蒲生賢秀
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文3年(1534年) |
死没 | 天正12年4月17日(1584年5月26日) |
官位 | 左兵衛大夫 |
主君 | 六角義治→織田信長 |
氏族 | 蒲生氏 |
父母 | 父:蒲生定秀、母:馬淵氏 |
兄弟 | 賢秀、青地茂綱、小倉実隆、女(関盛信室)、女(神戸具盛室) |
妻 | 正室:後藤賢豊の娘 |
子 | 氏信、氏春、氏郷、重郷、貞秀、とら(三条殿、豊臣秀吉側室)、娘(関一政室)、娘(田丸直昌室)、娘(小倉行春室) |
蒲生 賢秀(がもう かたひで)は、戦国時代の武将。近江日野城主。
生涯
天文3年(1534年)、六角氏の重臣・蒲生定秀の長男として生まれる。母は同じく六角氏の重臣馬淵氏の女。主君である六角義賢より偏諱を賜り、賢秀と名乗った。
父と共に六角氏に仕え、観音寺騒動が発生すると父・定秀とともにその収拾に尽力し、永禄10年(1567年)に制定された分国法・『六角氏式目』に父とともに連署している。
永禄11年(1568年)、義賢と織田信長による観音寺城の戦いでは、賢秀は柴田勝家と蜂屋頼隆等に攻められるが、これを堅守した。しかし、義賢は信長に敗北し、六角家は滅亡する。賢秀は敗北を聞いてもなお1千の兵で日野城に籠もり、抵抗する様子を見せていた。しかし、賢秀の妹を妻としていた織田家の部将・神戸具盛が単身日野城に乗り込んで説得した結果、賢秀は降伏し、賢秀は嫡男・鶴千代(後の蒲生氏郷)を人質として差し出して信長の家臣となり、柴田勝家の与力となる[1]。信長は賢秀・鶴千代父子を気に入り、鶴千代に娘の冬姫を嫁がせて娘婿に迎えている。後に信長包囲網が敷かれると六角氏から誘われたこともあったが、断固断って織田家の部将として戦い、天正元年(1573年)4月には旧主・六角義治を鯰江城に攻めている。
天正7年(1579年)7月、賢秀は曾祖父の蒲生貞秀以後の一族38人の供養を日野信楽院で行った[2]。
柴田勝家の北陸移封後は近江に残り独立した軍団を形成。天正10年(1582年)、本能寺の変の際、安土城二の丸を守備しており、信長横死の報がもたらされると、嫡男・賦秀(氏郷)を日野城から呼んで、6月3日卯刻に濃姫等織田家一族を日野城に移し、立て籠もった[3]。このことは伊賀越えの最中の徳川家康から労をねぎらわれている[4]。脱出の最中、信長の女房衆から安土城を焼き、城内の宝物を持ち出すよう賢秀に言ったが、「神仏の加護から見放されてしまう」と断り、「宝物を取るとは欲にふけっている」と批判されるので、そのまま退城したという[5]。明智光秀からは多賀豊後守や布施忠兵衛等が派遣され、味方に付けば近江半国を遣わすとの破格の条件を提示してきたが、賢秀は信長の恩を忘れることはできないと敢然と拒絶したという。同年、賦秀に家督を譲る(月日は不明だが、本能寺の変の直後数ヶ月の間とされている)。天正12年(1584年)4月17日に死去。享年51。墓所は恵倫寺(福島県会津若松市)。
人物・逸話
- 信長が岐阜を拠点にしていた頃は各地の合戦に氏郷・賢秀親子をお供させていたが、安土を拠点にしていた頃になると、毎度出陣の度に賢秀を安土城の留守居として残していたという(『氏郷記』)。
- 明智光秀の勧誘を拒絶した律儀さにより「日野の頑愚どの」との異名を受けた。しかし一方で安土城に火を放たず、財物をそのまま残し退去したので、明智方に日野城まで攻め込まれるのを恐れてそのままにしたと、臆病者、小心者との評価もある。『老人雑話』に「日野の蒲生殿は陣とさえ言や、下風おこる」(戦と聞いただけで臆病風にふかれる)という小唄が紹介されている。臆病者説について、作家の海音寺潮五郎は六角家に最後まで忠節を尽くし日野城に僅かな兵で籠った賢秀が臆病であろうはずがないと否定している。
- 神戸具盛、関盛信の妻はいずれも賢秀の姉妹にあたる人物であり、その縁から両者が織田信長によって追放された際は、身柄を預かっている。