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'''高砂丸'''(たかさごまる)は、かつて大阪商船(現:[[商船三井]])が所有・運航していた[[貨客船]]。
'''高砂丸'''(たかさごまる)
# 日本の商船の名前のひとつ。

# 1.のうち、かつて大阪商船(現:[[商船三井]])が所有・運航していた[[貨客船]]。[[太平洋戦争]]では[[病院船|特設病院船]]、戦争終結後は[[復員輸送艦|引揚船]]として運用された。本項で記述。
# 1.のうち、[[1859年]]に[[イギリス]]で建造された鉄製外輪船「デルタ」を{{和暦|1874}}に日本政府が購入して[[台湾出兵]]に使用。後に郵便汽船三菱会社に下付されて「高砂丸」と命名され、スクリュー船に改造される。[[日清戦争]]後の{{和暦|1898}}にアメリカ船主に売却され、「センテニアル」と改名。[[日露戦争]]末期の{{和暦|1905}}9月13日、[[密輸|密輸船]]として運用されていた際に[[宗谷海峡]]で拿捕されるが、拿捕が9月5日の[[ポーツマス条約]]調印後のため釈放されたが、アメリカに帰国の途中で消息を絶つ。その後、[[1913年]]に[[樺太]]北方で氷海に閉ざされているところをロシア人一行に発見されるが、以後の消息は不明。「デルタ」時代には、「[[スエズ運河]]を最初に通過したイギリス船」という栄誉を得ている<ref>[[#山高]]pp.60-62</ref>。
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== 概要 ==
== 概要 ==
文中、トン数表示のみの船舶は大阪商船の船舶である。
大阪商船の台湾航路船として、1937年[[三菱重工業長崎造船所]]で建造された。設計者は和辻春樹。

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大阪商船は{{和暦|1896}}に[[大阪市|大阪]]<ref group="注釈">後に[[神戸市|神戸]]に変更。</ref>と[[基隆]]間の航路を台湾総督府[[命令航路]]として定期航海を下命され、遅れて同区間の航路を命令航路として下命された[[日本郵船]]<ref group="注釈">{{和暦|1923}}から{{和暦|1939}}の間は[[近海郵船物流|近海郵船]]。</ref>との間で競争を繰り広げるが、大阪商船では、大型船の投入などで常に先手を打ってサービスの向上に努めた。[[大正|大正時代]]までは「[[笠戸丸]]」(6,209トン)や「[[亜米利加丸]]」(6,030トン)、「蓬莱丸」(9,205トン)など他の船会社や外国からの購入船で占められていたが、[[昭和|昭和時代]]に入り、台湾航路向けとして初めての新造船となる「[[高千穂丸]]」(8,154トン)が竣工する。しかし時代の趨勢とともに[[台湾]]の重要度が増し<ref>[[#野間]]p.97</ref>、「高千穂丸」を拡大改良<ref>[[#松井]]p.42</ref>した貨客船が投入される事となった。これが「高砂丸」である。

「高砂丸」は{{和暦|1937}}4月28日に[[三菱重工業長崎造船所]]で竣工する。大阪商船の主任造船技師だった[[和辻春樹]]は、「高千穂丸」に続いて客室部分の甲板の反りを廃止して極力水平に近づけ、居住性を高めた。その一方で、外観上は「高千穂丸」とは異なって[[流線型]]を多用するなど「美意識が潜んだデザイン」<ref name="d">[[#野間]]p.589</ref>で纏め上げられた。機関部も改良が加えられ、機械室の主復水器の配置方法や主軸受けの位置を変更してスペースの縮小と重量軽減に取り組んだ<ref name="d"/>。[[船舶工学#速度|シーマージン]]は30%程度に設定され、「少し[[石炭]]を余分に焚くと忽ち20ノットに増速した」<ref name="d"/>が、これは命令航路では到着時刻の厳守が規定されており<ref name="d"/>、荒天時の航海での遅れを取り戻すための措置だった<ref name="d"/>。

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1937年5月20日の処女航海以降、神戸~[[基隆港|基隆]]間に就航していたが、1941年海軍に徴用され[[病院船]]となり、戦後は引揚船として引揚げ輸送に従事。
1937年5月20日の処女航海以降、神戸~[[基隆港|基隆]]間に就航していたが、1941年海軍に徴用され[[病院船]]となり、戦後は引揚船として引揚げ輸送に従事。
1953年引揚げ完了後は係船となる。南米航路への転用が計画されていたが、石炭焚であったことがネックとなり、結局[[あるぜんちな丸]]を新造することが決定したことで1956年3月23日解体のため[[名村造船所]]に売却、大阪堺港にて解体された。
1953年引揚げ完了後は係船となる。南米航路への転用が計画されていたが、石炭焚であったことがネックとなり、結局[[あるぜんちな丸]]を新造することが決定したことで1956年3月23日解体のため[[名村造船所]]に売却、大阪堺港にて解体された。



==別の高砂丸==

*[[台湾出兵]]に参加した高砂丸という船がある。*高砂丸 TAKASAGO MARU (1860) 鉄製外輪汽船 1,230G/T 進水 1860._1,250HP 12.5kt
==脚注==
Thames Iron Works & Shipbuilding Co.,Blackwall,London建造。 
=== 注釈 ===
*1874(明7)[[日本政府]](東京)に売却、高砂丸 TAKASAGO MARU と改名→1875.9.15(明8)[[三菱汽船会社]](東京)に払下げ。上海でスクリュー船に改造→1898.1.28(明31)米国船主に売却、CENTENIALと改名→1905.9.13(明38)日露戦争中、宗谷海峡で日本海軍が拿捕。釈放後、米国へ帰航中に消息不明→1913(大2)樺太北方の氷海で発見されるが救助できず遺棄
<references group="注釈"/>
<ref>高砂丸http://homepage3.nifty.com/jpnships/meiji01/meiji01_yunyusen01.htm</ref>
=== 出典 ===
{{reflist|2}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所)
**Ref.{{Cite book|和書|author=C08050073100|title=昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一|page=15|ref=日本汽船名簿}}
* {{Cite book|和書|author=山高五郎|year=1981|title=図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)|publisher=至誠堂|ref=山高}}
* {{Cite book|和書|author=野間恒|coauthors=山田廸生|year=1991|title={{small|世界の艦船別冊}} 日本の客船1 {{small|1868~1945}}|publisher=海人社|isbn=4-905551-38-2|ref=日本の客船1}}
* {{Cite book|和書|author=松井邦夫|year=1995|title=日本・油槽船列伝|publisher=成山堂書店|isbn=4-425-31271-6|ref=松井(1)}}
* {{Cite book|和書|author=野間恒|year=2004|title=商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史|publisher=野間恒(私家版)|ref=野間}}
* {{Cite book|和書|author=林寛司(作表)|coauthors=戦前船舶研究会(資料提供)|year=2004|title=戦前船舶 第104号・特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿|publisher=戦前船舶研究会|ref=特設原簿}}
* {{Cite book|和書|author=松井邦夫|year=2006|title=日本商船・船名考|publisher=海文堂出版|isbn=4-303-12330-7|ref=松井(2)}}

* 船舶技術協会『船の科学』1979年9月号 第32巻第9号
* 船舶技術協会『船の科学』1979年9月号 第32巻第9号
* 海人社『世界の艦船』2001年12月号 No.590
* 海人社『世界の艦船』2001年12月号 No.590
* 野間恒『商船三井船隊史 1884-2009』2009年
* 野間恒『商船三井船隊史 1884-2009』2009年

==脚注==
<references/>





2012年1月27日 (金) 12:25時点における版

病院船時の高砂丸
船歴
起工 1936年6月9日[1]
進水 1936年12月1日[2]
竣工 1937年4月28日[2]
その後 1956年3月23日に売却後、解体[1]
主要目
総トン数 9,347 トン[3]
9,315 トン[1]
載貨重量トン数 5,997 トン[3]
全長 142.09 m[3]
垂線間長 139.99 m[1]
全幅 18.50 m[3]
型深 11.60 m[3]
吃水 7.524 m(満載平均)[3]
4.485 m(空艙平均)[3]
主機 三菱ツェリー式二段減速装置付蒸気タービン 2基2軸[3]
出力 12,641馬力(最大)[3]
9,500馬力[3]/11,000馬力[1](計画)
航海速力 15.34ノット[1]
16ノット[3]
最高速力 20.15ノット[3]
船客定員 計 901名[1]/958名[3]
乗員 187名[3]

高砂丸(たかさごまる)とは

  1. 日本の商船の名前のひとつ。
  2. 1.のうち、かつて大阪商船(現:商船三井)が所有・運航していた貨客船太平洋戦争では特設病院船、戦争終結後は引揚船として運用された。本項で記述。
  3. 1.のうち、1859年イギリスで建造された鉄製外輪船「デルタ」を1874年(明治7年)に日本政府が購入して台湾出兵に使用。後に郵便汽船三菱会社に下付されて「高砂丸」と命名され、スクリュー船に改造される。日清戦争後の1898年(明治31年)にアメリカ船主に売却され、「センテニアル」と改名。日露戦争末期の1905年(明治38年)9月13日、密輸船として運用されていた際に宗谷海峡で拿捕されるが、拿捕が9月5日のポーツマス条約調印後のため釈放されたが、アメリカに帰国の途中で消息を絶つ。その後、1913年樺太北方で氷海に閉ざされているところをロシア人一行に発見されるが、以後の消息は不明。「デルタ」時代には、「スエズ運河を最初に通過したイギリス船」という栄誉を得ている[4]
  4. 1.のうち、日本海洋漁業が所有していた275トンのトロール船日中戦争から太平洋戦争にかけて特設掃海艇として徴傭され、1944年(昭和19年)9月24日にパラオマラカル島沖で沈没[2]

概要

文中、トン数表示のみの船舶は大阪商船の船舶である。

大阪商船は1896年(明治29年)に大阪[注釈 1]基隆間の航路を台湾総督府命令航路として定期航海を下命され、遅れて同区間の航路を命令航路として下命された日本郵船[注釈 2]との間で競争を繰り広げるが、大阪商船では、大型船の投入などで常に先手を打ってサービスの向上に努めた。大正時代までは「笠戸丸」(6,209トン)や「亜米利加丸」(6,030トン)、「蓬莱丸」(9,205トン)など他の船会社や外国からの購入船で占められていたが、昭和時代に入り、台湾航路向けとして初めての新造船となる「高千穂丸」(8,154トン)が竣工する。しかし時代の趨勢とともに台湾の重要度が増し[5]、「高千穂丸」を拡大改良[6]した貨客船が投入される事となった。これが「高砂丸」である。

「高砂丸」は1937年(昭和12年)4月28日に三菱重工業長崎造船所で竣工する。大阪商船の主任造船技師だった和辻春樹は、「高千穂丸」に続いて客室部分の甲板の反りを廃止して極力水平に近づけ、居住性を高めた。その一方で、外観上は「高千穂丸」とは異なって流線型を多用するなど「美意識が潜んだデザイン」[7]で纏め上げられた。機関部も改良が加えられ、機械室の主復水器の配置方法や主軸受けの位置を変更してスペースの縮小と重量軽減に取り組んだ[7]シーマージンは30%程度に設定され、「少し石炭を余分に焚くと忽ち20ノットに増速した」[7]が、これは命令航路では到着時刻の厳守が規定されており[7]、荒天時の航海での遅れを取り戻すための措置だった[7]

1937年5月20日の処女航海以降、神戸~基隆間に就航していたが、1941年海軍に徴用され病院船となり、戦後は引揚船として引揚げ輸送に従事。 1953年引揚げ完了後は係船となる。南米航路への転用が計画されていたが、石炭焚であったことがネックとなり、結局あるぜんちな丸を新造することが決定したことで1956年3月23日解体のため名村造船所に売却、大阪堺港にて解体された。


脚注

注釈

  1. ^ 後に神戸に変更。
  2. ^ 1923年(大正12年)から1939年(昭和14年)の間は近海郵船

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j なつかしい日本の汽船 大阪商船の所有船舶 高砂丸”. 長澤文雄. 2012年1月27日閲覧。
  2. ^ a b c #特設原簿p.109
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q #日本汽船名簿
  4. ^ #山高pp.60-62
  5. ^ #野間p.97
  6. ^ #松井p.42
  7. ^ a b c d e #野間p.589

参考文献

  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050073100『昭和十四年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、15頁。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868~1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2 
  • 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6 
  • 野間恒『商船が語る太平洋戦争 商船三井戦時船史』野間恒(私家版)、2004年。 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)『戦前船舶 第104号・特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿』戦前船舶研究会、2004年。 
  • 松井邦夫『日本商船・船名考』海文堂出版、2006年。ISBN 4-303-12330-7 
  • 船舶技術協会『船の科学』1979年9月号 第32巻第9号
  • 海人社『世界の艦船』2001年12月号 No.590
  • 野間恒『商船三井船隊史 1884-2009』2009年