蜂須賀斉裕
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 文政4年9月19日(1821年10月14日) |
死没 | 慶応4年1月6日(1868年1月30日) |
改名 | 松菊(幼名)→斉裕 |
戒名 | 大龍院殿登雲泰源大居士 |
墓所 | 徳島県徳島市佐古山町の万年山 |
官位 | 正四位上、阿波守、参議 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 阿波徳島藩主 |
氏族 | 徳川将軍家→蜂須賀氏 |
父母 |
父:徳川家斉 母:皆春院 養父:蜂須賀斉昌 |
兄弟 |
徳川家慶、徳川敦之助、徳川斉順、 徳川虎千代、徳川斉明、徳川斉荘、 池田斉衆、松平斉民、徳川斉温、 松平斉良、徳川斉彊、松平斉善、 斉裕、松平斉省、松平斉宣、他多数 |
妻 | 鷹司標子(鷹司政通の娘) |
子 |
茂韶、賀代姫(松平茂昭正室)、 養子:倫子(鷹司輔政室、実父:蜂須賀隆芳) |
蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ、文政4年9月19日(1821年10月14日) - 慶応4年1月6日(1868年1月30日))は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第13代藩主。
11代将軍・徳川家斉の二十二男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。13代将軍・徳川家定は甥にあたる。
略歴
将軍の息子から外様の藩主へ
文政4年(1821年)9月19日生まれ。文政10年(1827年)閏6月3日、徳島藩12代藩主蜂須賀斉昌の養子となる。斉裕の父・家斉は『オットセイ将軍』と揶揄されるほどの子沢山であり、兄で嫡男の家慶を除く多くの男児は、他藩の養子として出された。徳川氏の将軍の子であるから、養子先の多くは徳川氏の親族、すなわち親藩であり、なおかつ大領を領しているのが条件となっていた。
このような中で、斉裕は外様大名である蜂須賀氏の養子となって家督を継ぐこととなった。蜂須賀氏は阿波・淡路両国を領する国主であり、禄高では申し分ないが、外様であることに変わりはない。これは歴代将軍の子の中では異例の出来事であった。
なお、文政9年(1826年)に幕府は岡山藩主池田斉政に対し、家斉の息子の一人を養嗣子に迎えるようにもちかけたものの断られている(結局、池田家と縁の深い島津斉彬の弟・斉敏が斉政の養子となった)。
藩政改革
天保14年(1843年)、家督を継いで藩主となった。この頃、徳島藩では財政が悪化し、窮した前藩主・斉昌は百姓に重税を強いることで解決しようとしたが、これに百姓が猛反発して一揆を起こした。しかもこのとき、斉昌は一揆の首謀者の一人を処罰できずに許すという無様さを示している。藩主にはもはや百姓を抑える力さえも欠如しかけていた。
そのような中で藩主となった斉裕は、藩政改革に取り組むことにした。まず、藩士の知行を3割削減し、領内の特産品である染料と藍を扱う大商人に献金を求めた。さらに藩の軍制をイギリス式に改め、海防に力を注いだ。
岩屋や由良(洲本)に砲台を建築するなど、海防においては多くの功績を挙げている。このため、幕末の動乱期に、斉裕は幕府が新たに設置した役職である陸軍総裁に任命されている。しかしこのための出費が凄まじく、短期間で陸軍総裁は廃止され、徳島藩の財政は破綻寸前になった。
幕末の斉裕
斉裕は徳川将軍家の一族であったが、幕末の幕政とはある程度の距離を置いていた。陸軍総裁に任命されたが短期間で廃止になったのも、斉裕が幕府とあまり関わりあいたくなかったからだとも言われている。斉裕は幕末期、公武合体を目指して京都などに家臣を積極的に送り込んでいる。
しかし、洲本城代の稲田氏をはじめとする家臣団の多くから公武合体に対して批判的な意見が多く、藩論を統一することができなかった。幕末において徳島藩が名を残すことができなかったのも、藩論統一が成されなかったためと言われている。
慶応4年(1868年)1月6日、48歳で急死し、跡を次男の茂韶が継いだ。
将軍家出身ながら海防や軍制改革など、軍事面においては優秀な功績を残しており、それなりの実行力を持った藩主であった。そのため斉裕が亡くなったとき、幕府側の多くの人物が、その死を惜しんだと言われている。