後期チャールキヤ朝

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デカン、南インドの中世都市及び石窟寺院
1121年の後期チャールキヤ朝

カリヤーニのチャールキヤ朝(Kalyani Chalukyas;後期チャールキヤ朝西チャールキヤ朝)は、973年-1190年にインド、西部デカン地方を中心に支配した王朝。

ラーシュトラクータ朝の封臣であったタイラ2世(位973年~97年)が、チャールキヤ家の子孫を自称してラーシュトラクータ朝を滅ぼし、その都マーニャケータで統治をはじめた。

やがてカルヤーニに遷都したことから、「バーダーミのチャールキヤ朝」と区別して、「カリヤーニのチャールキヤ朝」、「後期チャールキヤ朝」と呼ばれる。一方、当時東部アーンドラ地方のヴェンギにあった「東チャールキヤ朝」と区別するため、「西チャールキヤ朝」とも呼ばれる。タイラ2世は、ナルマダー川からトゥンガバドラー川に至るまでの地域の支配を確立した。

後期チャールキヤ朝の前途は多難で、まず10世紀末から11世紀前半は、南隣のチョーラ朝ラージャラージャ1世ラージェンドラ1世のもとで全盛時代であって、まずは、これと戦い続けなければならなかった。

1042年頃即位したソーメシュヴァラ1世(位1042年~68年)は、西部デカンをよく治めたが、ヴェンギの支配権をめぐるチョーラ朝との争いでは、敗戦を続けた。彼の没後は、長子のソーメシュヴァラ2世(位1068年~76年)が後を継いだが、弟のヴィクラマディーティヤ(6世)は納得せず、王朝の版図の南側に拠点を築いて独立し、兄王とチョーラ朝のクロトゥンガ1世の圧迫によく耐えて、1076年頃、ついに兄王を捕らえて自らが即位した(位1076年~1126年)。

ヴィクラマディーティヤ6世は、ホイサラ家を筆頭とする強大な封臣たちをよく押さえて軍事的活動を続け、チョーラ朝勢力下のヴェンギの内政に干渉し、一時はこの地の支配権を獲得した。また、彼の治世は安定していて、その宮廷は、詩人、文人たちが多く集まった。サンスクリット詩人ビルハナは、ヴィクラマーンカディーヴァチャリタを著し、この王の功績をたたえている。

しかし、ソーメシュヴァラ3世(位1126年~38年)とその3人の子は文弱であり、その治世に、ホイサラ家、カラチュリ家、ヤーダヴァ家、カーカティヤ家などの封臣たちは、勢力を拡大し、独立離反の動きをするようになっていった。ホイサラ家はマイソール地方南部に勢力を確立してチャールキヤの主家に対抗するようになった。北方のヤーダヴァ家、東方のカーカティヤ家も勢力を蓄えてきた。

12世紀の後半になると、ホイサラ家は、ドーラサムドラを首都として事実上独立し(ホイサラ朝)、チャールキヤ朝の本拠では、カラチュリ家が、都のカリヤーニを占領し、20数年間にわたって王朝の実権を握っているような状況になった。

ソーメシュヴァラ3世の孫であるソーメシュヴァラ4世(位1183年~1190年)は、カラチュリ家を打ち破って、即位したが、デーヴァギリを本拠とするヤーダヴァ朝がカラチュリ家を破って、チャールキア朝の版図の北半を占領した。

さらにヤーダヴァ朝によって都を追われることになったソーメシュヴァラ4世は、南方に逃れたが、ホイサラ朝のバッラーラ2世に敗れて(1190年)、後期チャールキヤ朝はついに滅亡し、その版図は、北のヤーダヴァ朝、南のホイサラ朝、東のカーカティヤ朝などによって分割された。

参考文献

  • 『アジア歴史事典』6(タ~テ)貝塚茂樹、鈴木駿、宮崎市定他編、平凡社、1960年

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