筑摩郡
筑摩郡(つかまのこおり、ちくまぐん)は信濃国にかつて存在していた郡(令制国)。
国府があった現在の松本市を中心とした地域で、1879年(明治12年)1月14日に郡区町村編制法に基づき東筑摩郡と西筑摩郡に分かれた(西筑摩郡は後に木曽郡に改称)。現在の市町村では松本市(梓川地区、安曇地区を除く)、塩尻市、安曇野市のうち田沢・光・川手地区、東筑摩郡、木曽郡及び岐阜県中津川市山口・馬籠・神坂地区が該当。
歴史
仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、熱躬郡(後に「安曇郡」に改称)と熱躬川(後に梓川に改称)が決められたが、おそらくこのときに筑摩郡と筑摩川(後に千曲川に改称)も決められた可能性が示唆されている[1]。この頃の筑摩郡は、後の更級郡となる地域を含んでいた。後に筑摩郡から更級郡が分かれた際(天智天皇7年(668年)あたり?)、更級郡の川にもかかわらず、千曲川に「つかま/ちくま」の字が残ることとなった。
奈良時代のころは束間と書かれていた。二十巻本の和名類聚抄(巻5・17)には万葉仮名で「豆加萬(つかま)」と訓が記載されており、延喜式(巻10)でも「つかまのこおり」となっている。明治までは「つかま」と呼ばれていたが、読みにくいことから「ちくま」に変えられた。しかし、松本市などでは筑摩神社や市立筑摩小学校のように「つかま」と呼ばれることもある。
木曽地域は鎌倉時代に美濃国恵那郡から編入された部分である。また、古代には麻績郷が更級郡に属していた。郡衙の位置は未詳だが、松本市が最有力と見られる。