平岩親吉

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平岩 親吉
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 天文11年(1542年
死没 慶長16年12月30日1612年2月1日
改名 七之助、親吉
戒名 平田院殿越翁休岳大居士
墓所 愛知県碧南市桑子の妙源寺
愛知県名古屋市千種区平和公園(東区代官町の平田院より移転)
官位 従五位下主計頭
主君 徳川家康義直
上野国厩橋藩主→尾張国犬山藩
氏族 弓削姓平岩氏
父母 父:平岩親重、母:天野貞親の娘
兄弟 正広親吉康重康長
正室:石河正信の娘
吉範、縫殿、伯耆守ほか
養子:松平仙千代
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平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将大名徳川氏の重臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。

生涯

平和公園内の墓(愛知県名古屋市千種区)

天文11年(1542年)、平岩親重の次男として三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)で生まれる。徳川家康と同年であったことから、今川義元の人質時代から家康に付き従った。天文16年(1547年)、小姓として駿府に送られた。

永禄元年(1558年)に初陣する。家康の信任は厚く、三河統一戦や遠江平定戦などで戦功があり、家康の嫡男・松平信康が元服すると、その傅役として信康を補佐した。しかし天正7年(1579年)、織田信長の要求により信康が自害すると、その責任を感じて蟄居謹慎する。後に家康に許され、再び直臣として復帰した。

天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が横死すると、家康は天正11年(1583年)までに甲斐国を平定し、親吉は家康の命令で甲府城の築城を開始し、甲斐の郡代として武田遺臣を慰撫し、国内経営に尽力した。天正18年(1590年)、小田原征伐で戦功を挙げ、関東に移封された家康に従い、厩橋3万3,000石を与えられた。

関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、再び甲斐に戻り、甲府6万3,000石を与えられた。慶長8年(1603年)、先年死んだ養子・松平仙千代の弟である徳川義直が甲斐25万石に封ぜられると、幼少の義直を後見して執政する。慶長12年(1607年)、義直が尾張藩主に転ずると、義直の附家老として尾張に移り、藩政を執行した。また犬山藩主として12万3,000石を領した。

慶長16年(1611年)12月30日、名古屋城二の丸御殿で死去した。享年70。

親吉には嗣子が無かったため、平岩氏が断絶することを惜しんだ家康は、八男の松平仙千代を養嗣子として与えていたが、仙千代は慶長5年(1600年)に早世した。そのため自身の死後、犬山藩の所領は義直に譲るように遺言していたといわれる。しかし家康は、親吉の家系が断絶することをあくまでも惜しみ、その昔、親吉との間に生まれたという噂のあった子を見つけ出し、平岩氏の所領を継がせようとした。しかしその子の母が親吉の子供ではないと固辞したため、大名家平岩氏は慶長16年(1611年)の親吉の死をもって断絶した[1]

脚注

  1. ^ ただし、親吉には兄2人、弟2人、妹4人があり、兄2人はいずれも徳川家康への仕官を固辞して浪々し、弟2人のうち善十郎(康重)は家康に仕官し、その子吉勝は親吉に付属され、犬山城に勤侍した(知行400石)。次弟の助六(康長)は天正18年、武蔵国岩槻城攻めに親吉に従って参陣したが戦死した。妹4人のうち中2人は婿を取って平岩氏を称し、長女と末女は他家へ婚姻した(→「士林沂洄」 巻第七・乙之部一(初付御部屋衆、平岩)- 名古屋市教育委員会編 名古屋叢書(続編)第20巻』、名古屋市、1968年。)。

登場する作品

関連項目