石田梅岩

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梅岩塾の様子(ガレリアかめおか・京都府亀岡市)

石田 梅岩(いしだ ばいがん、貞享2年9月15日1685年10月12日) - 延享元年9月24日1744年10月29日))は江戸時代思想家倫理学者石門心学の開祖。名は興長。通称、勘平。

概要

丹波国桑田郡東懸村(現:京都府亀岡市)に、百姓の次男として生まれる。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷へ帰る。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働く。1727年に出逢った在家の仏教者小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始め、45歳の時に借家の自宅で無料講座を開き、後に『石門心学』と呼ばれる思想を説いた。すなわち「学問とは心を尽くし性を知る」として心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学としている。したがって梅岩自身は『性学』といっていたが手島堵庵のなどの門弟たちによって『心学』の語が普及した。当初は男子のみを対象としていたが、聴講を望む婦女子多く、障子越しの別室にて拝聴を許された。1744年、60歳で死去。

その思想の根底にあったのは、宋学の流れを汲む天命論である。同様の思想で石田に先行する鈴木正三職分説が士農工商のうち商人の職分を巧く説明出来なかったのに対し、石田は長年の商家勤めから商業の本質を熟知しており、「商業の本質は交換の仲介業であり、その重要性は他の職分に何ら劣るものではない」という立場を打ち立てて、商人の支持を集めた。最盛期には、門人400名にのぼり、京都呉服商人の手島堵庵(1718年1786年)をはじめ「松翁道話」を著した布施松翁1725年1784年)心学道話の最高峰とされる「鳩翁道話」の柴田鳩翁1783年1839年)このほかに・斎藤全門大島有隣等優れた人材を輩出した。明治以降に心学の教えを引き継いだ実業家として知られた者に、野間清治松下幸之助らがいる[1]。倹約の奨励や富の蓄積を天命の実現と見る考え方はアメリカの社会学者ロバート・ニーリー・ベラーによってカルヴァン主義商業倫理の日本版とされ、日本の産業革命成功の原動力ともされた。

石門心学の再評価

1970年代頃からの環境問題への意識の高まりや、企業の不祥事が続く中、CSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)ということが欧米を中心に盛んに言われるようになったが、そのような背景の中で「二重の利を取り、甘き毒を喰ひ、自死するやうなこと多かるべし」「実の商人は、先も立、我も立つことを思うなり」と、実にシンプルな言葉でCSRの本質的な精神を表現した石田梅岩の思想は、近江商人の「三方よし」の思想と並んで、「日本のCSRの原点」として脚光を浴びている。その思想もやはり営利活動を否定せず、倫理というよりむしろ「ビジネスの持続的発展」の観点から、本業の中で社会的責任を果たしていくことを説いており、寄付や援助など本業以外での「社会貢献」を活動の中心とする欧米のCSRにはない特徴がある。

主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。

現在、京都府亀岡市の道の駅ガレリアかめおか内に石田梅岩記念施設「梅岩塾」が併設されている。

大阪府堺市堺区菅原神社 (堺市)に座像が安置されている。また、橋上駅に改築された出身地のJR亀岡駅の改札前に、新造の座像が置かれている。

2011年平成23年)には、梅岩の教えを広めるため、マスコット・キャラクター「しんがくん」が作られ[2]着ぐるみによるイベント出演や関連グッズ開発が行なわれている。

短歌

  • 慈悲まこと正直も皆我身より現はれ出る光ぞと知る,道歌[3]

脚注

  1. ^ 『世界をつくった八大聖人: 人類の教師たちのメッセージ』一条真也, PHP研究所, 2008
  2. ^ キャラ決定「しんがくん」 石田梅岩の教えを広める 亀岡市民新聞、2011-08-29
  3. ^ 今昔秀歌百撰 55 井上雅夫

参考文献

関連項目

  • 松下幸之助 - 同じく丁稚から身を起こし、梅岩に倣ってPHP研究所を設立し倫理教育に乗り出す一方、晩年は松下政経塾を立ち上げ政治家の育成にも意を注いだ。

外部リンク