朝山日乗
朝山日乗(あさやまにちじょう、生年不詳 - 天正5年9月15日(1577年10月26日)[1])は、戦国時代の日蓮宗の僧。
荒廃した皇居の修理費を勧進する念願を上奏し、後奈良天皇から日乗上人の号を賜ったという。日乗朝山(にちじょうちょうざん)とする説もあるが、朝山左衛門という弟が『言継卿記』に見えるため、朝山は姓であろう。諱は善茂。
生涯
彼の前半生については良く分かっていない。『フロイス日本史』によれば、次のような経歴であったとされる。
「 | 」 |
また地下家伝では、出雲国朝山郷の領主で尼子家臣だった朝山慶綱の子とされる。これらの事から出雲国出身で尼子氏の関係者であったと推測される。そのほか、比叡山で学んでいた時期もあるという(後述)。
山口についた日乗は毛利氏に気に入られ、小さな僧院を建立した。建立の資金は、かつての遍歴中、唐物の金襴の布着れを「天皇からたまわった天皇自身の衣服だ」と偽って販売して得たものだったという。
その後、京に移った日乗は、松永久秀と三好三人衆の戦いに介入しようとし、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。三好家臣・篠原長房は日乗を堺に監禁した。首に鎖をつけ、両袖に1本の長い木を通し、手首をその木に縛り付けて磔のような格好にし、与えられる食事もわずか、という状態で100日以上も過ごさせたという。だが日乗はこの状態にありながら弁舌をもって周囲の人を動かし、法華経8巻を入手して近隣の人々に読み聞かせ、施しを得ていた。
永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。日乗の罪状は勅命によって許され、4月16日に参内して朝廷に物を献上したという[2]。7月10日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている[3]。これを機に日乗は信長に接近していく。
永禄12年(1569年)1月、征夷大将軍となった足利義昭は、毛利元就と大友宗麟を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する。日乗は久秀の使者として吉川元春の元に赴いている[4]。この春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられているが[5]、フロイスによれば日乗はこの頃から「すでにあらゆる諸貴人に知られていた」という。
4月19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言した。だがこれに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与えており、却下された。
4月20日、日乗は、信長を訪ねてきたルイス・フロイスおよびロレンソ了斎にキリスト教の教えについて訪ね、信長の面前で宗論となった。日乗は1時間半ほど教えについて質問を重ねていたが、途中で怒って刀を抜こうとし、取り押さえられた[6]。この宗論の中でロレンソは、日乗が比叡山で心海上人という人物に教えを受けていた事について尋ねており、日乗もこれを肯定している。また、宗論では信長もロレンソにいくつかの質問をしている。
翌4月21日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言したが、これも却下された。
またキリシタンであった和田惟政を陥れようとして失敗し、天正元年(1573年)頃に信長の寵を失って失脚した。