義民
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義民(ぎみん) とは、民衆の窮状を救うために自らの生命や私財を犠牲にして訴えを行った人物を指す。江戸時代には、飢饉や過重な年貢に苦しむ百姓を代表して藩や幕府に直訴(越訴)した農民や村役人が典型例とされる。
直訴は法で禁じられ、発覚すれば死罪に処されるため、その行為は後世に「義挙」と賞賛され、各地に義民伝説が残されている。
概要
[編集]主に江戸時代、村落共同体の代表として年貢の重圧による生活の困窮を領主、幕府に直訴(越訴)した人物を指す。特に直訴は死罪とされていた[注釈 1]ため、その行為は義挙と賞賛された。
義民とされた人物の多くは、「生活の防衛」だけでなく「大義名分」も示した点が評価された。
- 生活の防衛:年貢の減免や庄屋の横暴の是正など、村人の日常を守るための行動。
- 大義名分:自らは処刑されても、共同体全体の救済につながるという覚悟。
一方で、一揆や強訴は必ずしも義民と区別されないことが多い。実際には、一揆は「飢えからの反発」や「重税への不満」といった生活防衛的な爆発であり、当時の記録では「騒動」として処罰された。にもかかわらず、近代以降の郷土史や観光の文脈では「一揆=義民」と美談化され、直訴型と混同されがちである。
幕末になると、尊皇攘夷運動に私財を投じた町人や商人も「義民」と呼ばれるようになり、「大義名分」に重きを置く用法へと広がっていった。したがって、義民という概念は時代ごとに変化しており、「生活の防衛」と「大義名分」どちらの側面を強調したものかを区別して理解する必要がある。
例として、水戸藩などでは、尊王攘夷の志に目覚め水戸藩の志士たちと国事に奔走した義民が、いわゆる義民郷士として取り立てられたり、明治維新後に賞典禄を受けた者も多い。
主な義民
[編集]→「Category:義民」も参照
- 中条右近太夫 - 江戸時代初期の遠江国の農家。嶺田用水の築造許可を求めて幕府に直訴した。用水築造は許可されたが、自身は処刑された。
- 佐倉惣五郎(木内惣五) - 江戸時代初期の下総国佐倉藩領の名主。義民伝説が伝わる。
- 松木庄左衛門 - 小浜藩領承応元年一揆(1652年、若狭国小浜藩)の義民。
- 小松三郎左衛門-(1678年)信濃国諏訪藩の不当な裁許をくつがえそうと江戸へ直訴しようとして処刑された。
- 新井宿義民六人衆
- 杉木茂左衛門 - 磔茂左衛門一揆(1681年、上野国沼田藩)の義民
- 鈴木三太夫 - 相模国海老名郷大谷村(旗本領)の名主。1684年刑死
- 多田加助 - 貞享騒動(1686年、信濃国松本藩)の指導者
- 新本義民四人衆 - 新本義民騒動(1717年、備中国岡田藩)の指導者
- 斎藤彦内 - 天狗廻状騒動(1749年、陸奥国桑折)の義民
- 鈴木源之丞 - 籾摺騒動(1753年、下野国宇都宮藩)の指導者
- 清水半平・中沢浅之丞 - 宝暦上田騒動(1761年、信濃国上田藩)の指導者
- 忍足佐内 - 勝山藩西領騒動(1770年、安房国勝山藩)の義民
- 本間辰之助、佐藤藤佐 - 天保義民事件(1840年、出羽国庄内藩)の指導者。前代未聞だった藩主擁護の直訴を指揮する。
- 土川平兵衛 - 近江天保一揆(1842年、近江国野洲郡)の指導者。検地阻止を完全に勝ち取った唯一の一揆で、年貢増徴政策を事実上失敗に追いやった。
- 河井重高 - 遠江国佐野郡上張村(掛川藩)の庄屋。安政年間、家臣のふりをして榛葉作平と掛川城に潜入し、減租を求めて城主に直訴。減租が許可され無罪放免。
- 榛葉作平 - 遠江国佐野郡初馬村(掛川藩)の庄屋。安政年間、家臣のふりをして河井重高と掛川城に潜入し、減租を求めて城主に直訴。減租が許可され無罪放免。
- 宮崎忠次郎 - 越中ばんどり騒動(1869年、越中国新川郡)の指導者。年貢減免や十村公選制などを要求。出身地に「義人之碑」が建つ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
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