長州征討
長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、1860年代に、江戸幕府と毛利氏長州藩の間で2次にわたって行われた戦いである。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。
第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の4方から攻めたため、長州側では四境戦争と呼ばれる。第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎であることが知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力がほぼ無くなる結果を招いた[1]。そのため、この敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けたとする資料も見られる。
第一次長州征討
長州藩は尊皇攘夷・公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。しかし1863年(文久3年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変により京より追放される。1864年(元治元年)には藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事進攻する禁門の変が起こると、朝廷は京都御所へ向かって発砲を行ったことを理由に長州藩を朝敵とし、幕府に対して長州征討の勅命を下す。幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂し、保守派(俗論派)が政権を握る。征長総督参謀の西郷隆盛は、禁門の変の責任者である三家老(国司信濃・益田右衛門介・福原越後)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、藩庁はこれに従い恭順を決定する。幕府側はこの処置に不満であったが、12月には総督により撤兵令が発せられる。
第二次長州征討
1865年(慶応元年)、長州藩では松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して保守派を打倒するクーデターを起し、倒幕派政権を成立させた(元治の内乱)。高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。また、長防士民合議書を36万部印刷し、士農工商隔てなく領内各戸に配布することで領民を一致団結させた。
14代将軍徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。四境戦争とも呼ばれている戦争であるが、幕府は当初5方面から長州へ攻め入る計画だった。しかし萩口を命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。そのため萩口から長州を攻めることができず、4方から攻めることになった。幕府は大目付永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。
1866年(慶応2年)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、13日には芸州口・小瀬川口、16日には石州口、17日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。
- 大島口では、幕府陸軍の洋式歩兵隊と松山藩が担当した。宇和島藩は幕府の出兵命令を拒んだ。長州側は戦力分散を避けるため大島を重要視しておらず大島守備兵は地元民で構成された少数の練度の低い兵であった。征討軍は守備兵を容易に退け大島へ上陸・占領を果たした。ところが占領した集落で松山藩兵が住民に暴行・略奪・虐殺を行った惨状の結果、大島住民の敵意と長州藩兵の士気を高め、同時に奪還論が強まり長州上層部は大島放棄から大島奪還に方針転換。小倉口を担当する高杉晋作や本土防衛と芸州口の対処のため柳井に駐留していた世良修蔵が大島奪還の為に来援する。幕府海軍と高杉率いる艦隊が戦い、夜間奇襲戦法により幕府海軍は敗走した。その後、世良修蔵指揮下の第二奇兵隊らが大島の奪還を果たすも、島内に逃げ散った幕府軍残党の掃討が終戦まで続く[2]。
- 芸州口では、長州藩および岩国藩と、幕府歩兵隊や紀州藩兵などとの戦闘が行われる。彦根藩と高田藩が小瀬川であっけなく壊滅したが、幕府歩兵隊と紀州藩兵が両藩に代わって戦闘に入ると、幕府・紀州藩側が押し気味ながらも膠着状況に陥る。また芸州藩は幕府の出兵命令を拒んだ。
- 石州口では、大村が指揮し(指揮役は清末藩主・毛利元純)、中立的立場を取った津和野藩を通過して徳川慶喜の実弟・松平武聰が藩主であった浜田藩へ侵攻し、18日に浜田城を陥落させる。明治まで浜田城と天領だった石見銀山は長州が制圧した。
- 小倉口では、総督・小笠原長行が指揮する九州諸藩と高杉晋作、山縣有朋ら率いる長州藩との戦闘(小倉戦争)が関門海峡をはさんで数度行われたが、小笠原の指揮はよろしきを得ず、優勢な海軍力を有しながら渡海侵攻を躊躇している間に6月17日に長州勢の田野浦上陸を、7月2日には大里上陸を許して戦闘の主導権を奪われ、その後も諸藩軍・幕府歩兵隊とも拱手傍観の体で小倉藩が単独抗戦を強いられる状態だった。また、佐賀藩は出兵を拒んだ。7月下旬の赤坂・鳥越の戦い(現在の北九州市立桜丘小学校付近)では肥後藩細川家(元・小倉城主)の軍が参戦し、長州勢を圧倒する戦いを見せた。しかし依然として小笠原総督の消極的姿勢は改まらなかったことから、肥後藩細川家を含む諸藩は一斉に撤兵し、小笠原自身も将軍家茂の薨去を理由に戦線を離脱した。孤立した小倉藩は8月1日小倉城に火を放って香春に退却した。その後、小倉藩は家老・島村志津摩らの指導により軍を再編して粘り強く長州藩への抵抗を続け、戦闘は長期化してゆくこととなるが、これで事実上幕府軍の全面敗北に終わる。
戦いの長期化に備えて各藩が兵糧米を備蓄した事によって米価が暴騰し、全国各地で一揆や打ちこわしが起こる原因となった(世直し一揆)。
徳川慶喜は大討込と称して、自ら出陣して巻き返すことを宣言したが、小倉陥落の報に衝撃を受けてこれを中止し、家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の御沙汰書を発してもらう。また慶喜の意を受けた勝海舟と長州の広沢真臣・井上馨が9月2日に宮島で会談した結果、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息した。なお、徳川慶喜は停戦の直後から、フランスの支援を受けて旧式化が明らかとなった幕府陸軍の軍制改革に着手している(幕府陸軍#慶応の軍制改革を参照)。
朝廷の停戦の勅許と幕府・長州間の停戦合意成立にもかかわらず、小倉方面では長州藩は小倉藩領への侵攻を緩めず、戦闘は終息しなかった。この長州藩の違約に対し、幕府には停戦の履行を迫る力はなく、小倉藩は独自に長州藩への抵抗・反撃を強力に展開した。10月に入り、長州藩は停戦の成立した他戦線の兵力を小倉方面に集中して攻勢を強め、企救郡南部の小倉藩の防衛拠点の多くが陥落するに及んで小倉・長州両藩間の停戦交渉が始められ、1867年(慶応3年)1月にようやく両藩の和約が成立している。この和約の条件により、小倉藩領のうち企救郡は長州藩の預りとされ、1869年(明治2年)7月に企救郡が日田県の管轄に移されるまでこの状態が続くこととなった。
脚注
- ^ この戦訓から、西郷隆盛は幕府に戦いを挑んで勝つ確信を持ち、かつ幕府の戦力は歩兵以外は役に立たないと判断した。以後の戊辰戦争まで続く幕府軍との戦いにおける戦力の根拠を、自軍1に対し幕府軍10と設定したほど幕府側戦力を非常に小さく見積ることとなった。(「史談会速記録」第29巻)
- ^ 大島での戦闘がほぼ終息した後の11月17日に松山藩から大島に陳謝の使者が訪れ、藩兵の行為に対する松平隠岐守の陳謝の口上を述べている。
関連書籍
- 野口武彦『長州戦争 幕府瓦解への岐路』(中公新書、2006年) ISBN 4-12-101840-0
- 久住真也『長州戦争と徳川将軍 幕末期畿内の政治空間』(岩田書院、2005年) ISBN 4-87294-405-4
- 白石壽『小倉藩家老 島村志津摩』(海鳥社、2001年)