昭和製鋼所

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鞍山の昭和製鋼所

昭和製鋼所(しょうわせいこうしょ、英語名:Showa Steel Works)とは、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの間、満州で活動していた鉄鋼メーカー。私企業ではあるが政府・軍に統制され、国策会社の色合いが強かった。

沿革

1918年、昭和製鋼所の前身である鞍山製鉄所南満州鉄道の出資で設置された(5月起工、1919年4月作業開始)。この時、鞍山(現在の遼寧省)の地に製鉄所を置いたのは、産鉄地に近い事と奉天までの鉄道網が敷設されていたからと言われている。鞍山製鉄所は主に粗鉄を利用して、鞍山地区の1934年の採鉱量は95万トンに上った。

昭和製鋼所は1929年7月の設立である。1933年6月、再編成の後に社名を昭和製鋼所に変更している。資本金1億円。本社は鞍山にあり、用地面積は270万坪。年産は鉄鋼採掘設備約1690000トン、石灰石採掘設備440000トン、銑鉄製造設備約450000トン、選鉱設備約660000トン、骸炭設備設備約460000トン、製鋼設備(鋼塊)約400000トン、その他窯業、動力、給水、運輸、熱管理などの諸設備、各種副産物製造設備など。1935年度の生産高は銑鉄471725トン、焼結鉱501120トン、骸炭480471トン、硫安7715トン、鋼塊211564トンなど。従業員は職員、雇員約3900名、その他従業員17000余名。

1937年満州国内で南満州鉄道の影響力が強くなりすぎる事を恐れた関東軍が、鮎川義介を招致する。鮎川は持ち株会社である満州重工業開発を設置して、昭和製鋼所も南満州鉄道から譲渡を受ける。

1945年第二次世界大戦での日本軍の敗北により、満州国は崩壊し、昭和製鋼所も廃止された。

昭和製鋼所の生産力

1931年から1932年の満州国内の製鉄の総生産量は約100万トンで、およそその半分は昭和製鋼所で精製されていた。1941年の資料によると、昭和製鋼所の生産力は「175万トンの製鉄と100万トンの製鋼が可能」とある。1942年には全体で360万トンの生産が可能になって、世界的にも有力な製鉄所に発展していた。

この生産力は、当時日本国内の製鉄総生産量の大半を占めていた日本製鐵八幡製鉄所と比べても遜色はなく、当時の日本の勢力圏内では八幡製鉄所に続く第2位の生産力を誇っていた。

また生産力の向上に伴い、昭和製鋼所の製鉄可能量は鞍山地区の産鉄量を上回っていく。これに伴って昭和製鋼所のビジネスモデルは、従来の「鞍山地区の鉄を製鉄して出荷する」から、「中国東北部(河北・朝鮮をも含む)の鉄を製鉄して出荷する」に変化していく。つまりこの過程で昭和製鋼所は、「特定都市の一企業」から「その地方を代表する企業」に成長していったといえる。

但し、増産の要求を満たし続ける事を可能にした原動力として、現地の中国人労働者の過酷な労働実態もその根底にあった。

戦争と昭和製鋼所

太平洋戦争中はその戦略的重要性から、絶えずアメリカ空軍B-29の爆撃を受けており、昭和製鋼所は減産を余儀なくされた。但し、日本国内への爆撃が軍需設備の壊滅目的だったのに対して、昭和製鋼所への爆撃は燃料系統の破壊など「操業できなくさせる」事を狙った爆撃であったため、設備の直接被害はそれほど大きくなかった。

日本の陸軍は昭和製鋼所防衛のために、陸軍の飛行第104戦隊の中から第1中隊を派遣した。この中隊には近代的な四式戦闘機が配備されていた。

爆撃を行ったB-29のうち、ハワード・ジャレル大尉の操縦する機が日本の陸軍航空隊の攻撃を受け損傷したが、日本軍の支配地域ではなく中立国だったソビエト連邦ウラジオストックに着陸した。しかし乗員全員が逮捕されB-29は捕獲された。この機体の研究は、ツポレフTu-4戦略爆撃機が誕生するきっかけになった。

昭和製鋼所の解体

1945年8月、太平洋戦争の終戦と満州国の解体に伴い、昭和製鋼所も事実上の解体を迎える。施設は進駐したソ連軍に接収される。

当初ソ連軍は施設の維持・再操業を考えていた。これは共産党との連携を前提にした行動であった。しかし、共産党軍が東北地方で勢力を拡大する事を恐れた国民党軍・アメリカ軍は反発を示す。時期的には東西冷戦の陰が見え始めた頃であり(チャーチル鉄のカーテン演説はこの少し後)、西側との関係悪化を危惧したソ連は、程なく方針を転換し、設備を解体してソ連国内に持ち帰り始めた。目ぼしい設備を接収したソ連軍は、1946年2月に撤収する。

だが、終戦当時世界有数の製鉄所だった昭和製鋼所は、国民党軍・共産党軍にとっても「戦略上の重要拠点」であり、ソ連軍が引き上げた後も昭和製鋼所跡地の確保(それがかなわない場合は破壊)活動を繰り返していた。共産党軍支配にようやく落ち着いたのは、1948年10月31日の事である。

昭和製鋼所は、鞍山鋼鉄公司(現・鞍山鋼鉄集団)として業務を再開する。再開とはいっても、ソ連軍による主要な設備の撤去と数年来の内戦によって、施設の再開は簡単な事ではなかった。

鞍山鋼鉄公司は上海宝鋼集団にその地位を奪われるまで、長らく中国国内で最大手の製鉄業者であった。

関連項目