樋口杏斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2022年6月27日 (月) 06:58; Anakabot (会話 | 投稿記録) による版 (Bot作業依頼#Cite bookの更新に伴う修正)(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
ひぐち きょうさい

樋口 杏斎
1906年(明治39年)65歳で退職の年
生誕 樋口健三
天保13年6月7日1842年7月14日
阿波国那賀郡櫛淵村
死没 1917年大正6年)11月11日
徳島県那賀郡立江町大字櫛淵
記念碑 樋口先生碑(櫛渕八幡神社)
国籍 日本の旗 日本
職業 櫛渕尋常小学校教員
活動期間 元治元年(1864年)1月 - 1906年(明治39年)3月30日
影響を受けたもの 櫛淵駒蔵、湯浅道輔、寺沢道庵、阿部有清
影響を与えたもの 喜田貞吉
配偶者 サダ、シゲ
子供 ジツ、啓三、才二、ヒデコ
才庵、サマ
テンプレートを表示

樋口 杏斎(ひぐち きょうさい、天保13年6月7日1842年7月14日) - 1917年大正6年)11月11日)は幕末明治時代徳島県の教育者。名は健三[1]元治元年(1864年)、櫛淵村(小松島市櫛渕町)の自宅に寺子屋敬義斎を開き、1874年(明治7年)に櫛渕小学校(現小松島市立櫛渕小学校)に改組、1906年(明治39年)に退職するまで長く初等教育に携わった。日本史学者・喜田貞吉の恩師。

生涯[編集]

維新前[編集]

天保13年(1842年)6月7日、阿波国那賀郡櫛淵村に医者・樋口才庵の長男として生まれた[2]

嘉永元年(1848年)1月から父・才庵より習字、素読を習い、安政4年(1857年)1月から名東郡富田浦の櫛淵駒蔵、安政6年(1859年)4月から富田幟町[3]の湯浅道輔に漢学を学び[2]岡本斯文に経史学を学んだ[4]文久3年(1863年)に帰郷し、父や寺島町の寺沢道庵に漢方医学を学んだ[2]

元治元年(1864年)1月、自宅に寺子屋「敬義斎」を開き、村民に読み書き算盤を教えた[2]。1873年(明治6年)6月より寺島町の阿部有清[2]代数学幾何学を学び[5]アイザック・トドハンター英語版の代数書を取り寄せて研究した[3]

櫛渕小学校時代[編集]

1874年(明治7年)4月20日、敬義斎の塾舎を利用して名東県櫛淵小学校が開設され、授業を担当した[2]。当初は6年12学級の生徒50~60人を一人で教えたが、生徒が増加すると1882年(明治15年)に旧神宮寺本堂に移り、他の教員も加わった[6]

1881年(明治14年)1月6日、父・才庵が死去すると[2]、代々の家業を絶ちたくないとの思いから、副業として医業を継いだ[7]

1875年(明治8年)5月5日、名東県により2等授業生となり、1877年(明治10年)2月16日に3等授業生、 1878年(明治11年)5月1日に2等授業生、1880年(明治13年)5月14日に5等助訓、11月29日に小学准訓導、1882年(明治15年)2月1日に5等訓導、1883年(明治16年)11月13日に4等訓導[2]

1885年(明治18年)8月4日、期限満了により教員補助となったため、1887年(明治20年)2月10日、小学簡易科教員の資格を取得して19日に授業生に戻り、1892年(明治25年)6月30日に小学校訓導、1893年(明治26年)3月6日に徳島県尋常小学校本科正教員となった[2]

1901年(明治34年)4月2日、正式に櫛淵尋常小学校長に就任した[2]

退職後[編集]

1893年(明治26年)に正教員となってから1906年(明治39年)に65歳でようやく恩給年限に達した際[8]、高齢のため村長に退職を勧められ[9]、3月30日に依願退職した[2]。退職後、村民により敬義会が組織され、毎月小学校で講話を行い、また農業改良や副業について研究が行われた[10]

1917年(大正6年)秋、病床に就き[11]、11月11日死去した[2]

敬義会はその後も活動を続け、1960年代に組織としては消滅したが、1967年(昭和42年)当時の会長が櫛渕公民館館長に就任し、活動は公民館に受け継がれている[12]

樋口家[編集]

曽祖父・斎庵が古毛村から櫛淵村に移住し[13]、祖父・文益、父・才庵と代々医業を営んだ[14]。弟・庸節は勝浦郡芝生村吉田家を継いだ[15]

慶応年間、勝浦郡飯谷村の多田邦太郎の妹・サダと結婚し、1867年(慶応3年)にジツ、1874年(明治7年)4月7日に啓三、1879年(明治12年)1月19日に才二を儲けた[2]

1882年(明治15年)8月2日、妻サダが35歳で死去し、1883年(明治16年)4月9日に長女ジツも夭逝したため、1883年(明治16年)3月27日那賀郡坂野村の広沢岩吉の三女・シゲと再婚した[2]。シゲは弟・庸節の妻の妹で、若年で病により髪が抜け、婚期を逃していたため、庸節夫妻により結婚が取り持たれた[16]。1885年(明治18年)1月29日に生まれたヒデコは[2]、1902年(明治35年)に坂野村の伊丹重美に嫁ぎ千葉県に赴任したが、1903年(明治36年)冬、妊娠により帰郷中、12月12日出産の事故により死去した[17]

嫡男・啓三は1893年(明治26年)6月17日、立江村の坂東広の長女ヒサミと結婚し、1897年(明治30年)1月13日に長女・堯子(たかこ)を儲けた[2]。1896年(明治29年)12月、志願して歩兵第12連隊に入隊し、除隊後正八位歩兵少尉[18]。1904年(明治37年)、日露戦争に後備歩兵第43連隊として出征し、遼陽会戦で負傷、10月12日の沙河会戦三塊石山で戦死した[18]従七位勲六等功五級陸軍歩兵中尉[13]

1914年(大正3年)4月27日、勝浦郡生比奈村の山川善蔵の次男・耕一を孫・堯子の婿に迎えた[2]。耕一は杏斎の希望通り医業を学び[19]、1916年(大正5年)に愛知県医学専門学校を卒業し、徳島市住吉町馬場南43番地に開業し[20]、1917年(大正6年)11月24日、杏斎から家督を相続した[2]

脚注[編集]

  1. ^ 喜田 1933, p. 12.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 喜田 1933, pp. 1–10.
  3. ^ a b 喜田 1933, p. 25.
  4. ^ 喜田 1933, p. 21.
  5. ^ 喜田 1933, p. 22.
  6. ^ 喜田 1933, pp. 22–23.
  7. ^ 喜田 1933, pp. 30–31.
  8. ^ 喜田 1933, p. 24.
  9. ^ 喜田 1933, p. 29.
  10. ^ 喜田 1933, p. 38.
  11. ^ 喜田 1933, p. 37.
  12. ^ 寺西 2008.
  13. ^ a b 喜田 1933, p. 13.
  14. ^ 喜田 1933, p. 30.
  15. ^ 喜田 1933, p. 14.
  16. ^ 喜田 1933, pp. 14–15.
  17. ^ 喜田 1933, p. 18.
  18. ^ a b 喜田 1933, p. 16.
  19. ^ 喜田 1933, p. 33.
  20. ^ 本田 1925, p. 徳島県3.

参考文献[編集]

外部リンク[編集]