絞首刑
絞首刑(こうしゅけい)とは、死刑の一種で、絞殺する刑罰である。絞殺刑(こうさつけい)ともいう。
絞首刑の医学
ヒトの頚には前頚部に頚動脈(脳以外の部分に血液を送る)、後頚部には椎骨動脈vertebral artery(脳に血液を送る)の2本の動脈がある。椎骨動脈は椎骨の凹み(第1- 6頚椎の横突孔)の中を通っているので首を絞めても閉塞できないが、索状物(ひも)を顎の下から耳の後ろを通るように頚にかけ、体重によってこれを絞める縊首は、脊椎動脈が脊椎から離れ頭蓋骨に入る無防備な部分を圧迫し閉塞する。これによって脳に急性貧血を生じさせ、受刑者に速やかな失神状態をもたらす。柔道で絞められた時に意識を失うことを「落ちる」というが、絞め技のうち頸動脈を絞める技(十字絞、送襟絞、片羽絞など)により意識を失った状態に至る原理はまさにこれと同じであり[1]、脳の活動停止によって一瞬で意識を失い心臓が止まるのである。そのままの状態が数分間続けば、脳細胞が酸素欠乏によって不可逆的な機能消失、つまり脳死に至る。
日本
日本では律令法において、「絞」という呼称で呼ばれる。江戸時代の日本で行われていた 縛り首は、地上で首に縄をかけ、縄の両端を持った二人が縄をねじって締める方法で絞首していた。
江戸時代の「縛り首」、また1873年(明治6年)に制定された絞罪器械図式以前による絞首は、気道を閉塞することによって窒息死をもたらすものであって開始から数分間は意識があり数分~十数分間、受刑者がもがき苦しむため「落下式(縊首)」の方法に改められた。
現在の日本における死刑の執行は、落下のエネルギーを用いて刑が執行されるので、より細かい区分では「縊首(いしゅ)刑」ともいう。ただし、首を絞めることは同じなので絞首の一形態であるとするのが最高裁判所の判例(死刑受執行義務不存在確認訴訟)である。
日本以外の各国
イスラム教諸国の中でもサウジアラビアでは、落下エネルギーを用いるのでなく、ビニール製のやわらかいロープを首にかけてクレーンでゆっくりと吊り上げる方法で行われる。この方法ではロープが脊椎動脈からずれることが多いため、前述のとおり窒息死となり死亡までに長時間(8 - 10分)かかり、多大な苦痛の末に死亡する。 2007年に行われたときにはクレーンには工事などで使う重機が使われていた、この死刑は公開処刑で行われ、サウジアラビアの国営放送で放送された。
クレーンで吊るす絞首刑を行ったのはイギリスの死刑執行人であるデリックだといわれており、現在でも船舶用クレーンをデリックと呼ぶのは処刑人の名前に由来している。
イランではトラックの荷台の上に人を立たせておいて、首縄をかけてからトラックを発進させることで足場を取り去る方法での絞首刑が公開処刑で行われており、テレビでも放送されている。
スペインでは鉄環絞首刑(w:es:Garrote vil)と呼ばれるスペイン独自の絞首刑が1974年、死刑廃止の直前まで行われていた。世界的にも残酷な絞首刑だと言われている。
一部の絞首刑で頸部が切断される問題
落下エネルギーを用いる場合、落下距離が長すぎると首が千切れることがある。 実際にアメリカでは1901年4月26日に行われたトーマス・エドワード・ケッチャムの死刑執行で首が千切れているが、首が切断された事故は、この例に限らず世界各国で報告されている。
以下において、△は切断寸前だが完全に切り離されるには至っていない例。単に傷が付いた例ではない。
米国
- △エリザベス・ポッツ(Elizabeth Potts) 1890年6月20日 ネヴァダ州エルコ[2]
- エヴァ・デュガン(Eva Dugan) 1930年2月20日 アリゾナ州フェニックス[3]
- △メージャー・リゼンバー(Major Lisemba) 1942年5月1日カリフォルニア州サンクェンティン[4]
- △グラント・リオ(Grant Rio) 1951年12月 ワシントン州ワラワラ[5]
英国
- モーゼス・シュリンプトン(Moses Shrimpton) 1885年5月25日 ウスターシャー[6]
- ロバート・グッダル(Robert Goodale) 1885年11月30日 ノーリッジ[7]
- ジョン・コンウエイ(John Conway) 1891年8月20日 リバプール[8]
カナダ
オーストラリア
- トーマス・ムーア(Thomas Moore) 1897年6月24日 ニューサウスウェールズ州ダボー[11]
- ジェームズ・ワートン(James Warton) 1905年7月17日クイーンズランド州ブリスベーン[12]
- チャールズ・オジャーズ(Charles Odgers) 1914年1月14日 西オーストラリア州フリーマントル[13]
最近でも、2007年1月15日にイラク・バクダードで処刑されたサダム・フセインの異父弟バルザン・イブラヒム・アル=ティクリティ(バルザーン・イブラーヒーム・ハサン)の例があり、首がちぎれて血だまりができた様子を撮ったビデオが一部の報道関係者に公開されている[14]。
日本
実際に日本でも、首がほとんど切断された事故が発生していたことが報道されている。明治16年(1883年)7月6日の小野澤おとわという人物の絞首刑執行の際、「刑台の踏板を外すと均(ひと)しくおとわの体は首を縊(くく)りて一丈(いちじょう)余(よ)の高き処(ところ)よりズドンと釣り下りし処、同人の肥満にて身体(からだ)の重かりし故か釣り下る機会(はずみ)に首が半分ほど引き切れたれば血潮が四方あたりへ迸(ほとばし)り、五分間ほどにて全く絶命した」[15]、「とわが肥満質にて重量(おもみ)のありし故にや絞縄がふかく咽喉に喰込みしと見え鼻口咽喉より鮮血迸(ほとば)しり忽地(たちまち)にして死に就たるにいとあさましき姿なりし。稍(やや)あって死体を解下(ときおろ)されたれど絞縄のくい入りてとれざる故、刃物を以て切断し直に棺におさめられ」た[16]と、当時の新聞にその様子が描かれている。
絞首刑の人道問題
欧米では絞首刑を非人道的な刑罰と考える傾向が強い。そのため、全世界では絞首刑は減少傾向にある。
ソビエト連邦では戦時中に「木に吊るす」という慣用句ができたほど絞首刑が頻繁に行われた。一方アメリカ合衆国では絞首刑を廃止して薬物投与などへ切り替えている。逆に、受刑者の苦痛を理由に、薬物投与の方法を廃止する州も見られる。
ただし、欧米で絞首刑が残酷な刑罰としてのイメージが広まった背景には中世での処刑は公開処刑が普通であり、絞首刑で公開処刑された受刑者は吊るされたまま公開、放置され、見せしめのための刑罰というイメージが強いことにも影響されている。
日本においては、元検察官の土本武司が、絞首刑について「正視に堪えない。限りなく残虐に近いもの」と述べている[17]。
絞首刑をめぐる俗説
絞殺刑の絞首台の階段は俗に十三階段といわれるが、これは西洋の刑場に多く、最後の晩餐の出席者がキリストとユダを含めて13人だったことに由来する。
なお実際には階段の段数は千差万別である。日本の刑場は隣室から続く床面に落下口が設けられているので階段はなく水平に歩いて落下口まで到達できる。「階段」や「台」がある場合、被執行者が暴れた場合、執行を行うのに労力を必要とされるからである。またごくまれに首にかけた縄が死刑執行のときに外れてしまう場合がある。
脚注
- ^ 柔道の絞め技には、頸動脈を絞める技と、裸絞や袖車絞などのように気道を絞める技がある。
- ^ Rutter, Michael (2008). Bedside Book of Bad Girls. Farcountry Pr
- ^ Time,1930.3.3
- ^ ダフィ, クリントン『死刑囚-88人の男と2人の女の最期に立会って』サンケイ出版、1978年。
- ^ the Seattle Times,1993.1.4
- ^ TIMES,1885.5.26
- ^ McConville, Sean (1995). English local prisons, 1860-1900. Routledge
- ^ McConville, Sean (1995). English local prisons, 1860-1900. Routledge
- ^ フレデリックトン(ヨーク郡拘置所)のサイト
- ^ Hoshowsky, Robert J. (2007). THE LAST TO DIE RONALD TURPIN, ARTHUR LUCAS, AND THE END OF CAPITAL PUNISHMENT IN CANADA. Routledge
- ^ The Brisbane Courier,1896.11.25
- ^ Otago Witness, 1905.6.7
- ^ Northern Territory Times and Gazette,1914.1.22
- ^ The New York Times, 2007.1.16
- ^ 『読売東京新聞』1883年7月7日
- ^ 『東京絵入新聞』1883年7月7日
- ^ 「絞首刑は残虐」元検事の土本名誉教授証言 / MSN産経ニュース 2011年10月12日(JST)閲覧