杉浦茂

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杉浦 茂(すぎうら しげる、1908年4月3日[1] - 2000年4月23日)は、日本漫画家である。東京都本郷区湯島新花町生まれ。戦前はユーモア漫画を多く描いたが、戦後に手掛けた多くの独特でナンセンスなギャグ漫画は熱狂的な人気を呼んだ。

概要

井上晴樹は杉浦の創作活動を三期に分けている[2]。第一期の戦前期ではユーモア漫画や教育漫画、徴兵を挟んで戦後の第二期は一転してナンセンスな子供向け漫画を多く手掛けた。このころの仕事はその殺人的な仕事量と多くの代表作が生み出されたことから杉浦茂の黄金期とされ、「奇跡の5年間」とも表現される[3]。その後仕事の休止を挟んで1968年からの第三期ではシュールレアリスムを思わせる奔放な漫画を描いた。

生涯

生誕

杉浦は東京市湯島に医者の三男として生まれた。湯島小学校時代は友人に恵まれ様々な小説や立川文庫など講談趣味を教わり、後の漫画創作の下地を作っていった。週末には本郷の第五福宝館などで、長じてからは新宿の武蔵野館で映画ばかりを見る生活を送る。ここで盛んに鑑賞したアメリカ製の喜劇物や西部劇はこれも戦後の漫画の元ネタともなっていく。また、二十歳ごろからは兄が定期購読していた『新青年』(博文館発行)や様々な大衆小説にも親しんだ[4]

杉浦は中学時代に、当時の人気漫画家だった北沢楽天とその一門に影響されて初めての漫画(ポンチ絵)を描いた。四ページほどのこの滑稽なコマ漫画は後の漫画家人生の原点になったという[5]

しかしその後は漫画を描くことはなかった。杉浦自身が語るところによると、漫画家になるまで特に漫画への興味、知識は無かったという[6]。杉浦の目標はプロの西洋画家になることであった。杉浦の父は日本画好きで描きもした[7]が、杉浦の興味は西洋画にあった。杉浦はよく父と二人で文部省美術展覧会(文展、後の帝展、日展)に通っていた。

1924年にその父の急死もあってお金がないため美術学校(芸大)には通えなかったが、1926年から1930年まで太平洋画会研究所に入所し、西洋画の制作にとりくんだ。また、1927年から1931年まで洋画家の高橋虎之助にも師事している。1930年には日本美術展覧会(日展)の前身である第11回帝国美術院展覧会(帝展)洋画部に油彩(50号)の風景画『夏の帝大』で入選した。杉浦は好んで西洋建築のある風景画を描いた。人物画をやるにはモデルを雇う金が無かったというのもあった。

そのデッサン中に野獣派長谷川利行横山潤之助とも知り合うことができた。杉浦は画業を捨て漫画業に専念するようになってからも松野一夫霜野二一彦の親交を得ている[8]。父亡き後、この絵画修行は医者になった二人の兄の助けが無ければ続かなかったという[9]

漫画家へ(第一期)

杉浦の悩みは全ての金銭関連を兄の援助に頼っていたことだった。そこで杉浦は一念発起して洋画家の道を諦め、別の道を目指すことにした。知人から漫画家田河水泡の紹介状を貰ったが[10]、その後三カ月よく勝手の分らない漫画家の道を目指すかどうか悩み続けた。そしてついに1931年4月、田河のもとを訪ね、門下生となったのだった。田河はこのときすでに代表作『のらくろ』により売れっ子作家となっていて、漫画をよく知らない杉浦も名前は知っていた。実は田河も杉浦と同じように芸術家出身であり、村山知義主催の芸術集団MAVO にも参加していた前衛芸術家であった。杉浦弟子入りの数日後には倉金とらお(倉金章介)も門下になり、それまで一人も弟子がいなかった田河に急に二人も門下生できたことになる(もう少し後には長谷川町子も門下に加わった)。

田河は制作環境に接していれば漫画は自然と分るものだという考えから、特に漫画の指導らしい指導をしなかった[11]。試行錯誤の末一枚ものの「どうも近ごろ物騒でいけねえ」を『東京朝日新聞』に掲載、デビューした。[12]。その後もいくつかのユーモアな短中篇作品を少年誌に掲載した。そんな杉浦の仕事は、洋画家の岩月信澄栗原信門下)と日本画家の加藤宗男堅山南風門下)という同い年の二人の親友の手助けがあった。二人は杉浦が洋画の道を目指していたときに知り合った[13]

1937年、田河門下生を中心に田河を盟主とした昭和漫畫會が結成され、その一員となった。この頃より、軍役召集が始まり、漫画家にも令状が届くようになったため、田河肝煎りで始まり、その5月より創刊した『小學漫畫新聞』[14]もすぐに発行が止まった。1941年には倉金自らが志願し陸軍省の軍属となり、現地撫民の新聞編集者としてサイゴンフランス領インドシナ)へ派遣された。また、国家統制に関る漫画家団体として、1939年、宮尾しげをを会長として日本兒童漫畫家協會が結成され、杉浦は昭和漫畫會同人全員とともに参加することとなった。この後も1942年に少年文學作家畫家協會が、1943年には日本に居た全漫画家が入会した日本漫畫奉公會(会長北沢楽天[15]が結成され、杉浦も参入した。1941年には初めての単行本『ゲンキナコグマ』を國華堂書店より出版した。このころより社会の風潮から雑誌から単行本へと発表の場を変え、啓蒙的な教育作品を制作していく。

しかしその後は漫画の仕事も無くなり、漫画家としての生活を諦める寸前にまでなった。1943年に結婚したものの、将来に不安を覚える毎日で、その前年に出した『コドモ南海記』(國華堂書店)の印税が頼りだったという[16]。そんな折電車内で、通勤途中であった旧友の漫画家の岡田晟(倉金と同郷で親友であった)とばったり出会い、そのまま同行して岡田の勤め先である映画会社の茂原映画研究所に就職した。杉浦の後も、仕事に困っていたこれも旧知の漫画家の帷子進や挿画家の荒井五郎もここで働いた。杉浦は軍関連の教材映画のセル画の仕事を任された[17]

杉浦は元来病弱であり徴兵検査で丙種とされていたため令状は来ないものと思っていたところついに1945年7月、召集を受けた。世田谷砲兵連隊に入隊、熊本県への派兵となった。アメリカ軍の有明海上陸に備え玉名郡梅林村の梅林國民學校(現玉名市立梅林小学校)に駐屯したが、急な環境の変化[18]と栄養失調[19]により下痢を起こし、半病人となった。

戦後の黄金期(第二期)

終戦後9月末に復員したが1946年まで漫画の仕事は無く、さつまいもを中心に食料の確保に専念した。日本映画社(日映)に吸収された茂原映画研究所はアニメ映画専門の会社となった。ここでは後に漫画家となる福井英一と知合えたものの、杉浦と帷子はアニメ映画が大嫌いだったことから一緒に会社を辞めることにした。

1946年、帷子進より出版社の新生閣社長鈴木省三を紹介してもらった[20]。鈴木は小学館出身であり、新生閣では当時大流行していたこども漫画に力を入れていた。杉浦は『冒険ベンちゃん』を描き下ろし、同社より単行本として出版された。これが戦後初仕事となった。その後新生閣からは西部劇を中心に執筆し、同社発行誌の『少年少女漫画と読物』では『冒険ベンちゃん』や『弾丸トミー』、『コッペパンタロー』(後に『ピストルボーイ』に改題)を連載した。鈴木は経営不振の責任を取って新生閣社長を辞任後、1953年に小学館出版部長に復帰したが、集英社出版部長も兼任した。鈴木は集英社から『おもしろ漫画文庫』を創刊し、杉浦の代表作となる『猿飛佐助』はその21巻目としてここで描かれることとなる。同作は12万部も刷られ、同文庫の中で一番の売上をみせる大ベストセラーとなった[21]。1954年、この大好評を受けて『猿飛佐助』は『おもしろブック』(集英社)に雑誌連載となった(1954年3月から1955年12月まで)。この連載は『続猿飛佐助』としてやはり『おもしろ漫画文庫』の一巻にまとめられた。また、この『猿飛佐助』の好評は杉浦の仕事を大幅に増やし、それから1956年の五年間の間に杉浦の代表作と言われる長篇作品が様々に描かれることになった[3]

この時代の杉浦には三人のアシスタントがいた。その内杉浦門下となった若者は二人。一人は斉藤あきら、もう一人は藤巻悟郎である。もう一人は戦前から引き続き加藤宗男が杉浦を手伝っていたが、加藤はその後早くに逝去、藤巻は漫画家の道を諦めたため、長く杉浦の元に残ったのは斉藤だけとなった。[22]。戦前の杉浦は初心者だったにも関らず師匠の田河からあまり漫画について教わらなかったと書いた。斉藤も1954年[23]の入門当時漫画についてはほぼ無知の状態であった。だが、アシスタント業については杉浦の自宅訪問当日にぶっつけ本番であり、その後も杉浦の見よう見まねでの作業が続いた。また、漫画のアイデア出し方など漫画制作の根本に関る様なことはほぼ話し合なかった。ただ、田河がそうだったように杉浦も斉藤には仕事を紹介した。斉藤は高野よしてる手塚治虫横山光輝の元でもアシスタントをし、後に独立して「ジャガープロ」を設立した。その後ジャガープロは赤塚不二夫のフジオ・プロダクション「斉藤班」となり、斉藤は赤塚不二夫のアシスタントもしたが、他の先生のそれと比較して杉浦の仕事振りの独特さに驚いたという。

この子供向け漫画を中心とした第二期の活動は1966年まで続いた。

第三期

1960年代、ストーリー漫画が主流となり、子供向け漫画専門の杉浦は苦戦するようになった。慣れぬ持ち込みをしたり、また時流に乗る様な大人漫画も描いたことがあったものの、その後かなり後悔し、大人漫画について、だいぶ後に杉浦の著作集として編まれる『杉浦茂マンガ館』(筑摩書房)の一篇とすることを断った。

井上は1968年からが第三期とする。杉浦はとにかく漫画は面白さだと考えていた。この時期はさらに作風が奔放になり、また画家としての仕事の続きの様でもある、シュールレアリスティックでサイケデリックな作品を多く手掛けた。1969年の『虫コミックス』での『猿飛佐助』単行本の復刊の折には杉浦みずからの手によって収録作は大胆に、よりはちゃめちゃに改変された。だが杉浦の元にはそのことに対しての読者の抗議が来、以降は改変をやめた[24]。そして1996年、88歳になった杉浦は『杉浦茂マンガ館』第五巻のために「2901年宇宙の旅」を描き下ろし、六十四年に及んだ長い長い画業を終えた(以降も年賀状などにイラストを描いてはいる)。1999年、杉浦は交通事故にあって腰の骨を折り、寝たきりになり、その後椅子に座れるほどには少し恢復したものの2000年4月23日、腹膜炎により死去した[25]

作品リスト

  • 『猿飛佐助』筑摩書房〈ちくま文庫〉、1995年、ISBN 4480030476
  • 『猿飛佐助』(筑摩書房『少年漫画劇場』 第5巻1971年所収)
  • 『モヒカン族の最後』 - 『猿飛佐助』とならんで「戦後」「大ヒット」[26]したとされる。
  • 『弾丸トミー』(筑摩書房『少年漫画劇場』 第8巻1971年所収)
  • 『痛快カウボーイ』[27]
  • 『少年西遊記』全3巻、河出書房新社〈河出文庫〉、2003年、ISBN 4309406882(第1巻)、ISBN 4309406890(第2巻)、ISBN 4309406904(第3巻)
  • 『少年児雷也』全2巻、河出書房新社〈河出文庫〉、2003年、ISBN 4309406912(第1巻)、ISBN 4309406920(第2巻)
  • 『円盤Z』河出書房新社〈河出文庫〉、2003年、ISBN 4309406971
  • 『ドロンちび丸』青林堂オンデマンド版〉、2005年、ISBN 486188229X
  • 『杉浦茂傑作選集 怪星ガイガー・八百八狸』青林工藝舎、2006年、ISBN 4883792285
  • 『杉浦茂マンガ館』全5巻、筑摩書房、1993-6年、ISBN 4480701419(第1巻「知られざる傑作集」)、ISBN 4480701427(第2巻「懐かしの名作集」)、ISBN 4480701435(第3巻「少年SF・異次元ツアー」)、ISBN 4480701443(第4巻「東洋の奇々怪々」)、ISBN 4480701451 (第5巻「2901年宇宙の旅」) - 初期から晩年に及ぶ幅広い作品を集めたもの。第5巻の表題作「2901年宇宙の旅」は全編描き下ろした新作であり、遺作として知られる。
  • コドモ南海記(『杉浦茂マンガ館』第1巻所収)
  • アップルジャム君(『杉浦茂マンガ館』第2巻所収)
  • 冒険ベンちゃん(『杉浦茂マンガ館』第2巻所収)
  • ピストルボーイ(『杉浦茂マンガ館』第2巻所収)
  • ミスターロボット(『杉浦茂マンガ館』第3巻所収)
  • ゴジラ(東宝映画の漫画化、同ストーリーながらまったく違う作品、『杉浦茂マンガ館』第3巻所収)
  • 聊斎志異(中国清代の怪異譚の漫画化、『杉浦茂マンガ館』第4巻所収)
  • ミフネ(『杉浦茂マンガ館』第5巻所収)
  • 『杉浦茂のちょっとタリない名作劇場』 筑摩書房、1993年、ISBN 4480872272

脚註

  1. ^ 『著作権台帳』第二十六版、日本著作権協議会、2001年によれば3月31日生。井上 (2002)p.194
  2. ^ 井上 (2002)p.164
  3. ^ a b 中野 (2009)p.80
  4. ^ 杉浦 (1988)pp.136-139.
  5. ^ 杉浦 (2002)pp.77, 78.
  6. ^ 杉浦 (1988)p.36
  7. ^ 井上 (2002)p.196
  8. ^ 杉浦 (1988)p.147-155.
  9. ^ 杉浦 (1988)p.147
  10. ^ 井上はこの知人を小説家の長田幹彦ではないかと推測している。長田は杉浦の遠縁であった。井上 (2002)p.196
  11. ^ 杉浦 (1988)p.37, 後藤 (2002)p.151
  12. ^ 杉浦 (2002)p.151。小野寺 (1988)p.191 では「思はぬ助け舟」(『少年倶樂部』1933年7月号、大日本雄辯會講談社(現講談社))と「クロ子のお使い」(『少女倶樂部』同)が雑誌デビューということでデビュー作となっている。この二作はそれぞれ一ページの作品であったが、田河の紹介で掲載された
  13. ^ 杉浦 (2002)p.40
  14. ^ 杉浦 (1988)p.186には『こどもマンガ新聞』とある
  15. ^ 杉浦の記述には「日本漫画報国会」(杉浦 (1988)p.187)や「日本漫画報公会」(杉浦 (2002)p.46)とあるが、清水 (2005)p.38 の記述に合せる
  16. ^ 杉浦 (2002)p.47, 48.
  17. ^ 杉浦 (2002)pp.164-166.
  18. ^ 杉浦 (1988)p.167
  19. ^ 杉浦 (1988)p.188
  20. ^ 杉浦 (1988)p.188
  21. ^ 鈴木 (1988)pp.30-32.
  22. ^ 斉藤 (2002)p.100, 102.
  23. ^ 杉浦 (1988)p.188, 189. には、1952年に斉藤、藤巻両者の入門とある。
  24. ^ 杉浦 (1988)p.173
  25. ^ 斉藤 (2002)p.81-83.
  26. ^ 筑摩書房『少年漫画劇場』 第5巻(1971年)奥付による。
  27. ^ 筑摩書房『少年漫画劇場』 第8巻(1971年)奥付による。

参考文献

外部リンク