「ポン (ゲーム)」の版間の差分
m編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
117行目: | 117行目: | ||
{{commons|Atari}} |
{{commons|Atari}} |
||
* [http://www.atarimuseum.com/ Atari History Museum(英語)] |
* [http://www.atarimuseum.com/ Atari History Museum(英語)] |
||
* [https://www.robert-matthees.de/ux/product-design/pong-owners-manual-1976.pdf Pong Owner's Manual, 1976] |
|||
* [http://www.klov.com/game_detail.php?letter=&game_id=9074 Killer List of Videogames(英語)] |
* [http://www.klov.com/game_detail.php?letter=&game_id=9074 Killer List of Videogames(英語)] |
||
* [http://pong.zumzum.net/ PONG!] Online Pong (Java!) |
* [http://pong.zumzum.net/ PONG!] Online Pong (Java!) |
2017年5月30日 (火) 09:21時点における版
ジャンル | テニスゲーム |
---|---|
対応機種 | アーケードゲーム |
開発元 | シジギ(Syzygy) |
発売元 | アタリ |
人数 | 2人 |
稼働時期 | 1972年11月 |
システム基板 | Transistor-transistor logic |
売上本数 | 約一万台、コピーゲームは全世界で約十万台 |
その他 | 世界で初めてヒットしたテレビゲーム |
『ポン』(PONG)は、ビデオ画面上に再現された卓球ゲームである。販売価格は24800円であった[1]。類似ゲームはそれ以前から制作されていたが、本稿では1972年11月にアタリより発表され、一般に広く知れ渡った最初のビデオゲームを扱う。類似ゲームは『Tennis for Two』と『オデッセイ』を参照。
ゲームシステム
通常のピンポンは2人のプレーヤーが卓球台の両側に立ちピンポン球を交互に打ち合う。このコンセプトに基づく『ポン』では2人のプレーヤーは「パドル」を操作して画面上を行き交う「ボール」を打ち合うこととなる。「パドル」が「ボール」に当たればボールは相手側に跳ね返っていき、パドルで跳ね返すことができなかった場合は相手の得点となり、15点先取した側が勝ちとなる。
ポンの歴史
オデッセイとの関係がある部分
1972年春、コンピュータゲームのアーケードゲームを狙い「コンピュータースペース」を出して失敗したノーラン・ブッシュネルは、カリフォルニア州バーリンゲームで実演展示していた『オデッセイ』の「テーブルテニス」を初めてプレイ、その後すぐに新会社「アタリ」を設立した。
アーケードゲームでドライビングゲームを作りたいと思っていたブッシュネルは、電子工学エンジニアのアラン・アルコーンを雇った(アルコーンのプロフィール等はアタリ参照)。だが自身の思い描くゲームがアルコーンには複雑すぎるのではと心配し、まずアルコーンに『オデッセイ』に類似したゲームを作らせた。しかしここでアルコーンが3ヶ月かけて作ったゲームは、ブッシュネルの説明を口頭で聞いた際、わからない所を自分で勝手に作ってみた事もあり、以下の違いが出来た。
オデッセイ | ポン | |
---|---|---|
キャラ | 全て正方形 | ラケットは縦線、ボールは小さな点 |
ラケット | 上下左右に動く | 上下だけに動く |
ボールの角度と速度 | 斜め45度で一定速度 | どんどん変わっていく |
音 | なし(試作品にはあった) | あり(ブッシュネルの要望により 手持ち部品の流用で2種類) |
点数表示 | なし | あり |
センターライン | 実線 | 点線 |
遊んだ感想(ブッシュネルだけでなく 発売後の皆の評価も) |
面白さはいまいち | とても面白い |
遊んでみたブッシュネルはこれを市場に売り出すことを決めたが、アルコーンに言わせると家庭用ではコストがかかる為、アーケードゲームで出す事にした[1]。名称については「ピンポン」(英語ではPing Pong、ピングポング)という呼称が既に特許を取られていた為、英語の物が跳ねる擬音で日本語の『ポン』に相当する「ポング」とした。名付け親はアルコーンとする説が有力である。
発売の2週間後、『オデッセイ』の発売元であるマグナボックスは『ポン』のことを知り、裁判で提訴、アタリは特許料として700,000ドルを支払うこととなった。なお他のオデッセイ側の詳細は『オデッセイ』を参照。
『オデッセイ』との関係がない部分
当時のアタリはアーケードゲームの開発業者に過ぎず、企業としての展望はなかった。ブッシュネルは娯楽企業に対してこの新ゲームのデモンストレーションを行なうが、実地試験を経験していなかったためほとんど相手にされなかった。
そのため、ピンボール会社のウィリアムスとバリー・ミッドウェイにアポを取っていたブッシュネルとアルコーンは、シカゴに向かう前に急遽、コイン投入口を取り付けたロケテスト用機械を準備した。テスト機はボックス型でなく、テレビ・電子レンジ状の型にまとめられ、オレンジと黒に塗られた筐体が作られた(現在、テスト機はアルコーンの所有品として、透明なケースに入れて保管されており、実物や写真が公開される場合、「所蔵:アラン・アルコーン」と明記されている)。ちなみに、テスト機および初期量産機の画面は、日立製の家庭用テレビを電気屋で買い、そのまま筐体にはめ込んでいた。
テスト機は最初にカリフォルニア州サニーベールの酒場「アンディ・キャップス」でロケテストされ、設置直後こそテスト機に注目しプレイした客は2人だけだったが、翌日には朝に客が酒場の開店を待って行列を作るほどの人気となった。やがて、酒場のオーナーからテスト機が故障したので対応するよう連絡を受けたアルコーンがテスト機を開けると、コイン入れとして設置しておいた牛乳パック(これについては「コンピュータースペース」も参照)が25セント硬貨であふれ返り、コイン投入口が詰まっていた。アルコーンはこの大成功をシカゴにいたブッシュネルに伝え、ブッシュネルは『ポン』を自分たちで製造することを決定した。
しかし売り込みに行っていた会社には、検討しますと言われたが、興味を持たせてしまったので、ブッシュネルは次の商談で「ナッチング社は『ポン』を没にしました」と嘘をつき、『ポン』を断念させた。ブッシュネルはこうして舌先三寸で、相手の決定を自分に有利な様に持っていくテクニックをよく使っていた。
生産数は、アタリが当初零細企業だったため、正式な記録が残っていないが、約8000 - 12000、間を取って約1万台だろうと考えられている。『ポン』は1974年まで生産され、アメリカでは1970年代の終わりまで、ヨーロッパでは1980年代の初めまで人気を博し、今日のゲーム機市場を形作った。なお、発売直後の増産や超人手不足については『ポン』以外のゲームにも関係してくる為、「アタリ」にまとめたので、そちらを参照。
『ポン』の亜流
アタリが出したゲーム
- ポンダブルス - 2対2でプレイする。
- スーパーポン - パドルが3つある。
- カドラポン - テレビ画面の四隅にパドルが1つずつあり、4人で対戦する。
- ワールドカップ - パドルが5つある。
- リバウンド - ボールが斜めに飛ぶのでなく、放物線を描いて落ちる。
- ドクター・ポン - 筐体に子供向けのイラストを入れたもの。
- テーブル・ポン - 『ポン』のテーブルタイプ。
- ホーム・ポン - 『ポン』の家庭用で、アタリ初の家庭用ゲーム。詳しくは左のリンク参照。
ちなみに『ポン』タイプ以外で初めてのゲームは、レバーで宇宙船を動かして進む『スペースレース』である。
- スヌーピーポン - 『ポン』の『ピーナッツ』関連筐体バージョン。
コピーゲーム
コピーゲームは既にエレメカ時代から登場、問題化していた。市場のラッシュの中、アタリは遅れることなく著作権と特許について申し立てを行ったが、『ポン』はコピーゲームも含めると、全世界で約10万台作られたと考えられている。ブッシュネルもコピーゲームに怒りを感じていたが、業務が多忙で対応する余裕が無く、アタリからの訴訟は無かった。それよりも「コピーゲームを作られるぐらいなら、コピーゲームを出す暇が無いほど、新しいオリジナルゲームを沢山出せばいい」というのがアタリの方針だった。
- ウィナー(ミッドウェイ) - 前述のブッシュネルの商談が縁で、唯一のライセンス生産となった。
- パドルバトル(アライドレジャー) - アタリよりも多くの台数を生産した。
- TVピンポン(シカゴコイン)
- パドルボール(ウィリアムス)
- テーブルテニス(ナッチング・アソシエーツ)
- 上記5社は以前からエレメカ、またはその後ビデオゲームを作った事がある会社である。
- ポントロン(セガ、後のセガ・インタラクティブ)
- エレポン(タイトー)
- 上記2ゲームは『ポン』が出た翌年の1973年7月に出ており、これが日本初のビデオゲームとなった。どちらが早いかについては、書類に書かれた日付や実際に出来上がった日付がドングリの背比べ状態で比較しようがなく、両社が同時に作ったという事が定説になっている。またこの他にもアタリからの輸入品や、個人の作ったコピーゲームが日本で稼動していたと言われている。
非常に単純なゲームのため、電子部品ではなくゼンマイと歯車など機械要素を使った実現例もある[1]。
参考文献
- NHKスペシャル 新・電子立国 第4巻 ビデオゲーム・巨富の攻防: ISBN 4-14-080274-X
- それは『ポン』から始まった:赤木真澄 アミューズメント通信社 ISBN 4-9902512-0-2 C3076
脚注
外部リンク
- Atari History Museum(英語)
- Pong Owner's Manual, 1976
- Killer List of Videogames(英語)
- PONG! Online Pong (Java!)