長井道利
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 元亀2年8月28日(1571年9月17日) |
別名 | 隼人佐 |
戒名 | 徳翁 |
主君 | 斎藤道三→義龍→龍興→足利義昭 |
氏族 | 長井氏(美濃斎藤氏) |
父母 |
父:長井長広?(長井利隆か斎藤道三とも) 養父:長井直利? |
兄弟 | 斎藤道三?、長井道利 |
妻 | 東常慶の娘(遠藤慶隆の母) |
子 | 道勝、頼次、時利 |
長井 道利(ながい みちとし)は、戦国時代の武将。斎藤氏家臣。出自は長井長広の子(美濃国諸旧記)、長井利隆の子(美濃明細記)、斎藤道三の弟(武家事記)と諸説ありはっきりしない[1]。道三の若いころの子で、義龍が生まれてから庶子扱いになったとも言う(横山住雄『斎藤道三』)[2]。 妻は遠藤慶隆の母(東常慶の娘)。 子に井上道勝、井上頼次、井上時利。美濃関城主。通称は隼人佐、法名は徳翁。
斎藤道三・義龍・龍興の斎藤家3代に仕えた重臣で、美濃可児郡・中美濃に勢力を築き、対織田戦で活躍した。
生涯
初め稲葉山城主斎藤道三に仕えたが、次第に道三とその嫡男義龍が不仲になると、弘治元年(1555年)、義龍に接近して、道三の寵愛する義龍の弟孫四郎、喜平次らの暗殺を提言し、義龍と共に2人を謀殺した。弘治2年(1556年)の長良川の戦いでは子の道勝と共に義龍側に付き、道三を討ち果たしてそのまま義龍に仕えるも、次第に義龍から危険視され、遠ざけられた。永禄4年(1561年)年の義龍死後はその子龍興に家老として仕えた。
永禄5年(1561年)に郡上郡八幡城主の遠藤盛数が死去し、子の慶隆が13歳で後を継ぐと[3]、危機を憂慮した慶隆の老臣たちの決定で、道利は盛数の未亡人(慶隆の母)と結婚し、慶隆の後見人となった[4]。
永禄7年(1564年)、竹中重治の稲葉山城奪取に乗じて郡上木越城主遠藤胤俊が八幡城を攻め取り、慶俊は苅安城に篭もって対戦した。龍興が稲葉山城を取り返すと、翌永禄8年(1565年)に道利は苅安城へ援軍を送り、胤俊に城を返させた[5]。
顔戸八幡神社(現御嵩町)の棟札によれば、道利は永禄8年(1565年)4月時点で、少なくとも可児・加茂地方を龍興の代官として支配しており、金山城も支配下にあったと考えられる[6]。関城主というより、金山城を本拠として斎藤政権の東部方面軍を指揮しており、関は副次的な砦であったと見る説もある[2]。
道三の娘婿である尾張の織田信長が美濃攻略を始め、永禄8年(1565年)夏に木下秀吉が鵜沼城へ攻め寄せると、道利は兵300で秀吉を攻撃したが、木下秀長に側面を突かれて秀吉を逃した[2]。同年9月には、斎藤方の堂洞城主岸信周と共に、織田側に寝返った佐藤忠能の居城加治田城奪取に乗り出すが、堂洞合戦で信周が討ち死にしたため、居城の関城に篭城するも、織田方の斎藤利治(長龍)によって攻め落とされた。
その後も継子の遠藤慶隆らと共に信長に抵抗するが、永禄10年(1567年)、稲葉山城が陥落したため、龍興と共に伊勢に逃れ(龍興と決別し、浪人となったともいう)、元亀元年(1570年)に長島一向一揆に一揆側に組して敵対を続けた。その後、信長と不和となっていた15代将軍足利義昭に仕え、元亀2年(1571年)8月28日に摂津白井河原の戦いで和田惟政の援軍として出陣して討死した。一説には、天正元年(1573年)に越前刀根山で主君龍興と共に討死にした(刀根坂の戦い)[2]、信長の稲葉山城攻めの時点で逐電または死去したともいわれる。
その後、子の道勝、頼次、時利らは姓を井上と改め、織田信長、次いで豊臣秀吉に仕えた。
テレビドラマ
脚注
- ^ 「関城主長井隼人佐」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1996年、839 - 840頁。
- ^ a b c d 「長井隼人佐と関」『新修 関市史 通史編 自然・原始・古代・中世』関市、1996年、792 - 794頁。
- ^ 「遠藤盛数」『郡上八幡町史』 上巻、岐阜県郡上郡八幡町長 武藤互郎、1960年、201頁。
- ^ 「遠藤慶隆」『郡上八幡町史』 上巻、岐阜県郡上郡八幡町長 武藤互郎、1960年、201 - 202頁。
- ^ 「八幡城の変」『郡上八幡町史』 上巻、岐阜県郡上郡八幡町長 武藤互郎、1960年、202頁。
- ^ 「関城主長居隼人佐郷戸八幡神社を再建す」『兼山町史』岐阜県可児郡兼山町、1972年、77 - 79頁。
関連項目