武漢作戦

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武漢作戦(武漢会戦)

国民革命軍の機関銃
戦争日中戦争
年月日1938年(昭和13年)6月11日 - 10月27日
場所中国湖北省武漢とその近郊
結果:日本軍の勝利
交戦勢力
大日本帝国陸軍中支那派遣軍 中華民国国民革命軍
ソ連空軍志願隊[1]
指導者・指揮官
畑俊六大将 蒋介石委員長
戦力
兵員:350,000(9個師団)
航空機:500
艦船:120
兵員:1,100,000(120個師団)
航空機:200
損害
戦死:9,500(第2軍:2300、第11軍:4506)
負傷:26,000(第2軍:7300、第11軍:17380)
病死:900(第2軍)
遺棄死体:195,500
捕虜:11,900
国民革命軍

武漢作戦(ぶかんさくせん)は、日中戦争の戦い。武漢三鎮攻略戦もしくは武漢攻略戦とも呼称される。中国側呼称は武漢会戦武漢保衛戦

背景

徐州会戦後も蒋介石政権は日本に対し徹底抗戦を続け、事変解決へは至らなかった。この作戦は蒋介石政権の降伏を促すため、広東作戦とともに中国の要衝を攻略することを目的とし、日中戦争中最大規模の30万以上の兵力で行なわれた。また日本国内ではこの動員・巨額の出費のため、政府は1938年5月5日国家総動員法を施行、同月近衛文麿内閣を改造した。

経過

武漢作戦は前線と後方連絡との関係から、安慶馬当鎮湖口を含む九江の占領までの第一段、田家鎮要塞を落として江北の蘄春と江南の陽新の占領までの第二段、武漢三鎮の攻略戦の第三段に分けて考えられていた。大本営は6月18日に武漢作戦の準備を命令。8月22日に目的は要地武漢三鎮の占領であるとし、通城岳州を進出限界線として要地の占領とその間の敵の撃破を命令した。新たに編成された第11軍と、北支那方面軍から転用された第2軍により進攻が開始され、9月下旬に揚子江下流北岸の田家鎮と南岸の馬頭鎮の両要衝が陥落、10月17日に蒋介石漢口から撤退、10月25日には中国軍は漢口市内から姿を消し第6師団が突入10月26日に占領した。また第27師団が11月9日に通城を、第9師団が11月11日に岳州を占領し、進出限界に達し作戦は終了した。

参加兵力

日本軍

中国軍

脚注

  1. ^ Soviet Fighters in the Sky of China(1937-1940)

関連項目