西尾忠成

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西尾忠成
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 承応2年(1653年
死没 正徳3年10月13日1713年11月30日
別名 勝之助(幼名)
諡号 祥鳳
戒名 東麟院元彩祥鳳
墓所 静岡県掛川市西大渕の竜眼寺
官位 従五位下、隠岐
駿河田中藩主→信濃小諸藩主→
遠江横須賀藩
氏族 西尾氏
父母 父:西尾忠昭、母:松平伊昌の娘
正室:丹羽光重の娘
忠尚酒井忠告
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西尾 忠成(にしお ただなり)は、駿河国田中藩の第2代藩主。のちに信濃国小諸藩主、遠江国横須賀藩初代藩主となる。横須賀藩西尾家4代。

生涯

田中藩主

承応2年(1653年)、田中藩の初代藩主・西尾忠昭の長男として生まれる。承応3年(1654年)に父が死去したため、家督を継いで藩主となる。このとき、忠成幼少のため幕命により叔父の西尾忠知に5000石を分与し、後見役を命じられたため、2万石の大名となった。寛文元年(1661年)3月8日初めて将軍徳川家綱に拝謁し、寛文7年(1667年)12月28日に従五位下、隠岐守に叙任される。

延宝3年(1675年)に叔父の忠知が死去したため、5000石が幕府より還付され、再び2万5000石の大名となる。延宝7年(1679年)9月6日、信濃小諸藩に移封された。

小諸藩主

小諸藩では、前の藩主である酒井忠能の失政を改めるべく努力したが、わずか3年後の天和2年(1682年)3月9日、遠江横須賀藩に移封された。

横須賀藩主

天和2年(1682年)、幕府より遠江国見付宿での朝鮮通信使の饗応役を命じられている。

横須賀藩では、城下町を近世的に整備するなどしたが、宝永4年(1707年)の大地震で横須賀湊が塞がるなど、災難も重なった。正徳3年(1713年)7月23日、四男の西尾忠尚に家督を譲って隠居し、同年10月13日に江戸外桜田において死去。享年61。

絵画に秀でた文化人であった。