藤田房子

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ふじた ふさこ
藤田 房子
本名
生年月日 (1916-04-02) 1916年4月2日
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布1-3丁目及び六本木6-7丁目辺り)
身長 151.5cm
職業 女優、元子役
ジャンル 軽演劇劇映画時代劇現代劇サウンド版サイレント映画トーキー
活動期間 1923年 - 1941年
配偶者
著名な家族 藤田陽子(実妹)
主な作品
新お初地蔵
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藤田 房子(ふじた ふさこ、1916年4月2日 - 没年不詳)は、日本の女優、元子役である[1][2][3][4]。本名同じ[1][2][3][4]。1920年代、小藤田正一、妹・藤田陽子らと共に松竹蒲田撮影所で活躍した名子役である。身長は3尺8寸(約143.9センチメートル)、後に3尺8寸6分(約146.2センチメートル)、5尺(約151.5センチメートル)となり、体重は7貫900匁(約29.6キログラム)、後に10貫500匁(約39.4キログラム)となる[2][3][4]

来歴・人物

1916年大正5年)4月2日東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布1-3丁目及び六本木6-7丁目辺り)に生まれる[1][3][4]1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)では、生年は「大正五年四月三日」(1916年4月3日)である旨が記されているが、誤植と思われる[2]

1923年(大正12年)1月、南山小学校(現在の港区立南山小学校)入学と同時に、実の妹である藤田陽子と共に松竹蒲田撮影所に入社、とされている[1]。『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』など一部の資料によれば、同小学校在学中に花柳徳太郎の門弟として舞踊を学び、杵屋で三味線を学び、同年4月1日に入社としている[2][3][4]。また、小学校5年生頃から学級委員長をも務めていたという記録も残っている[2]。同年5月川田芳子栗島すみ子五月信子ら三大女優と子役の先輩の高尾光子と共演した、野村芳亭監督映画『』で映画デビューを果たす[1][2]。以後も多数の作品に出演し、1926年(大正15年)の野村監督映画『新お初地蔵』では初めて主演を務めている。また、陽子や高尾光子だけでなく、小藤田正一小桜葉子久保田久雄といった名子役と共演し、負けないほどの人気を保っていたが、姉妹2人の人気の点では妹・陽子の方がリードしていたという[1]。ところが1933年昭和8年)、子役から一般の女優に登用され、1934年(昭和9年)1月には準幹部待遇となったが、同年末には陽子と共に退社した[1]

1935年(昭和10年)、陽子と共に劇団笑の王国に参加するが、1936年(昭和11年)10月、僅か一年で姉妹ともに退団[5]。その後、陽子は病気療養のため引退するが、房子は古川緑波一座に入団する[5][6]1941年(昭和16年)5月19日、結婚を機に引退するが、1942年(昭和17年)6月11日まで姿を見せていたという[5]。しかし、以後の消息は明らかになっていない[1]没年不詳

出演作品

松竹蒲田撮影所

特筆以外、全て製作は「松竹蒲田撮影所」、配給は「松竹」、特筆以外は全てサイレント映画である。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 『日本映画人名事典 女優篇 下巻』キネマ旬報社、1995年、477頁。 
  2. ^ a b c d e f g 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』映画世界社、1928年、86頁。 
  3. ^ a b c d e 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』映画世界社、1929年、112頁。 
  4. ^ a b c d e 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』映画世界社、1929年、108-109頁。 
  5. ^ a b c 『古川ロッパ昭和日記 戦中篇 昭和16年‐昭和20年』晶文社、2007年、107頁。
  6. ^ 『都新聞』1936年10月7日付、7頁、演芸欄。

外部リンク