青空千夜・一夜

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青空千夜・一夜
メンバー 青空 千夜(本名・酒井 義人)
青空 一夜(本名・小板橋 喜八郎)
結成年 1954年
解散年 1991年(千夜の死去に伴う)
活動時期 1954年 - 1991年
師匠 コロムビア・トップ・ライト
青空一門
出会い 歌謡ショーの司会
芸種 漫才
過去の代表番組 やじうま寄席
受賞歴
第7回NHK漫才コンクール優勝(1959年
芸術祭優秀賞(1969年
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青空千夜・一夜(あおぞら せんや・いちや)は、日本漫才コンビ

メンバー

概要

1954年コロムビア・トップ・ライト青空一門)門下の、歌謡ショー司会者同士で結成。小太りで黒縁眼鏡の千夜と、大柄で筋肉質な一夜の、凸凹コンビ。元々両者とも漫才師になる心算はなく、千夜は炭坑夫出身、一夜は自衛隊中央音楽隊出身で、共に歌手志望だった。千夜は一夜と組む前、1年間程別の相方と漫才コンビを組んでいた。

説教口調の一夜が8割方喋り、千夜が茶化されつつ相槌を打つ、ボケ・ツッコミの役割分担がはっきりしたスタイルで、「(小林)一茶かホイ」「あの本この本」等のとぼけたネタで人気者になる。1959年第7回NHK漫才コンクール優勝。1966年「サンテ10人抜きのど自慢」の司会者、1967年には『歌謡ヒットアルバム』『ヒット・スコープ』の司会でメディアでも売れた。1969年にNHKホールの「NHK東西漫才大会」で遠藤佳三作『マイホーム作戦』により芸術祭優秀賞受賞。1971年に漫才協団に新設された第1回の真打に昇進した。

1979年、慰問活動などの功績により交通栄誉章を授与。1980年頃、一夜は漫才協団副理事長に選出される。

長らく堅実な活躍を続けてきたが、1989年秋、千夜が腸の不調を訴え入院。癌が見つかり、2年にわたる手術と治療を受けることとなる。幸い治療が成功し、体調と相談しながら舞台に上がっていたが、1991年の春に再び不調を訴え、検査をしたところ、肝臓がんが発覚。休業して治療に専念したものの、同年の5月に入るや、急速に病状が悪化、61歳の若さで死去。初孫が生まれる予定で無念としてメディアに取り上げられたほか、師匠のトップは葬儀で号泣をした。

コンビ消滅後も、一夜はピンで講演、司会業等で舞台を立ち続ける傍ら、漫才協団理事長を務め、評判になるほど精力的に活動していたが、1996年に急性肺炎で死去した。

一夜は「覆面太郎」名義で「これが男だ/泣くな弟」(1963年7月)をリリースしているが、ヴォーカルに過度のエコーが掛けられているため、一聴しただけでは一夜の歌唱とは判別し難い。

弟子には青空一歩・三歩などがいる。

レコード

  • これが男だ(青空一夜)(覆面太郎名義、1963年 SAS-45 日本コロムビア)[1]
  • 暁に祈る-青空一夜の愛唱歌集-(青空一夜)(1970年 ALS-4488 日本コロムビア)
  • 日本歌謡史 第10集 GES-3038 日本コロムビア

青空一夜 VA 加藤隼戦闘隊 収録 71年

  • 若きを晒す三十年(青空一夜) / 飯島町の夜

(青空千夜) (PES-7555 日本コロムビア)

  • 馬友/タイトルくずし (青空一夜) (KA-2012)徳間 81年
  • 忘れ酒(青空千夜)(1983年 3X-711 トリオ)
  • 忘れ酒/北アルプスの見える町(青空千夜)(HA-1014 HGレコード)

出演番組

映画

参考資料

喜利彦山人 (2020年4月14日). “青空千夜・一夜”. tokyomanzai0408.com. 2020年6月30日閲覧。

脚注

参考文献

  • 『東宝特撮映画全史』監修 田中友幸東宝出版事業室、1983年12月10日。ISBN 4-924609-00-5 

外部リンク