネット・リリアンヌ・マリー・ディオンヌ
(夫姓:アラーヌ)

(存命)
C 4時40分 セシル・マリー・エミルダ・ディオンヌ
(夫姓:ラングロワ)

(存命)
D 4時45分 エミリー・マリー・ジャンヌ・ディオンヌ 1954年8月6日(1954-08-06)(20歳)


(てんかん)

E 4時57分 マリー・レーヌ・アルマ・ディオンヌ
1970年2月27日(1970-02-27)(35歳)


(血栓症)

生い立ち

出生

1934年。オンタリオ州首相ミッチェル・ヘプバーン英語版とともに
映像外部リンク
The Dionne Quins - 1934年から1936年までの姉妹の映像(British Pathéがアップロードした動画)

1934年5月28日カナダオンタリオ州キャランダー英語版において、フランス系カナダ人女性のエルジール・ディオンヌは予定日より2ヶ月早く5人の一卵性の女の子を出産した。赤ちゃん達は片手でしっかり持てるほど小さかった[1]。エルジールは最終的にこの五つ子の他に単独の9人の子供を出産している[3]

アラン・ロイ・ダフォーは夜中にエルジールの夫オリヴァ・ディオンヌから呼び出され、2人の助産婦の助けを借りて五つ子の出産を担当した医師だった。ダフォーは赤ちゃん達の様子を見てすぐに死んでしまうだろうと考えていた。母のエルジールも出産後に激しいショックを受けており、ダフォーは子供達と同様に死ぬだろうと考えたが、彼女は2時間後に回復した[4]

トロント大学生物学歯学、その他身体的検査の見地からディオンヌの五つ子の調査を主導し、生物学的調査から五つ子は一卵性であることが立証されている。母親は妊娠3ヶ月頃に痙攣と共に奇妙な物体を排出したと医師に話しており、元は六つの受精胚が存在していた可能性が広く信じられている。一卵性であるため、誕生した5人の新生児は同じ遺伝形質を有している[3]。五つ子以上の多胎児は年間で数十組の出産例があるが[5]、「一卵性の」周胎児(五つ子)はまれである[6][7]

赤ちゃん達は加熱された毛布にくるまれ、隣人から借りた枝編みバスケットに入れて育てられた。彼女達は台所へ連れて行かれ、部屋のドアを開いた状態にしておき、ストーブで部屋の中を暖かく保つようにした。一人ずつバスケットから取り出され、オリーブ・オイルでマッサージされた。最初の24時間は2時間おきに、コーンシロップを加えて甘くした水が与えられた。2日目に彼女達は少し大きめの洗濯バスケットの中に入れられ、湯たんぽで保温した。常に監視され、何度も目覚めなければならなかった。そして、ミルクやお湯、スプーン2杯分のコーンシロップ、および覚せい作用のあるラム酒1滴または2滴が与えられた[8]

ダフォーの保育所

映像外部リンク
The Dionne Quintuplets At Callander, Ontario - 1936年の姉妹の映像(British Pathéがアップロードした動画)
Latest Pictures Of The Dionne Quintuplets - 1936年の姉妹の映像(British Pathéがアップロードした動画)
The Quins Listen To Princess Elizabeth - 1940年の姉妹の映像(British Pathéがアップロードした動画)
1937年に発行されたポストカード
1939年のトロントへの旅行

五つ子誕生のニュースはたちまち駆け巡り、将来に経済的困難に陥ってしまうことを予期した父親のオリヴァは五つ子が出生したわずか3日後には代表者から説得を受けて子供達をシカゴ万国博覧会に出展するための契約を締結し、世界中の人々の見世物にすることを容認した[9]。当時は見本市や他の展示会で赤ちゃんが展示されることは珍しくなかった[10]オンタリオ州司法長官英語版アーサー・ローバック英語版は7月27日にこの契約を失効させることで搾取を阻止するために、五つ子の両親の親権を剥奪する権限を取得した[11]自由党ミッチェル・ヘプバーン英語版を首班とするオンタリオ州政府英語版が注目度の高い彼女達を18歳の誕生日まで保護下に置く名目で立法議会英語版に提出した「ディオンヌ家の五つ子後見法」は翌1935年3月にその内容を変更せずに通過した[12]

彼女達の生家から道路を挟み、五つ子姉妹とその新たな保護者が生活するためにダフォーを主任とする病院と保育所が建設された。彼女達は1935年9月下旬に、農家からこの保育所に移住した[13]。道路を挟んだ家に住む両親や兄弟とはたまに交流していた。毎朝五つ子姉妹は大きな浴室で一緒に服を着替え、それから自分の髪をカールさせた。祈りを捧げた後、ゴングが鳴ってから彼女達は食事部屋で朝食を食べた[14]。朝食開始から30分後にはテーブルの上を綺麗にしておかなければならなかった。サンルームで30分間楽器を演奏してから15分間の休憩を取り、9時にダフォーが朝の検査を行っていた。月ごとに、日中の活動の様々なタイムテーブルが設定された。毎日夕食の前にシャワーを浴びた後にパジャマを着用した。夕食は正確に6時に食べるようにした。その後に彼女達は夕方の祈りを捧げるためにプレイルームに入室した。それぞれの女の子が自分が誰であるかを示す色とシンボルを手に持った。イヴォンヌの色はピンクでブルーバード、アネットの色は赤でカエデの葉、セシルの色は緑で自分でデザインしたシチメンチョウ、エミリーの色は白でチューリップ、マリーの色は青でテディベアだった[15]

見物者の姿を見えなくするために、五つ子姉妹の遊び場を覆うガラスの内側は細かい網目のスクリーンで覆われていたが、彼らの影を見ることは出来た。成人した後に出版された著書『We Were Five』の中で4人の姉妹は「私達はサーカスの中心に住んでいました」と述べている[1]

一日あたり約6,000人が五つ子姉妹の姿を見るために屋外の遊び場を囲む観察ギャラリーを訪問した。十分なスペースの駐車場が提供された。父親のオリヴァも保育所の向かいにお土産物品店や委託販売店を作り、このエリアは「クイントランド」と名付けられた。お土産品には五つ子姉妹が描かれたサインや額装写真、スプーン、カップ、皿、書籍、ポストカード、人形などがあった[4]。一時期、ディオンヌ姉妹の人形の売り上げはシャーリー・テンプルのそれに匹敵した[16]。また、クイントランドはナイアガラの滝を上回り、カナダ最大の観光地にまでなった[17]。ディオンヌ姉妹の姿を見るためにキャランダーを訪問した人物にはハリウッドスターのクラーク・ゲーブルジェームズ・スチュワートベティ・デイヴィスジェームズ・キャグニーメイ・ウエストが含まれる。アメリア・イアハートも彼女の不幸のフライトのわずか6週間前にキャランダーを訪問している[18]。ハリウッドは1930年代後半にこの名声を利用して五つ子姉妹が「ワイアット姉妹」として主演する以下の3本の長編映画を製作した[19][20]

幾つかの推計によると、「クイントランド」は10年足らずの期間で、オンタリオ州に5億ドルの利益をもたらしたとされる[1]。アラン・ロイ・ダフォーは典型的な田舎医者として理想化された。その一方で、反抗的なオリヴァ・ディオンヌは新聞紙上で無情な日和見主義者として、子供を育てることにしか欲が無かったエルジール・ディオンヌは無知な農民として扱われた[4]

ダフォーの保護下に置かれた10年間で、クイントランドの外に出ることを許されたのはイギリス国王ジョージ6世に会うための1939年トロントへの旅行のみだった[21]

帰宅

1947年。両親や司祭とともに

五つ子姉妹が成長していくにつれて人々の関心は薄れていき、第二次世界大戦に突入する頃には新聞で取り上げられることも少なくなっていた[9]1943年11月、両親は彼女達の親権を獲得する長い闘争でついに勝利を収めた[4]。家族全員がクイントランドの徒歩圏内に新しく建てられた家に引っ越した。黄色いレンガ造りの、20室の大邸宅を建造するための費用は「五つ子基金」から支払われた[4]

五つ子姉妹は他の家族と一緒の生活を開始したが、幸福は得られなかった。彼女達はエルジールが愛情を示してくれないと感じたし、オリヴァについては「暴君」とさえ見ていた。他の兄弟よりも多くの家事を押し付けられた[1]1995年には、この時点で存命していた3人の姉妹がその著書『The Dionne Quintuplets: Family Secrets』などで、彼女達が10代の時期に自動車に乗車中に父親から性的虐待を受けた経験があり、母親にも話せなかったと新たに主張した[22]

成人

フランスのニュース雑誌「パリ・マッチ」に登場した五つ子(1952年)。左から順にイヴォンヌ、マリー、アネット、エミリー、セシル
映像外部リンク
Dionne Quin Laid To Rest - 1954年のエミリーの葬儀を伝えるニュース(British Pathéがアップロードした動画)
1999年。イヴォンヌ、セシル、アネット

1952年に18歳になった五つ子姉妹は家を出て、他の家族との交流をほぼ全て絶った[1]。五つ子姉妹のおかげで莫大な収入を得られたにも関わらず、姉妹が21歳になり、資金を受け取る資格を得た時に信託基金に残されていた額は80万ドルに減っていた[1]。この時にそれ以外の金がカナダ政府、アラン・ロイ・ダフォー、オリヴァ・ディオンヌによって使い回されたことを知ることになる[16]。80万ドルは4人の間で分け合った[23]

3人が結婚している。マリーは2人の娘、アネットは3人の息子、セシルは乳児期に死亡した子供と双子を含む5人の子供をそれぞれもうけた[24]。マリーは死の4年前に夫と別居するようになり[25]、アネットとセシルは離婚している[22]

五つ子姉妹のうち2人が中年期を迎える前に亡くなった。修道院聖職志願者英語版となったエミリーは1954年てんかんの発作が原因で亡くなった。彼女は発作持ちのために、付き添い人の居ない状態にしないようにナン英語版(修道女)に頼んでいた。ところが、見ることになっていた女性は眠っていると思い、ミサに向かった。彼女はその間に、枕から顔を上げようとして誤って窒息死してしまった[1][16][21][26]。マリーはアルコール依存症うつ病に数年間苦しんだ末、1970年血栓症で亡くなった。彼女は夫と別居中でアパートに一人で住んでおり、3人の姉は何日も連絡が無かったので心配していた。医者が彼女の家に行き、死後数日が経過していることを確認した[1][16]

1965年にジェームズ・ブラフは4人の姉妹と協力して五つ子姉妹のこれまでの秘話を綴る『We Were Five』を著した[27]ピエール・ベルトン英語版が1977年に著した『The Dionne Years: A Thirties Melodrama』[28]を元に、1978年11月19日にカナダでテレビ映画『The Dionne Quintuplets』が放映された[29]。また、ジョン・ナイミー英語版とスチュアート・フォックスマンが1986年に著した『Time of Their Lives: The Dionne Tragedy』[30]を元に、1994年にアメリカとカナダ合作のテレビ・ミニシリーズ英語版ミリオンダラー・ベイビーズ』が放映された。この映画ではボー・ブリッジスがダフォーを、ロイ・デュプイ英語版が父オリヴァを、セリーヌ・ボニエ英語版が母エルジールをそれぞれ演じている[31]

基金から提供される資金も消失した後、60代に達したイヴォンヌとアネットとセシルは合わせて月746ドルの所得で、モントリオール郊外に一緒に暮らすようになった[1]。3人の姉妹は搾取された分の報酬の支払いを要求したが、1998年にオンタリオ州政府と400万ドルで和解した[1][23]

1997年に3人の姉妹(イヴォンヌ、アネット、セシル)はマッコイ家の七つ子英語版の過剰な宣伝を容認する親に向けて警告を発する公開状を書いた[32]

彼らの運命は他の子供達のそれと全く異ならないはずです。多胎児の出生をエンターテインメントと一緒にしてはならないし、商売道具にしてはならないのです。私達の人生は出生した地、オンタリオ州の政府による搾取で台無しにされてしまいました。私達は数百万人の観光客の好奇心のために一日3回、見物者の前に晒されました。今日に至るまで、私達の元には世界中から手紙が送られてきます。私達が受けてきた虐待を踏まえて彼らのサポートを表明してくれている全ての人々に、お礼を言います。そして、増大する子供達の名声を利用しようとする人々に、気を付けるように言います。私達の子供時代の経験によって、その後の人生がどのように永久に変わってしまったかを調べてそこから教訓を得ることを心から願っています。この手紙によって新生児達の事の成り行きが変更されれば、私達の人生の価値も高められることになるでしょう。

イヴォンヌは2001年がんで亡くなった[4][21]。アネットとセシルは2014年5月28日に80歳の誕生日を迎えている[18]

ディオンヌの五つ子博物館

オンタリオ州ノースベイ市は1985年にディオンヌ家のオリジナルファームハウスを購入し、建物を丸ごとノースベイに移動させて「ディオンヌの五つ子博物館」をオープンさせた[33]。年々訪問客は減少し、2015年に一旦閉鎖された[34]。しかし2017年11月19日にノースベイのダウンタウンに移転することが決まった。博物館は2018年5月に再開される予定である[35]

大衆文化への影響

以下のような映画作品の中で五つ子の話題が取り上げられている。

マルクス兄弟が主演する『オペラは踊る』では、契約書にサインする時にドリフトウッドから複写の意味を知っているのかと聞かれたフィオレロが「もちろん、カナダの五つ子のことだ」と返答する場面がある[36]。また、『ダンボ』の挿入歌の一つ「こうのとりにご用心」の英語版の歌詞には、「五つ子と靴の女性を覚えておくんだ」という語が出てくる[37]

比較的最近では、実在したディオンヌ姉妹から着想を得て、排卵誘発剤がまだ開発されていなかった世界恐慌期にケベック州で奇跡的に出生した五つ子姉妹の最後の生存者の殺人事件を題材とするルイーズ・ペニーの小説『ハウ・ザ・ライト・ゲッツ・イン』(2013年)が刊行されている[38]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k Dennis Gaffney (2009年3月23日). “The Story of the Dionne Quintuplets” (英語). Public Broadcasting Service. http://www.pbs.org/wgbh/roadshow/fts/wichita_200803A12.html 2018年4月16日閲覧。 
  2. ^ The Dionne Quintuplets” (英語). Municipality of Callander. 2018年4月16日閲覧。
  3. ^ a b Dionne quintuplets” (英語). Encyclopædia Britannica. 2018年4月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f Mickey Maple. “Canadian History for Kids: Dionne Quintuplets” (英語). Canadian History for Kids. 2018年4月16日閲覧。
  5. ^ “Births: Final Data for 2013” (PDF). National Vital Statistics Reports (Centers for Disease Control and Prevention) 64 (1): 11. (2015-01-15). http://www.cdc.gov/nchs/data/nvsr/nvsr64/nvsr64_01.pdf 2018年4月16日閲覧。. 
  6. ^ Pamela Prindle Fierro (2014年4月16日). “General Information About Quintuplet Multiple Births” (英語). Verywell Family. 2018年4月16日閲覧。
  7. ^ Sarah Cooke (2007年8月17日). “Rare Identical Quadruplets Born” (英語). The Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/08/17/AR2007081700163.html 2018年4月16日閲覧。 
  8. ^ Merrill Denison (英語). Infant Industry: The Quintuplets. Harper's Magazine Condensed in Readers Digest 33 (200). p. 104-107 
  9. ^ a b Amy Wallace. “1.A Prelude to Forgetting Remembering the Dionne Quintuplets” (英語). Western University. 2018年4月16日閲覧。
  10. ^ A. J. Liebling. “A Patron of the Preemies” (英語). Neonatology. 2018年4月16日閲覧。
  11. ^ Laura Neilson. “Dionne Quintuplets: Miracle Births at the Height of the Depression” (英語). The Canadian Encyclopedia. 2018年4月16日閲覧。
  12. ^ “Dionne Quintuplets May Become Special Wards of King as Law Pends in Canadian Legislature” (英語). The Evening Independent. (1935年3月15日). http://news.google.com/newspapers?nid=950&dat=19350315&id=KvxPAAAAIBAJ&sjid=6FQDAAAAIBAJ&pg=2395,4069135 2018年4月16日閲覧。 
  13. ^ Ian Austen (2017年4月2日). “2 Survivors of Canada's First Quintuplet Clan Reluctantly Re-emerge” (英語). The New York Time. https://www.nytimes.com/2017/04/02/world/canada/ontario-dionne-quintuplets.html?hpw&rref=world&action=click&pgtype=Homepage&module=well-region&region=bottom-well&WT.nav=bottom-well 2018年4月16日閲覧。 
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関連項目

書籍

  • James Brough, Annette Dionne, Cécile Dionne, Marie Dionne, Yvonne Dionne (1965年) (英語). We Were Five: The Dionne Quintuplets' Story from Birth through Girlhood to Womanhood. Simon and Schuster. ASIN B0007DV0CM 
  • Jean-Yves Soucy, Annette Dionne, Cécile Dionne, Yvonne Dionne (1996年) (英語). Family Secrets: The Dionne Quintuplets' Autobiography. Stoddart. ISBN 978-0773758032 

外部リンク

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