コンテンツにスキップ

金性洙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Luckas-bot (会話 | 投稿記録) による 2012年5月13日 (日) 07:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: pl:Kim Seong-su)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

Template:Cleanup

金性洙
김성수
大韓民国の旗 大韓民国副大統領
任期
1951年5月29日 – 1952年5月14日
大統領李承晩
前任者李始栄
後任者咸台永
個人情報
生誕1891年10月11日
大韓帝国全羅北道高敞郡富安面
死没 (1955-02-18) 1955年2月18日(63歳没)
大韓民国の旗 韓国ソウル特別市
国籍大韓帝国大日本帝国大韓民国
政党韓国民主党民主国民党民主党
配偶者高光錫, 李亜珠
出身校正則英語学校錦城学校尋常中学校早稲田大学
宗教儒教宋明理学)→プロテスタントカトリック教会
公式サイト仁村紀念館-Inchon museum &library
金性洙
各種表記
ハングル 김성수
漢字 金性洙
発音: キム・ソンス
ローマ字 Kim Sung-soo
テンプレートを表示

金 性洙 (キム・ソンス、朝鮮語:김성수、 1891年10月11日 - 1955年2月18日)は、日本統治時代の朝鮮の実業家、独立運動家。大韓民国政治家教育者、言論人。東亜日報高麗大学校韓国民主党の設立者としても知られる。独立のためには実力の養成が必要だとして、朝鮮人の立場を代弁するメディアとして東亜日報を、人材の育成を目的に中央高等学校高麗大学校を設立した。実業家としても、京城紡織を中心に綿紡績・ナイロン生産に従事し、朝鮮国内のみならず満州にまで事業範囲を伸ばした。朝鮮総督府で日本の名前に変更するとしたが、最後まで抵抗した。1951年5月 - 1952年8月 第2任大韓民国の副統領は判錫(パンソク、판석)、は「仁村」(インチョン、인촌)。

来歴

東亜日報社屋内に建つ金性洙像

全羅北道高敞郡富安面に生まれる。正則英語学校錦城学校尋常中学校を経て早稲田大学政治経済学部を卒業し、帰国して教職を務める等した後、1919年に家業の紡績業を近代資本主義的会社である京城紡織として改組する。

1920年には東亜日報を設立し、1932年には財政難となった普成専門学校を引き受け、今日の高麗大学校を設立した。

終戦後の1945年9月8日に、朝鮮人民共和国の内閣が発表され、文教部長に任命された。1947年アメリカトルーマン大統領が、 トルーマン・ドクトリンを発表すると、当時韓民党主席総務だった金性洙は、トルーマンに対し賛辞を示す無線電報を送った。

金性洙は「金性洙系列」と呼称される集団を形成し、日本留学中より懇意にしていた宋鎮禹を伴い、以降も白寛洙張徳秀等とも近い関係を維持した。一方では、周囲の有能な若い知識人たちに財政支援をする等の活動も行っていた。結局、彼はこのような力を土台にして、人心を掌握し、独立以後代表的な右翼政党だった韓民党を創党する事に成功した。これに伴い、宋鎮禹や白寛洙、張徳秀等は、韓民党の重要な役職に就く事となった。

金性洙の特徴は、この時期の他の大物政治家と違い、自ら表舞台に出る事がなかった、という点にある。宋鎮禹が暗殺された後、1948年に韓民党主席総務を務めた事と、1951年5月から1年間、李承晩大統領の引きにより、副大統領職を引き受けた事を除き、決して表舞台に出る事はなかった。

また、独立後の韓国において、政治家の殆どがキリスト教(主にカトリック)、もしくは仏教などに関連する宗教団体と提携して政治活動を展開していた、という時代だったにも関わらず、金九(金九自身はクリスチャンだった)と並んで、いずれの宗教団体からも援助を受けていなかった数少ない政治家の一人だったことでも知られている。

評価と批判

日本統治時代に、企業を運営して富を蓄積し、この過程で親日行為をしたという嫌疑で、2002年に発表された親日派708人名簿と、2005年に民族問題研究所が整理した親日派リストに含まれている。しかし, この部分にも反論があって論難になっている.

関連項目

外部リンク

先代
李始栄
大韓民国の副統領
第2代: 1951年5月 - 1952年8月
次代
咸台永