平野長泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Tribot (会話 | 投稿記録) による 2012年3月24日 (土) 01:32個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (bot: WP:BOTREQ#令制国の守・介カテゴリの除去 oldid=41765954)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
平野長泰
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄2年(1559年
死没 寛永5年5月7日1628年6月8日
改名 長勝→長泰
別名 仮名:権平
墓所 泉岳寺東京都港区
官位 従五位下 遠江守
主君 豊臣秀吉
氏族 平野氏
父母 父:平野長治
兄弟 長時長景長泰
長勝
テンプレートを表示

平野 長泰(ひらの ながやす)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将平野長治の子。は初め長勝平野氏鎌倉幕府執権北条氏の庶流の子孫という。一説には長治は清原業賢の子(清原宣賢の孫)とする。

尾張国津島の出身で、若くして羽柴秀吉に仕えた。本能寺の変の後、対立が激しくなった秀吉と柴田勝家1583年(天正11年)近江国賤ヶ岳で決戦をした(賤ヶ岳の戦い)際に福島正則片桐且元らと共に格別の働きをして賤ヶ岳の七本槍と称えられた。その後、戦功を重ねて大和国十市郡田原本近隣七ヶ村において5千石の知行を与えられた。

関ヶ原の戦いでは東軍に付き、旗本として徳川秀忠に仕えた。大坂の陣では豊臣方に合流しようとしたが、江戸留守居役を命じられ留め置かれた。

豊臣方に就こうとする気骨が災いして、七本槍の中で唯一大名とならなかったが、秀忠旗下で旗本として仕え、子孫は九代続いて明治まで生き残り、明治新政府の高直しで田原本藩となった。

創作

小説

外部リンク