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'''ハインリヒ・ヘルト'''('''Heinrich Held'''、[[1868年]][[6月6日]] - [[1938年]][[8月4日]])は、[[ドイツ]]の政治家。[[ヴァイマル共和政]]期の[[バイエルン州]]首相。 |
'''ハインリヒ・ヘルト'''('''Heinrich Held'''、[[1868年]][[6月6日]] - [[1938年]][[8月4日]])は、[[ドイツ]]の政治家。[[ヴァイマル共和政]]期の[[バイエルン州]]首相。 |
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== 略歴 == |
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=== 生い立ち === |
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[[プロイセン王国]]の{{仮リンク|フンスリュック|de|Hunsrück}}・[[エアバッハ (フンスリュック)|エルバッハ]]に音楽家の農民ヨハネス・ヘルトの息子として生まれる。母はその妻スザンナ(旧姓カイザー)。[[ストラスブール|シュトラースブルク]]や[[ミュンヘン]]や[[ハイデルベルク]]の大学で法学を学び、卒業後の1896年にシュトラースブルクでジャーナリストになった。1899年にはハイデルベルクへ移り、バイエルンの新聞社で編集者を務めた。1906年から2つの新聞社の共同経営者になり、保守系カトリック労働運動の代弁者となった。 |
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=== 政治家 === |
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1907年に[[バイエルン王国]]議会 |
1907年に[[バイエルン王国]]議会議員に当選し、1933年まで務め、同時期に[[中央党 (ドイツ)|中央党]]バイエルン支部の創設に関わった。中央党内では左派に属し、経済を専門にしていた。急速に昇進して1914年には議会の中央党議員団の指導者となり、さらにその後、党の指導者となった。1917年にバイエルン枢密院のメンバーとなり、「枢密顧問官」の肩書を得て名声を高めた。 |
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1918年11月にバイエルンで王制が廃されると、中央党バイエルン支部から[[バイエルン人民党]]を創設した共同創設者の一人となった。1921年からドイツ・カトリック会議の議長となった |
1918年11月に[[ドイツ革命]]の影響でバイエルンで王制が廃されると、中央党バイエルン支部から[[バイエルン人民党]]を創設した共同創設者の一人となった。1921年からドイツ・カトリック会議の議長となった。 |
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=== バイエルン州首相 === |
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1924年7月に[[オイゲン・フォン・クニリング]]が辞職した後にバイエルン州首相に就任した。彼の政権はバイエルン人民党の他に[[ドイツ国家人民党]]や[[ドイツ人民党]]や{{仮リンク|バイエルン小作農連盟|de|Bauernbund}}などによって支えられていた。 |
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ヘルト政権の目的はバイエルン分離主義から離れてドイツ中央政府と和解することにあった。また、彼は教皇庁と[[コンコルダート]]を結んだ。[[1925年ドイツ大統領選挙]]の一次選挙に出馬したが、3.7%の得票率しか得られなかった。二次選挙ではヘルト率いるバイエルン人民党は中央党の[[ヴィルヘルム・マルクス]]ではなく保守主義者の[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]の方を支持している。 |
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ナチ党の政権獲得を防ぐために[[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト王太子]]を州委員に任じて独裁権を握らせる計画が浮上し、多くの政党から支持されていたが、ヘルトはためらい、その前に1933年1月30日、[[アドルフ・ヒトラー]]がヒンデンブルクにより首相に任命された。そして1933年3月9日にはナチ党幹部[[フランツ・フォン・エップ]]率いる[[突撃隊]]部隊によりヘルトのバイエルン州政府は解体された。軍に助けを求めて抵抗しようとしたが、軍から支援は拒否された。エップがバイエルン国家代理官の地位に就任してバイエルン州の実質的な権力を掌握した。首相職には[[ルートヴィヒ・ジーヴェルト]]が就任した。 |
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⚫ | 1930年のバイエルン州議会選挙で過半数割れを起こし、少数与党となった。同年、州産業大臣と州農業大臣を兼務し、1932年にこの二つの役職を合併して州経済大臣に就任した<ref name="Ministers of Bavaria">{{Wayback |date=20090729175341 |url=http://geocities.com/CapitolHill/Rotunda/2209/Bavaria.html |title=Ministers of Bavaria }}</ref>。彼は地方分権を求めて州の権利を主張していたので、1932年にドイツ首相[[フランツ・フォン・パーペン]]が[[プロイセン州]]首相[[オットー・ブラウン]]を罷免した際に、中央政府の州政府への違法な干渉と断じて激しく抗議した<ref>[http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,743972,00.html Time Magazine - ''Fair or Foul''] 11 July 1932</ref>。 |
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1938年に[[レーゲンスブルク]]で死去した。 |
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1932年、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]の政権獲得を防ぐために[[ループレヒト (バイエルン王太子)|ループレヒト王太子]]を州長官に任じて独裁権を握らせる計画が浮上した<ref>[http://books.google.com.au/books?id=rJNoVaft2PoC&pg=RA1-PA72&lpg=RA1-PA72&dq=Rupprecht+von+Bayern&source=web&ots=3tZzClSo1n&sig=5EBVt2lX628Feoh9gTDGZlPlR7s&hl=en Royals and the Reich: The Princes von Hessen in Nazi Germany] google book review, Page 72, author: [[Jonathan Petropoulos]], accessdate: 29 April 2008</ref><ref>{{BBKL|r/rupprecht_m_l_f|band=22|autor= Manfred Berger|artikel=Rupprecht, Maria Luitpold Ferdinand, Kronprinz von Bayern, Pfalzgraf bei Rhein, Herzog von Bayern, Franken und in Schwaben usw.|spalten=1173-1186}}</ref>。計画は多くの政党から支持されていたが、ヘルトは計画の実行を躊躇し、公表前の1933年1月30日、[[アドルフ・ヒトラー]]がヒンデンブルクにより首相に任命された<ref>[http://www.jacobite.ca/essays/ww2.htm The Royal Family, the Nazis, and the Second World War]</ref>。 |
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=== 失脚と死去 === |
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1933年3月9日にはナチ党幹部[[フランツ・フォン・エップ]]率いる[[突撃隊]]部隊により、ヘルトのバイエルン州政府は解体された。ヘルトは[[ヴァイマル共和国軍]]に助けを求めて抵抗しようとしたが、国軍から支援は拒否された<ref>[http://books.google.com.au/books?id=SZGd4niiMdsC&pg=PA261&lpg=PA261&dq=Heinrich+Held+&source=web&ots=DAD_oSNRrc&sig=uK3aQHxzNaLlFkpE3CLv8pPku_Y&hl=en A History of Modern Germany, 1800-2000] google book review, author: Martin Kitchen, Blackwell Publishing</ref>。州政府解体後、エップが[[国家弁務官|国家代理官]]に就任してバイエルン州の実質的な権力を掌握し、ヘルトの後任には[[ルートヴィヒ・ジーヴェルト]]が就任した。 |
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解任後、ヘルトは息子ヨーゼフが暮らす[[スイス]]・[[ルガーノ]]に逃亡し、後に[[レーゲンスブルク]]に居住した。1938年に同地で死去したが、その間、州首相としての年金はナチ党政権により停止され支給されなかった<ref>[http://www.grabendoerfer.de/web_gedenk/ Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten - Heinrich Held] (in German), accessed: 6 May 2008</ref>。また、もう一人の息子フィリップは[[ダッハウ強制収容所]]に最初に収容された[[政治犯]]の一人となった<ref>[http://www.grabendoerfer.de/web_gedenk/ Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten] (in German), accessed: 6 May 2008</ref>。 |
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== 参考文献 == |
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* [http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HeldHeinrich/index.html Website of the ''Deutsch Historische Museum'', Berlin - Biography of Heinrich Held] (in German) |
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* [http://www.grabendoerfer.de/web_gedenk/ Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten] (in German) |
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* [http://rzblx2.bibliothek.uni-regensburg.de/blo/boslview/boslview.php?seite=341&band=1 Universitätsbibliothek Regensburg - Bosls bayrische Biographie - Heinrich Held] (in German), author: Karl Bosl, publisher: Pustet, page 327 |
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== 脚注 == |
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2016年2月28日 (日) 03:44時点における版
ハインリヒ・ヘルト Heinrich Held | |
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生年月日 | 1868年6月6日 |
出生地 | プロイセン王国 フンスリュック・エルバッハ |
没年月日 | 1938年8月4日(70歳没) |
死没地 |
ドイツ国 バイエルン州 レーゲンスブルク |
前職 | ジャーナリスト |
所属政党 |
(中央党→) バイエルン人民党 |
在任期間 | 1924年 - 1933年 |
在任期間 | 1932年 - 1933年 |
在任期間 | 1930年 - 1932年 |
在任期間 | 1919年 - 1933年 |
在任期間 | 1907年 - 1919年 |
ハインリヒ・ヘルト(Heinrich Held、1868年6月6日 - 1938年8月4日)は、ドイツの政治家。ヴァイマル共和政期のバイエルン州首相。
略歴
生い立ち
プロイセン王国のフンスリュック・エルバッハに音楽家の農民ヨハネス・ヘルトの息子として生まれる。母はその妻スザンナ(旧姓カイザー)。シュトラースブルクやミュンヘンやハイデルベルクの大学で法学を学び、卒業後の1896年にシュトラースブルクでジャーナリストになった。1899年にはハイデルベルクへ移り、バイエルンの新聞社で編集者を務めた。1906年から2つの新聞社の共同経営者になり、保守系カトリック労働運動の代弁者となった。
政治家
1907年にバイエルン王国議会議員に当選し、1933年まで務め、同時期に中央党バイエルン支部の創設に関わった。中央党内では左派に属し、経済を専門にしていた。急速に昇進して1914年には議会の中央党議員団の指導者となり、さらにその後、党の指導者となった。1917年にバイエルン枢密院のメンバーとなり、「枢密顧問官」の肩書を得て名声を高めた。
1918年11月にドイツ革命の影響でバイエルンで王制が廃されると、中央党バイエルン支部からバイエルン人民党を創設した共同創設者の一人となった。1921年からドイツ・カトリック会議の議長となった。
バイエルン州首相
1924年7月にオイゲン・フォン・クニリングが辞職した後にバイエルン州首相に就任した。彼の政権はバイエルン人民党の他にドイツ国家人民党やドイツ人民党やバイエルン小作農連盟などによって支えられていた。
ヘルト政権の目的はバイエルン分離主義から離れてドイツ中央政府と和解することにあった。また、彼は教皇庁とコンコルダートを結んだ。1925年ドイツ大統領選挙の一次選挙に出馬したが、3.7%の得票率しか得られなかった。二次選挙ではヘルト率いるバイエルン人民党は中央党のヴィルヘルム・マルクスではなく保守主義者のパウル・フォン・ヒンデンブルクの方を支持している。
1930年のバイエルン州議会選挙で過半数割れを起こし、少数与党となった。同年、州産業大臣と州農業大臣を兼務し、1932年にこの二つの役職を合併して州経済大臣に就任した[1]。彼は地方分権を求めて州の権利を主張していたので、1932年にドイツ首相フランツ・フォン・パーペンがプロイセン州首相オットー・ブラウンを罷免した際に、中央政府の州政府への違法な干渉と断じて激しく抗議した[2]。
1932年、ナチ党の政権獲得を防ぐためにループレヒト王太子を州長官に任じて独裁権を握らせる計画が浮上した[3][4]。計画は多くの政党から支持されていたが、ヘルトは計画の実行を躊躇し、公表前の1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーがヒンデンブルクにより首相に任命された[5]。
失脚と死去
1933年3月9日にはナチ党幹部フランツ・フォン・エップ率いる突撃隊部隊により、ヘルトのバイエルン州政府は解体された。ヘルトはヴァイマル共和国軍に助けを求めて抵抗しようとしたが、国軍から支援は拒否された[6]。州政府解体後、エップが国家代理官に就任してバイエルン州の実質的な権力を掌握し、ヘルトの後任にはルートヴィヒ・ジーヴェルトが就任した。
解任後、ヘルトは息子ヨーゼフが暮らすスイス・ルガーノに逃亡し、後にレーゲンスブルクに居住した。1938年に同地で死去したが、その間、州首相としての年金はナチ党政権により停止され支給されなかった[7]。また、もう一人の息子フィリップはダッハウ強制収容所に最初に収容された政治犯の一人となった[8]。
参考文献
- Website of the Deutsch Historische Museum, Berlin - Biography of Heinrich Held (in German)
- Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten (in German)
- Universitätsbibliothek Regensburg - Bosls bayrische Biographie - Heinrich Held (in German), author: Karl Bosl, publisher: Pustet, page 327
脚注
- ^ Ministers of Bavaria - ウェイバックマシン(2009年7月29日アーカイブ分)
- ^ Time Magazine - Fair or Foul 11 July 1932
- ^ Royals and the Reich: The Princes von Hessen in Nazi Germany google book review, Page 72, author: Jonathan Petropoulos, accessdate: 29 April 2008
- ^ Manfred Berger: Rupprecht, Maria Luitpold Ferdinand, Kronprinz von Bayern, Pfalzgraf bei Rhein, Herzog von Bayern, Franken und in Schwaben usw.. In: Biographisch-Bibliographisches Kirchenlexikon (BBKL). Band 22, Bautz, Nordhausen 2003, ISBN 3-88309-133-2, Sp. 1173–1186.
- ^ The Royal Family, the Nazis, and the Second World War
- ^ A History of Modern Germany, 1800-2000 google book review, author: Martin Kitchen, Blackwell Publishing
- ^ Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten - Heinrich Held (in German), accessed: 6 May 2008
- ^ Opfer und Verfolgte des NS-Regimes aus bayrischen Parlamenten (in German), accessed: 6 May 2008
公職 | ||
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先代 オイゲン・フォン・クニリング |
バイエルン州首相 1924年 - 1933年 |
次代 ルートヴィヒ・ジーヴェルト |