賀茂真淵
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賀茂 真淵(かものまぶち、元禄10年3月4日(1697年4月24日) - 明和6年10月30日(1769年11月27日)は、江戸時代の国学者、歌人。通称三四。真淵は出生地の敷智(ふち)郡にちなんだ雅号で、淵満(ふちまろ)とも称した[1]。
生涯
真淵は元禄10年(1697年)遠江国敷智郡浜松庄伊庭村(浜松市)[1]に岡部政信の三男[2]として生まれた。岡部家は賀茂神社の末社の神職を代々務める旧家で[1]、父政信は分家筋で農を業とした[* 1]。
宝永4年(1707年)、10歳のときに杉浦国頭(くにあきら)のもとで手習いを受ける[1][* 2]。国頭は江戸の国学者荷田春満の弟子[3]で、春満の姪真崎(まさき)[1]を妻とし浜松で私塾を開いていた。真淵は享保8年[4](1723年)に結婚する[* 3]が翌年に妻を亡くし[5]、翌享保10年には浜松宿脇本陣[6]梅谷(うめや)家の養子になる[7]。30歳をすぎたころ[1][* 4]、家を捨てて京都に移り荷田春満を師として学んだ。元文元年(1736年)に春満が死去する[8]と浜松へ戻り、梅谷家に養子を迎える[要出典]。翌1737年[1][* 5]には江戸に移り、師として遇せられ国学を講じた[* 6]。延享3年(1746年)、50歳となっていた真淵は御三卿田安徳川家の和学御用掛となって徳川宗武に仕えた[9]。
宝暦13年(1763年)、伊勢神宮の旅の途中伊勢松阪の旅籠に本居宣長が訪れる。宣長はその夜、真淵から生涯一度限りの教えを受けた。この話は「松阪の一夜」として知られる。宣長はのちに入門し、以後文通(『万葉集問目』)が続いた。
江戸の住居跡は賀茂真淵県居の跡として東京都中央区(日本橋久松町9先)に説明書きが立っている。また、墓は品川の東海寺大山墓地(東京都品川区北品川三丁目)にある。浜松の生家の側には「賀茂真淵記念館」(静岡県浜松市中区東伊場一丁目22-2)がある。
靖国神社の第2代宮司をつとめた賀茂水穂はその子孫といわれる。
人物
真淵は荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。荷田春満、本居宣長、平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされ、その門流を「県居(あがたい)学派」、あるいは「県門(けんもん)」と称した。弟子の加藤千蔭の伝えるところによれば「外見は普通の人とかなり異なっており、ややもすると明敏さに欠ける頭の回転の鈍い人とも見受けられそうだったが、時々彼の言葉には日本人の真の心が突如として迸(ほとばし)りでた。その時には非の打ちどころのないほど雄弁になった。」[10]という。
主な著書に『歌意考』、『万葉考』、『国意考』、『祝詞考』、『にひまなび』、『文意考』、『五意考』、『冠辞考』、『神楽考』、『源氏物語新釈』、『ことばもゝくさ』などがある。全集として、明治期に『賀茂真淵全集』(6巻、國學院編、吉川弘文館)、昭和初期に『増訂 賀茂真淵全集』(12巻、佐佐木信綱監修、吉川弘文館)および『校本 賀茂真淵全集』(思想編上下、弘文堂)、昭和後期に『賀茂真淵全集』(28巻ただし7巻分は未刊、久松潜一監修、続群書類従完成会)が刊行されている。
門下
真淵は教育者としても長じ、門下には本居宣長、荒木田久老、加藤千蔭、村田春海、楫取魚彦[1]、塙保己一、内山真龍(うちやままたつ)、栗田土満、森繁子などがおり、県居学派と呼ばれる。
高名な弟子として特に優れた女性3人を県門の三才女(けんもんのさんさいじょ)[1]、特に優れた男性4人を県門の四天王(けんもんのしてんのう)と称した。
県門の三才女
県門の四天王
また、県門の四天王に8人を加え、県門十二大家(けんもんじゅうにたいか)と称される[1]。
県門十二大家
脚注
注釈
- ^ 「岡部家は代々加茂神社の禰宜(ねぎ)となり、『賀茂県主(あがたぬし)』と呼ばれていた」(三枝 (1962), p. 43)。「真淵の実父の政信は、分家筋」(三枝 (1962), p. 60)。「農事をもっぱらにした実父政信」(三枝 (1962), p. 74)。「政信(中略)家の生計は、もっぱら農事によってたてられていた」(三枝 (1962), p. 63)。「賀茂真淵県主(あがたぬし)は百姓の子なり」(小山田与清 『擁書漫筆』、三枝 (1962), p. 17 より孫引き)。
- ^ 「宝永四年は真淵大人(うし)十一歳になれり、(中略)手習ひ始めなるべし」(杉浦比隅満 『古学始祖略年譜』、三枝 (1962), pp. 67-68 より孫引き。資料に関しては同書309頁参照)。
- ^ 「岡部政長の養子となる」(三枝 (1962), p. 312)。
- ^ 「いくつかの説(中略)享保十八年、三十七歳のとき京へのぼり、春満を師とした(中略)これにたいして(中略)真淵自らも『学びのあげつろひ』において、「三十に余りて京へおりおり行て、荷田うしに学びつるも」という。(中略)享保十三年(中略)ならば真淵も三十二歳であり、(中略)上京したとしても不審は無く、(後略)」(三枝 (1962), pp. 139-140)。「享保十三年(一七二八)に三十二歳で春満に入門してから」(三枝 (1962), p. 165)。
- ^ 「元文二年(一七三七)(中略)江戸の土をふみ、信名のもとに身を寄せた。」(三枝 (1962), p. 182)。
- ^ 「師たるべき位置を与えられた」(三枝 (1962), p. 184)。「古典についての共同研究を、飽かずにおこなってゆく」(三枝 (1962), p. 187)。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 井上豊 「賀茂真淵」(日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), pp. 399-401)
- ^ 三枝 (1962), p. 19
- ^ 三枝 (1962), p. 69
- ^ 三枝 (1962), p. 100
- ^ 三枝 (1962), p. 103
- ^ 「梅谷脇本陣がすなわち真淵の養家にあたり、」(三枝 (1962), p. 120)。「脇本陣の若主人になったことが真淵にとって」(三枝 (1962), p. 122)
- ^ 「浜松宿の脇本陣、梅谷方良の養子になった」(三枝 (1962), p. 117)
- ^ 三枝 (1962), pp. 179-180
- ^ 三枝 (1962), p. 224
- ^ 庄田 (2006), p. 29。原文は『賀茂翁家集』「序文」(新編国歌大観 第9巻1 所収)。
- ^ 内野吾郎 「油谷倭文子」(日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), p. 1875)
- ^ 内野吾郎 「土岐筑波子」(日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), p. 1322)
- ^ 内野吾郎 「鵜殿余野子」(日本古典文学大辞典編集委員会編 (1986), p. 175)
参考文献
- 三枝康高『賀茂真淵』吉川弘文館〈人物叢書〉、1962年。
- 庄田元男 編訳『アーネスト・サトウ 神道論』平凡社〈東洋文庫〉、2006年。ISBN 4-582-80756-9。
- 日本古典文学大辞典編集委員会編『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年。ISBN 978-4000800679。