藤原房前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。松茸 (会話 | 投稿記録) による 2015年10月6日 (火) 03:27個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
藤原 房前
時代 飛鳥時代後期 - 奈良時代前期
生誕 天武天皇10年(681年
死没 天平9年4月17日737年5月21日
諡号 文忠公[1]
官位 正三位行参議正一位太政大臣
主君 文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 藤原朝臣藤原北家
父母 父:藤原不比等、母:蘇我娼子蘇我連子の娘)
兄弟 武智麻呂房前宮子宇合麻呂長娥子光明子多比能大伴古慈斐
正室牟漏女王美努王の娘)春日倉首老の女、片野朝臣の女、阿波采女、素性不詳
鳥養永手真楯(八束)藤原清河藤原魚名御楯(千尋)藤原楓麻呂、北殿、藤原豊成室、宇比良古(袁比良)
特記
事項
藤原北家祖。
テンプレートを表示

藤原 房前(ふじわら の ふささき)は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族藤原不比等の二男。官位正三位行参議正一位太政大臣

生涯

藤原北家の始祖で万葉には藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られる。政治的力量は不比等の息子達の間では随一であり、大宝703年)には20代前半にして、律令施行後初めて巡察使となり、東海道の行政監察を行った。その後も兄武智麻呂と同時に昇進していたが、元明朝末期から元正朝初期にかけての高官の薨去穂積親王大伴安麿石上麻呂巨勢麻呂)を受けて、霊亀3年(717年)に武智麻呂に先んじて参議となった。これは、参議以上の議政官は各豪族から1名ずつという当時の慣習を破っての昇進でもあった(房前の昇進により、右大臣である不比等を加えて、藤原氏の公卿は2人となった[2])。元明上皇が死の床で祖父・鎌足以来の内臣に任じて、皇太子首皇子の後見役を託したのもその才能を見越しての事であった。なお、当時、内臣は正式な役職ではなく、元正天皇が首皇子に譲位した時点で任を解かれたとする意見もある。

甥の聖武天皇即位後、天平元年(729年)に皇親勢力の巨頭で政敵であった長屋王を失脚させ(長屋王の変)、藤原四子政権の中心人物として、他の兄弟とともに政権を主導した。その後、長兄である武智麻呂(正二位・左大臣)との兼ね合いから、正式な位階・役職としては正三位・参議が極官のまま、他の兄弟に先んじて天然痘に倒れた。

房前の子孫である藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中で最も繁栄した。

系譜

略歴

能のなかの房前

房前は能楽海人』の登場人物としても知られる。この能によると、房前大臣は亡き母をたずねて讃岐国、志度の浦を訪れる。そこできかされたのは父不比等と母である海女の物語。

「13年前淡海公(不比等のこと)はある目的をもってこの地にきた。そこでひとりの海女とであい、子をもうけた。淡海公は海女に この地にきた目的は、唐の高宗から下賜された宝物『面向不背の珠(めんこうふはいのたま)』を興福寺に届けるときに志度湾沖で嵐にあい紛失し、それを探しだすことだと語る。海女はその宝物を竜宮からとりもどせば、身分の低い自分のようなものが生んだ子でも正式な息子として認めててくれるかと問い、淡海公の確約を得て海にとびこむ。そして竜宮へおもむき、自分の乳の下をかき切って体内に珠をかくし海上へたどりつく。珠はみごとに淡海公の手にとりもどされたが、海女は傷がもとでなくなってしまう。淡海公は約束どおり房前を正式な息子として都につれかえった」という物語である。

この話をきいた房前は母の菩提をとむらい、法華経の功徳で母は成仏したという。

参考文献

  • 野村忠夫『律令国家の諸様相』塙書房 1968
  • 高島正人『奈良時代諸氏族の研究』吉川弘文館 1983
  • 野村忠夫『奈良朝の政治と藤原氏』吉川弘文館 1983
  • 平山 圭「藤原房前の内臣について」『奈良大学大学院研究年報』5 2000
  • 木本好信『藤原四子』ミネルヴァ書房 2013
  • 木本好信『藤原北家・京家官人の考察』2015 

関連項目

脚注

  1. ^ (『続日本紀』)
  2. ^ このため、不比等の嫡男を兄の武智麻呂ではなく房前とする学説が出されたこともあるが、これに対して各豪族から1名ずつという慣習が守られていたからこそ、嫡男の武智麻呂が父の生存中は議政官には昇進できなかったとする意見や房前を直前に薨去した巨勢麻呂の後任と考えて、当時「東国問題」担当の議政官の枠が存在していたとする説などの反論が出されている。