高島平三郎

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高島 平三郎
人物情報
生誕 (1865-11-18) 1865年11月18日
日本の旗 日本江戸
死没 1946年2月15日(1946-02-15)(80歳)
出身校 <広島県広島師範学校福山分校
子供 高島文雄(長男)
学問
研究分野 心理学教育学
研究機関 東洋大学
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高島平三郎
高島平三郎

高島 平三郎(たかしま へいざぶろう、1865年11月18日慶応元年10月1日) - 1946年2月15日)は、日本教育者心理学者[1]体育学者[2]社会教育活動家で、東洋大学学長などを務めた。号は蜻州、字は士信[3]

経歴

備後福山藩士であった高島賢斎の三男として、幕末の江戸・西片町の福山藩邸に生まれた[3]1868年福山へ移り、1872年に藩校誠之館に学び、1873年には西町上小学校に入学して、1877年に卒業した[3]

1878年広島県広島師範学校福山分校に入学し、1880年には15歳で西町上小学校教員となり、さらに1881年以降は神村小学校須江分校、松永小学校、金江町金見小学校を務め、1884年から金江小学校校長を務めた[3]1887年3月に広島県師範学校訓導・助教に転じたが、同年10月には東京高等師範学校附属小学校教授掛補助となって上京し、1888年から学習院の教員となった[3]。次いで1896年から1898年には長野県師範学校に勤めたが、その後東京に戻っていくつかの教職を経て、1901年11月に日本体育会体操学校(日本体育大学の前身)校長となり、1903年(ないし1897年[2])に日本女子大学校(日本女子大学の前身)教授となった[3]。この間に、独学で心理学児童学を学び[1]、西方町・私立女子高等学園校長、立正高等女学校(東京立正中学校・高等学校の前身)校長などを兼務し[3]、さらに日蓮宗大学(立正大学の前身)教授、東洋大学教授を兼ねた[2][3]1944年11月から1945年7月まで、東洋大学第13代学長を務めた[3][4][5]

研究内容・業績

児童心理学にもとづいた教育を提唱して、教科書の作成などにも取り組み、体育学の構築に大きく寄与した[2]

受賞・栄典

  • 1928年:教育功労者表彰を受け、勲五等瑞宝章を受章した[3]

家族・親族

脚注

  1. ^ a b デジタル版 日本人名大辞典+Plus『高島平三郎』 - コトバンク
  2. ^ a b c d 20世紀日本人名事典『高島平三郎』 - コトバンク
  3. ^ a b c d e f g h i j 高島平三郎 たかしま・へいざぶろう 教育者、心理学者、著述家”. 福山誠之館同窓会. 2016年5月26日閲覧。
  4. ^ 同じく社会教育家として著名で、同時期に東洋大学に関係し、前後して学長を務めた高嶋米峰とは、当時からしばしば混同されることがあったが、両者の関係は良好であったという
  5. ^ 坪内祐三「高島平三郎」『20世紀ニッポン異能・偉才100人』朝日新聞社、1993年11月5日、192-193頁。 
  6. ^ a b 『人事興信録 第14版 下』、タ109頁。
  7. ^ a b c 『閨閥』、304-305頁。
  8. ^ a b c 『門閥』、262-263頁。

参考文献

外部リンク