義民

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義民(ぎみん)とは、民衆のため一身を捧げた人をいう。飢饉などで人々が困窮しているときに一揆の首謀者などとなって私財や生命を賭して活躍した百姓のことで、転じて幕末尊皇攘夷運動において同様に私財を賭して国のために奔走した町民・商人などもこう呼ばれる。

義人とも言うが、江戸時代初期を中心に各地の郷土史には義民伝説が残っている。

概要

主に江戸時代村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を領主幕府直訴越訴)した人物。特に直訴は死罪とされていた[1]ため、その行為は義挙と賞賛された。

例として、1761年上田藩(現長野県上田市)浦野組(現長野県青木村上田市別所、塩田など)の農民約一万人が上田城へ押し掛けた上田騒動では、清水半平、中沢浅之丞などが一揆を指導し、死罪に処せられた。

なお、水戸藩などでは、尊王攘夷の志に目覚め、水戸藩の志士たちと国事に奔走した義民がいわゆる義民郷士として取り立てられたり、明治維新後、賞典禄を受けた者も多い。

主な義民

義民の顕彰例。新本義民騒動の義民碑(岡山県総社市

脚注

  1. ^ ただし、死罪とされたのは直訴の行為そのものが理由ではなく、直訴や一揆を起こすにあたって村落共同体内部で事前に話し合いを持ったことが幕府や藩が禁じる「徒党の禁止」に該当したためである。

関連項目