平安丸

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船歴
起工 1929年6月19日
進水 1930年4月16日
竣工 1930年11月24日
その後 1944年2月18日戦没
主要目
総トン数 11,616 トン
載貨重量トン数 10,382 トン
全長 163.3 m
垂線間長 155.44 m
型幅 20.11 m
型深 12.49 m
吃水 9.2 m
主機 ディーゼルエンジン 2基
出力 13,404馬力(最大)
11,000馬力(計画)
航海速力 15.0ノット
最高速力 18.38ノット
船客定員 計 330名
  • 一等 76名
  • 二等 69名
  • 三等 185名

平安丸(へいあんまる)は、かつて日本郵船が所有・運航していた貨客船

なお、1951年に2代目に当たる貨物船「平安丸」が建造されているが、本項では1代目の貨客船について解説する。

概要

「平安丸」は氷川丸級の3番船として、大阪鐵工所桜島工場で1929年(昭和4年)6月19日に起工し1930年(昭和5年)4月16日に進水、11月24日に竣工した。船橋には平安神宮を祀る[1]。氷川丸級3隻(氷川丸《横浜船渠》、日枝丸《横浜船渠》、平安丸)は頭文字『H』を持つ神社名(氷川神社東京千代田区日枝神社、平安神宮)に由来している[1]。本船は12月18日香港を出港し、シアトル航路に就航した。船価は665万(当時)であった。

1941年(昭和16年)8月、日米関係悪化により、本船は空船のまま急遽シアトルを出港し、横浜港に戻った。これが戦前のシアトル航路の最終航海となった。

同年10月3日に日本海軍に徴用され、16日付で横須賀鎮守府所属の特設潜水母艦となる。15日から真珠湾攻撃をまたいだ12月30日まで三菱重工業神戸造船所で艤装工事を受けた。工事中の12月20日に第六艦隊第一潜水戦隊付属の潜水母艦となった。工事により15センチ砲や二連装十三粍高角機銃、その他測距儀や探照燈などが装備された。31日から1942年(昭和17年)2月17日まで輸送任務として、クェゼリン環礁と呉との間を往復。3月16日から18日までにかけて横須賀に移動。停泊中の7月14日に第一潜水戦隊旗艦となる。「平安丸」は補給用魚雷や弾薬を搭載し、8月18日に横須賀を出航。24日にトラック泊地に到着している。12月25日からはトラックとラバウルの間を往復した。

1943年(昭和18年)に入り、「平安丸」はキスカ島撤退作戦に参加するべくトラックを出航し、5月4日に横須賀に到着。15日に第五艦隊の指揮下に入る。27日に横須賀を出航し、6月2日に幌筵に到着。作戦終了後の8月1日に第六艦隊第一潜水戦隊旗艦に復帰し、14日に横須賀に帰還した。9月16日には第十七師団酒井康中将)をラバウルに輸送する丁二号輸送に加わるため横須賀を出航。20日に上海に到着した。同地で特設巡洋艦清澄丸」(国際汽船、8,613トン)、「護国丸」(大阪商船、10,438トン)、水上機母艦秋津洲」などとともに船団を組み、9月24日に上海を出撃[2][3]。船団は10月5日にラバウルに到着し、兵員、物資を揚陸した。「平安丸」は6日にラバウルを出航。9日にトラックに帰還している。14日にはトラック発横須賀行きの第4014甲船団に加わって出航。21日に横須賀に到着し、23日から11月7日まで改装を受ける。15センチ砲と探照燈が撤去され、12センチ高角砲と二連装九六式二十五粍高角機銃の新設、二連装十三粍高角機銃の位置変更、電探、水中聴音器の装備がされた。公試後、14日に横須賀発トラック行きの第3115船団に加わって横須賀を出航。24日にはトラックに到着。以降は沈没するまでトラックを離れず、潜水艦に補給物資を供給し続けた。

1944年(昭和19年)2月17日アメリカ海軍第58任務部隊によるトラック島空襲で左舷船尾に直撃弾1発、至近弾数発を受け推進器が破損し、六番船倉が浸水したが乗員の必死の排水と応急修理で残存した。翌18日の空襲で左舷中央部に直撃弾2発、魚雷1本を受け、中甲板と下甲板、機械室の一部が破壊され火災発生、総員退去となり、9時30分に転覆沈没した。同年3月31日除籍及び解傭。

現在、平安丸は夏島(デュブロン島)の北西、水深36mの地点で右舷を上にして横転状態で沈んでおり、原型をとどめている。船倉には魚雷や潜望鏡、人間魚雷「回天」[要出典]などがある。

艦長

  • 原田文一 予備海軍大佐:1941年11月1日 -
  • 関本織之助 予備海軍大佐:1942年11月10日 -
  • 玉城利治 予備海軍大佐:1943年11月1日 - 1944年3月16日[4]

脚注

  1. ^ a b #三菱、20話16頁『船名の由来は埼玉県氷川神社』
  2. ^ #護国丸1809pp.14-15
  3. ^ #木俣軽巡p.497
  4. ^ 『日本海軍史』第10巻、225頁。

参考文献

  • 『海軍』編集委員会『海軍第十一巻 小艦艇 特務艦艇 雑役船 特設艦船』1981年
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 海人社『世界の艦船』1997年6月号 No.525
  • 海人社『世界の艦船』別冊『日本の客船(1)』
  • 海人社『世界の艦船』1999年8月号 No.556
  • 船舶技術協会『船の科学』1980年1月号 第33巻第1号
  • 戦没船を記録する会 『知られざる戦没船の記録(上)』1995年8月
  • 日本郵船株式会社『七つの海で一世紀 日本郵船創業100周年記念船舶写真集』1985年
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』1994年2月
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第3話 貨客船「氷川丸」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。 
  • 『軍艦平安丸戦時日誌』
  • 『ONI 208-J Japanese Merchant Ships Recognition Manual』

関連項目