美濃部正

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美濃部 正
生誕 1915年
死没 1997年6月12日
所属組織 大日本帝国海軍航空自衛隊
軍歴 1937 - 1970
最終階級 少佐(帝国海軍)、空将(航空自衛隊)
指揮 航空自衛隊幹部候補生学校
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美濃部 正(みのべ ただし、旧姓:太田(おおた)、1915年 - 1997年6月12日)は、愛知県出身の旧日本海軍軍人航空自衛官である。海兵64期。最終階級は海軍において少佐、自衛隊において空将

生涯

1915年愛知県高岡村(現豊田市)で自作農の太田家に六人兄弟の次男として生まれる[1]刈谷中学を経て、1937年(昭和12年)3月23日海軍兵学校64期卒業、少尉候補生。1937年11月5日由良乗組。

偵察機搭乗員

1938年7月28日第31期飛行学生拝命、1939年3月4日卒業。三座水上偵察機の水上偵察機搭乗員となる。3月9日館山空。1939年8月10日佐世保空。二座水上偵察機の操縦を学ぶ。11月1日水上機母艦「千歳」乗組。1940年11月1日軽巡洋艦「名取」、分隊長。ベトナムのタクシーに乗って仏印(ベトナム)駐留のフランス軍基地に潜入して、航空兵力の調査を行った。1941年9月10日軽巡洋艦「阿武隈」乗組、分隊長。1941年(昭和16年)11月美濃部貞功の娘篤子と結婚して婿養子となり、美濃部姓になる[2]

1941年12月太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。真珠湾爆撃の写真を日本へ運ぶ[3]。1942年4月第一航空艦隊が英空母「ハーミス」を撃沈した時に、「阿武隈」から美濃部を機長にした九四水偵が発進して、十時間飛行しながら沈没する「ハーミス」の写真を撮った[4]。遠景からの1枚に美濃部が撮影したものもある。1942年7月20日小松島空分隊長。1943年2月20日佐世保鎮守府付。

夜襲部隊

1943年10月20日ソロモン諸島方面に展開する第983海軍航空隊の飛行隊長に着任。美濃部はマラリアに感染して1944年1月に復帰。零式水上偵察機が1機で夜間にニュージョージア島の米軍飛行場への爆撃に成功したことで、美濃部は夜間襲撃を提案して、南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将が軍隊区分で準備を進めたが、2月17日トラック島空襲によって機材が失われて計画は頓挫した。

1944年(昭和19年)2月、美濃部が軍令部零戦の補給を要望しに行った際、水上機部隊に零戦を補給することは認められなかったが、軍令部航空部員源田実中佐は美濃部の考えを支持し、代わりに零戦の新しい飛行隊を編成して、美濃部がその飛行隊長になれと言って取り計らってくれた[5]。美濃部によればその時源田中佐に「航空機の生産が低下し、しかも陸上機パイロットの激減により、もっぱら迎撃に終始し、進攻兵力がすくなくなった。しかし、水上パイロットは、なおも人材豊富である。その夜間技量と零戦を併用すれば、敵中深く侵入して攻撃が可能である」と進言、夜襲飛行隊として艦隊所属の夜間戦闘機隊が編成されたのは、それ以降の事であるという[6]。美濃部の希望通り、分隊長をはじめ水上機搭乗員を主体にした零戦隊が編成され、1944年2月25日301空戦闘316飛行隊長着任。八木勝利司令の要求する防空戦と美濃部の夜襲構想で部隊の運用方法の相違から対立して隊長を解任された。飛行隊はその後迎撃で消耗して壊滅した。1944年5月24日302空着任。零戦・月光装備の第二飛行機隊長任命。小園安名司令からは理解が得られ、美濃部は夜襲部隊の再建に取り掛かった[7]攻撃方法は、索敵隊による敵艦隊の発見後に攻撃隊である銃撃隊、爆撃隊が発進、敵空母から艦載機が発進する前に奇襲する構想だった。7月4日、5日硫黄島来襲の米機動部隊に攻撃をかけようと出撃するが、空振りに終わり、悪天候のせいで損害も出した。

1944年7月10日153空戦闘901飛行隊長。9月からフィリピン方面に進出、敵機動部隊に攻撃開始。戦果が上がらないまま、損害が続出し、パイロットも当初の1/3になるまで消耗した。フィリピンで特攻が開始された際には、夜襲を説いて特攻に参加しないことを大西瀧治郎から容認された[8]。この話し合いの際、「生還率ゼロの命令をだす権利は指揮官と言えども持っていない」「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい」と大西に語り、やがて彼は「こんなむごい戦争があるか」と声を荒らげて答えたという[9]

芙蓉部隊

芙蓉部隊(前2列目中央無帽の人物が美濃部)
芙蓉部隊の主要機「彗星」と部隊名の由来となった富士山

部隊再建のために762空に移動して1944年11月15日内地に帰還したが、762空はすでに4つの飛行隊を抱え、攻撃機による夜襲部隊の再建中であるため、美濃部の戦闘機による夜襲には通じていないということもあり、再建は131空で行うこととした。比島再進出のために部隊を再建する飛行場を探していた美濃部は藤枝基地を訓練根拠地に決めた。 美濃部の部隊再建のため、編成や機材など軍令部作戦課が担当して取り掛かった。機材は、零戦を装備、また美濃部は銀河が少数しかそろわないことを知り、数がそろう彗星を希望した。美濃部は人事局のリストから優秀な水上機搭乗員を指名し、その他の地上人員も人事局から厚遇された[10]。こうして、1945年初頭に関東海軍航空隊の指揮下に集められた海軍夜間戦闘機隊の3つの飛行隊(戦闘804、812、901)と整備隊は、編制上の指揮官は関東空司令であったが、実質的な指揮官は美濃部となった。美濃部は根拠地となった静岡県藤枝基地から見える富士山にちなんでこの部隊を芙蓉部隊と命名した。美濃部の実施した訓練は、昼夜逆転生活、夜間洋上航法訓練、座学といずれも夜襲に特化した内容であった。

1945年2月17日の出撃で美濃部は部下に特攻を指示して、別盃が交わされている。本土に来襲する機動部隊に対して用意された「未明に索敵機が空母を発見すると、位置を通報した後、飛行甲板に体当たりして発艦を不能として攻撃力を奪う。その後の夜明け時、索敵機の知らせた地点に到着した第二波以降が通常攻撃を反復する」という戦法だった。鞭杲則少尉の記憶では「空母を見つけたら飛行甲板に滑り込め」という命令で、搭載機の破壊、また突入による火災で位置を知らせるという戦法だった。どちらにしろ必死の特攻を前提とした戦法だったが、この時に敵は見つからなかった為、特攻攻撃は無かった[11]

彗星を主体にした特攻部隊で消耗があり、同じ彗星装備の芙蓉部隊が第二御盾特別攻撃隊の名称で特攻配置になるという噂が流れたが、美濃部は「うちの隊から特攻は出さない。夜間作戦が出来る人間が少ないので、あとがなくなってしまう」と否定して部隊には安心感が漂った[12]

第三航空艦隊での沖縄戦についての会議に、司令代行として参加した美濃部は、艦隊司令部が練習機で特攻をやらせる案を提示したため、末席から練習機では敵戦闘機の防御網を突破できないと反論した。すると司令部参謀は「必死尽忠の士の進撃を何者がこれをさえぎるか、第一線の少壮士官が何を言う」と叱責するが、美濃部は指揮官や幕僚が自ら突入しようとしないことと、彼らがろくに空中戦を経験していないことを非難し[13]、「現場の兵士は誰も死を恐れていません。ただ、指揮官には死に場所に相応しい戦果を与える義務があります。練習機で特攻しても十重二十重と待ち受けるグラマンに撃墜され、戦果をあげることが出来ないのは明白です。白菊や練習機による特攻を推進なさるなら、ここにいらっしゃる方々が、それに乗って攻撃してみるといいでしょう。私が零戦一機で全部、撃ち落として見せます」と言った[14]。この反対論を述べた際、美濃部は死刑に処せられることを覚悟していた[15]

1945年3月5日131空飛行長。

第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は、『戦藻録』1945年(昭和20年)7月23日(廿三日)の項に、美濃部について「芙蓉部隊長は水上機出身なるがよく統率して今日迄の活躍は目覚ましきものなり」と記述している[16]

戦争末期、美濃部は決号作戦本土決戦)に備えて、特攻による最終出撃に加わる24機分の編成表を作り上げた。搭乗割には主立った士官、准士官、夜襲に熟練した下士官・兵搭乗員の名を書きこんだ。空中指揮は美濃部自身がとるつもりだった。この特攻は「敵は上陸前に、必ず機動部隊の猛攻を加えてくる。まず、爆装の索敵攻撃隊を出して敵艦隊を捕捉する。その通報を受けてやはり爆装の攻撃隊が発進し、爆弾を海面でスキップさせて敵艦の舷側にぶつける肉薄の反跳爆撃を敢行したのち、全弾を撃ちつくして艦艇に突入。空母がいて甲板上に飛行機がならんでいれば、滑りこんで誘爆で破壊する」「基地に残った地上員からも決死隊を選択し、穴を掘って爆弾とともに入る。敵の陸上部隊が迫ってきたら残った施設に火を放ち、敵を安心させて呼びこんだところで、穴の中の決死隊が各自、爆弾の信管を叩いて大爆発を起こし、戦車や歩兵をまきぞえにする。そのほかの大多数の若い隊員は、基地を離れて一般市民にまぎれこみ、自分で運命を切り開いていく」という作戦だった[17]

1945年8月15日終戦。美濃部をはじめ芙蓉部隊は終戦に納得しなかったが、艦隊司令部で美濃部は井上成美大将になだめられ、部下を説得するように言われた。美濃部は基地に帰ると隊員に部隊は陛下のものであると説得し、「詔勅が出た以上、私に部隊の指揮を取る資格はない。納得できなければ私を斬ってから出撃せよ」と言っておさめた[18]。その後、美濃部から「日本もまたいつか復興することもあるかもしれない。その時はまたここで会おう」という訓示が行われた[19]。美濃部は隊員たちに部隊の飛行機を用いて復員することを許可した。この飛行機による復員で、美濃部は後に国際法違反の嫌疑を掛けられたが、「全ての武装を撤去した上での復員であった」と釈明し不問となっている。

戦後

戦後はしばらく農業に従事していたが、1953年航空自衛隊に入隊。西空防衛部長、空幕運用課長、統幕学校教育課長、第12飛行教育団司令を歴任。1966年7月16日輸送航空団司令。兼美保基地司令。1969年4月1日航空自衛隊幹部候補生学校長。幹候校への襲撃を企てた新左翼の過激派学生グループと対峙したが、幹候校にいる警務隊員や基地警備隊が飼っていた警備犬と放水銃の展示による威嚇のみで退散させ、事件の発生を未然に抑止している。1970年6月30日体調不良で依願退職。空将で退官。退職後は、日本電装学園長となる。1997年病没[20]

美濃部は、特攻に反対した人物として知られているが、夜間攻撃を重視してのことであり、特攻戦法には否定的ではなかった。美濃部は戦後、特攻について「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っている[21]。また「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている」とも語っている[22]

脚注

  1. ^ 保阪正康『昭和戦後史の死角』朝日新聞社258頁
  2. ^ 保阪正康『昭和戦後史の死角』朝日新聞社258頁
  3. ^ テレビ愛知『芙蓉部隊、特攻せず 戦後60年目の証言』2005年5月
  4. ^ 御田重宝『特攻』講談社145頁
  5. ^ 『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』39-40頁
  6. ^ 柳田邦男『零戦よもやま物語』光人社214頁
  7. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫40-41頁
  8. ^ 猪口力平中島正『神風特別攻撃隊の記録』雪華社、p.172
  9. ^ 『昭和史忘れえぬ証言者たち』p.57
  10. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫60-62頁
  11. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫82-83頁
  12. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫86頁
  13. ^ 『昭和史忘れえぬ証言者たち』p.54
  14. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫104-108頁
  15. ^ 『昭和史忘れえぬ証言者たち』p.56
  16. ^ 宇垣纏『戦藻録』原書房542頁
  17. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫267頁
  18. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫278頁
  19. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫280頁
  20. ^ 森史朗『特攻とは何か』文春新書
  21. ^ 渡辺洋二『特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫109頁
  22. ^ 『昭和史忘れえぬ証言者たち』p.58

著書

  • 『まぼろしの戦斗部隊史』高知県防衛協会、1969年
  • 『大正っ子の太平洋戦記』美濃部篤子、1999年

参考文献

  • 海兵六十四期生編集委員会『海兵六十四期生』
  • 渡辺洋二特攻拒否の異色集団彗星夜襲隊』光人社NF文庫。 
  • 保阪正康『昭和史忘れ得ぬ証言者たち』講談社文庫、2004年。ISBN 4-06-274942-4 
  • 秦郁彦『太平洋戦争航空史話(下)』中公文庫、1982年。 
  • 宇垣纏戦藻録』原書房、1977年。